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ごはん屋 なつこ  作者: K2MA


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4/13

第4話 雨の花

 雨の日は嫌いだった。


 目覚まし時計をかけなくても、六時半に目が覚めた。


 天井を眺め、しばらくしてから思い出す。


 もう、会社に行かなくていいのだった。


 先週、四十年以上勤めた会社を退職した。六十歳で一度定年を迎え、その後も再雇用で五年働いたから、今度こそ本当の引退だった。


 隣では妻の佳代がまだ眠っている。


 結婚して四十年。佳代は寝るとき、布団を顎の下まで引き上げる。昔から変わらない癖だった。


 起こさないように寝室を出て、台所で湯を沸かした。


 コーヒーの香りが漂い始めた頃、佳代がやってきた。


「おはよう。今日も早いのね」

「目が覚めるんだから仕方がない」

「せっかく退職したんだから、ゆっくり寝ればいいのに」

「四十年の習慣は、そう簡単には抜けないらしい」

「じゃあ、あと四十年かけて直しましょうか」


 カップを差し出すと、佳代はいつもの椅子に座った。砂糖は入れず、牛乳を少し。わざわざ聞くことはない。


 退職の日にもらった花束が、食卓の隅の花瓶に生けてあった。添えられたカードには、『三浦和彦様 長い間、お疲れさまでした』とある。


「今日はどうするの?」

「市役所に寄ってくる。手続きの書類を一つ出し忘れてた」

「お昼は?」

「外で食べてくるよ。久しぶりに、知らない店でも探してみようかと思って」

「いいわね。何かおいしいものを見つけたら教えて」

「お前も今度一緒に行こう」

「ええ。おいしかったらね」


 佳代はそう言って、トーストにバターを塗った。


 二人の子供はとうに独立している。大きな心配事もなく、暮らしは穏やかだった。


 私はこれからの毎日を、少し楽しみにしていた。


     * * *


 午前中の用事は思いのほか早く済んだ。


 市役所を出ると、空は一面の薄い雲に覆われていた。雨になるかもしれない。駅に向かって歩きながら、昼食の店を探した。


 大通りから一本入ったところの、少し奥まった場所に小さな看板が出ている。


『ごはん屋 なつこ』


 引き戸を開けると、醤油と出汁の香りがした。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの向こうで、女将が鍋から顔を上げた。顔を上げるのは一瞬で、手は鍋から離れない。会社にも、ああいう仕事の早い部下がいた。


 窓際のテーブルでは、先客が一人、新聞を広げていた。


「お食事ですか?」

「ええ。何か温かいものをいただこうかと」

「今日は肉じゃががおすすめですよ」

「それはいいな。じゃあ、お願いします」


 カウンターの端に腰を下ろした。


 鍋の中で何かがことことと音を立てている。包丁がまな板に当たる、規則正しい音が続いた。


 会社にいた頃なら、この時間は腕時計ばかり見ていた。昼休みが終わるまであと何分あるか。そればかり数えて、味もろくに分からないまま食事を流し込んだ。


 今は、腕時計を外してきている。


 左の手首が、少し軽い。


「お待たせしました」


 目の前に定食が置かれた。


 湯気を上げる肉じゃが。ほうれん草の胡麻和え。豆腐とねぎの味噌汁。つやつやとした白いご飯と、薄く切られた漬物。


 大ぶりのじゃがいもがごろりと入り、薄切りの牛肉と飴色の玉ねぎ、にんじん、しらたきが添えられていた。透き通った煮汁が、皿の底に溜まっている。


「どうぞ、ごゆっくり」

「いただきます」


 まず、じゃがいもを箸で割った。


 箸先がすうっと入る。崩れそうで崩れない、ちょうどよい柔らかさだった。


 煮汁を少し絡めて、口へ運ぶ。


 ほくほくとした中身がゆっくり砕け、染み込んだ出汁の甘みと醤油の香りが広がる。あとから、じゃがいもそのものの素朴な味が追いかけてきた。


 牛肉を一切れ、ご飯にのせる。玉ねぎの甘さが加わると、また違ったうまさになった。


 ――ああ、おいしいな。


 皿の底の煮汁に、天井の灯りが小さく砕けて映っていた。


 煮汁が、光った。


 砕けた光の粒が、ひとつずつ大きくなった。湯気も、箸の重みも、店内の物音も、その明るさの向こうへ遠のいていく。


 鍋のことことという音だけが残り、やがて、それが雨の音に変わった。


――三浦和彦の記憶――


 雨が降っていた。


 道の端を流れる水。車が通るたびに跳ね上がるしぶき。すれ違う人の傘が、肩先をかすめる。


 私は若かった。


 大学四年の秋。まだ二十一歳で、友人との待ち合わせまで時間があった。


 濡れた靴を気にしながら駅前の通りを歩いていると、市民会館の入口に一枚の紙が貼られていた。


『学生写真展 入場無料』


 雨宿りくらいにはなるだろう。


 それだけの気持ちで、建物に入った。


 小さな展示室だった。


 白い壁に写真が並び、ところどころに手書きの題名が添えてある。カメラを肩から下げた学生たちが、少し緊張した顔で来場者と話していた。


 海を写したもの。山並みを写したもの。街角の子供たちを写したもの。


 写真のことは、よく分からなかった。外は雨だし、待ち合わせまでまだ時間がある。一枚ずつ、ゆっくり眺めて歩いた。


 そして、ある写真の前で足が止まった。


 雨の日の交差点だった。


 灰色の空の下、たくさんの人が信号を待っている。濡れたアスファルトも、遠くの建物も、ごくありふれた街の風景だ。


 赤、青、黄色、緑。


 行き交う傘が、交差点いっぱいに花を咲かせていた。


 水たまりには信号や店先の灯りが映り込み、細かく砕けた光が、雨粒の跡を縫うようにきらめいている。濡れた道路は暗いどころか、色と光で満ちていた。


 誰もが雨を避けて急いでいるはずなのに、写真の中では、人々が楽しげに行き交っているようだった。


 しばらく動けなかった。


 雨の日は嫌いだった。


 靴が濡れる。傘が邪魔になる。空は暗く、服も乾きにくい。


 それなのに、この写真を撮った人の目には、同じ雨がこんなふうに映っている。


 題名は『雨の花』。


 撮影者の名前も添えてあったはずだが、私は写真ばかり見ていた。


「その写真、気になりますか?」


 横から声がした。


 振り向くと、若い女性が立っていた。


 白いブラウスに、淡い水色のカーディガン。肩まで伸びた髪が、少し内側に跳ねている。


 私と同じくらいの年頃だろう。写真の前に立つ私を見て、どこかためらいがちに微笑んだ。


「あ、すみません。ずいぶん長く見ちゃって」

「いえ。嬉しくて。これ、私が撮ったんです」

「そうなんですか」

「はい」


 彼女は写真に目を向けた。


「今日も雨ですもんね」

「でも……」


 私はもう一度、写真の交差点を見た。


「この写真を見てると、雨の日が嫌いじゃなくなりそうです」


 彼女が目を丸くした。


 次の瞬間、その顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか?」

「ええ。こんなに色があるんだなって。いつもは、傘で前が見えないとしか思わないのに」

「そうなんです。あの日、傘がいっぱい重なって、お花みたいだなって思って」


 言葉が弾んでいた。


「信号が変わるたびに、花の形も変わるんですよ。赤い傘がこっちに来たと思ったら、黄色が向こうへ行って。ずっと見てたんです」

「ずっと?」

「はい。何度も撮っちゃいました」

「雨の中で?」

「そう。靴までびしょびしょになりました」


 彼女は濡れたつま先を見せるように、片足を少し上げてみせた。


 私の口元も、つられて緩んだ。


「ほかにも、あなたの写真はありますか?」

「あ、あります。こっちに二枚」


 彼女は少し先の壁を指さした。


 一枚は、朝日に照らされた古い商店街。もう一枚は、川沿いの草むらに落ちた、小さな赤い手袋だった。


「これも、いいですね」

「本当に? よかった」

「写真、詳しくないんですけど」

「詳しくなくても、いいと思ってもらえたなら、それが一番嬉しいです」


 嬉しそうに首をすくめる彼女を見て、待ち合わせの時間を、少しだけ遅らせたくなった。


 名前を聞いてみようか。


 作品の脇に書いてあったはずだが、見ていなかった。今さら札を確かめに戻るのも妙だ。


 そう迷っているうちに、口のほうが先に動いていた。


「三浦です。あの、いい写真を見せてもらって」


 彼女は、三浦さん、と小さく繰り返した。


「私は――」


 そのとき、受付のほうから声がした。


「ミズ、ごめん、ちょっと手伝って!」


 ミズ。水樹さん、だろうか。


 彼女は振り返り、私に頭を下げた。


「すみません。今日は見に来てくださって、ありがとうございました」


 そう言って、受付の机へ小走りに向かった。


 腕時計を見た。待ち合わせの時間が近づいている。


 出口へ向かいかけて、もう一度振り返った。


 彼女は受付の机の向こうで、別の来場者に案内用の紙を渡していた。


 目が合うと、軽く会釈した。


 私も頭を下げた。


 外へ出ると、雨はまだ降っていた。


 通りの向こうで、青い傘と黄色い傘がすれ違った。


 私は、少しだけ足を緩めた。


 濡れた道に映る色を、目で追った。


 そこで、雨の色が白く溶けていった。


 手には箸。目の前には肉じゃが。


 鍋の蓋が触れ合う音。新聞をめくる音。味噌汁から立つ湯気。


 目をしばたたいた。


 雨の匂いまで、まだ鼻の奥に残っている。


 四十年以上前の展示室だった。あんなことがあったのを、今の今まで忘れていた。


 白いブラウスに、水色のカーディガン。ミズと呼ばれていた。本当の名前は、とうとう聞きそびれた。


「お客さん、お茶をお入れしましょうか?」


 女将が急須を手に立っていた。


「あ、ええ。お願いします」


 新しいお茶が注がれた。女将は湯呑みを置くと、厨房へ戻っていった。


 お茶を一口飲み、肉じゃがの残りを食べた。じゃがいもは相変わらず柔らかく、煮汁の甘さが心地よかった。


 あの写真は、いい写真だった。


 四十年以上経った今でも、思い出しただけで、また見たくなるほどに。


「ごちそうさまでした。おいしかったです」

「ありがとうございました。またどうぞ」


 店を出て、歩きながら携帯電話を取り出した。


 佳代に電話をかけようかと思い、やめた。


 昼飯の最中に昔の写真展を思い出した、などと電話で言っても仕方がない。


 帰ってから話そう。


     * * *


「ただいま」

「おかえりなさい。お昼、何食べたの?」

「肉じゃが。うまかったぞ」

「あら、うちでも今週作ったのに。ひょっとして、私のよりおいしかった?」

「……ああ」

「ちょっと」


 佳代が眉を上げた。いつもなら、ここで気の利いた返事の一つも返すところだった。


「いや、悪い。考えごとをしてた」


 佳代は居間の窓際で、洗い上がった布巾を畳んでいた。


 私は向かいに座った。


「今日、妙なことがあってな」

「妙なこと?」

「昼の店で、急に昔のことを思い出したんだ。学生の頃、雨宿りに入った写真展のこと」


 佳代は布巾を折りながら、小首をかしげた。


「写真展?」

「ああ。雨の交差点の写真があってな。色とりどりの傘が写ってて、花みたいだった。『雨の花』って題で」


 佳代の手が、ぴたりと止まった。


「……あなた、どうしてそれを?」

「見たんだよ。撮った子とも、少し話した」

「その子に、何て言ったか覚えてる?」

「たしか、この写真を見てると雨の日が嫌いじゃなくなりそうだ、とか」


 佳代は布巾を膝の上に置いた。


「『嫌いじゃなくなりそうです』」

「え?」

「敬語だったわよ。あなた、初対面の人にはちゃんとしてたから」


 私は佳代の顔を見た。


 白髪が少し混じった髪。目尻に刻まれた細かな皺。毎日見ている横顔だった。


 その奥に、白いブラウスの女子学生がいた。


「……佳代?」

「あれ、私よ」


「……でも、ミズって呼ばれてたぞ」

「旧姓、水野だったでしょう。サークルでは、みんなそう呼んでたの」


「お前、写真なんか撮ってたのか」

「大学の頃、写真サークルにいたって話したじゃない」

「……そうだったか」

「結婚した頃にも話したわよ。あなた、あんまり興味なさそうだったけど」


 佳代は布巾の角を揃えた。


「覚えてたのか。あの日のこと」

「もちろん」


 照れくさくなり、視線を落とした。


「あの写真、展示するまでずいぶん迷ったの。もっと立派な景色を撮ってる人がいっぱいいてね。私のは、ただの交差点でしょう?」

「ただの交差点には見えなかったぞ」

「ええ。あの日、知らない人がずっと前に立っててくれたから。出してよかったって、思えたの」


 佳代は、少し照れたように目を細めた。


「二年後に友達の集まりで会ったとき、あなた、初めましてって言ったのよ」

「申し訳ない」

「いいのよ」


 佳代は手の甲を口に当てて笑った。


 付き合い始めた頃、前に会ったことがあると言われた気がする。思い出せず、そのままになっていた。


「写真、まだ残ってるか?」

「たしか押し入れにあると思うけど。見る?」

「ぜひ」


 佳代は立ち上がり、押し入れの奥から古い紙箱を取り出した。


 中には、厚紙にはさんだ写真が何枚も入っていた。端がわずかに黄ばんだプリントを、一枚ずつ食卓に並べていく。


「あった。これよ」


 あの雨の交差点だった。


 長い年月のせいか、色は褪せていたが、赤や黄色の傘は花のように咲き、水たまりには細かな光が散っていた。


 写真を手に取り、黙って眺めた。


「……やっぱり、いい写真だな」

「ふふ。ありがとう」


 紙箱の底に、封筒が一つ残っていた。


 封がしてある。表には、若い佳代の字で「和彦さんへ」とあった。


「これは?」


 佳代は少し黙ってから言った。


「結婚してすぐの頃に撮ったの。手紙みたいにして渡そうと思って、封をしたのよ。渡す前に、写真を撮ってるって話したら、『今度ゆっくり見る』って」


 封に指をかけると、佳代の手が一瞬、封筒の端を押さえた。


 それから、離れた。


 封を切った。


 駅の階段。雨に濡れた会社の窓。玄関にそろえて脱いだ革靴。


 毎朝、私が通っていた道だった。私が一度も目を止めなかった景色だった。


「……それで、渡さなかったのか」

「そのうち、撮っても、見せる人がいなくなっちゃったのよ」


 佳代は穏やかな顔のまま、空になった封筒を畳んだ。


 雨の日が嫌いじゃなくなりそうです。


 あの言葉で、彼女に撮り続ける理由を渡したのは、私だった。


 それを取り上げたのも、私だった。


 四十年遅れて、写真を一枚ずつ食卓に並べた。写っている革靴は、今も玄関にあるのと同じ形をしていた。


「なあ、また撮ってみないか」

「えっ?」

「写真。今度は一緒にさ」

「いやよ、今さら。もう何十年もカメラ触ってないもの」

「俺だって、写真のことはさっぱり分からない。教えてくれないか」

「教えるって言ったって、今のカメラは昔と全然違うでしょう?」

「だったら、二人で覚えればいい」


 佳代はすぐには答えなかった。


「あなた、退職した途端にずいぶん熱心ね」

「時間はたっぷりあるからな」

「まずは見に行くだけ、なら」

「ああ。見に行くだけ」


 佳代は、また写真に目を落とした。


「今のカメラって、撮った写真がその場で見られるんでしょう?」

「そうらしいな」

「失敗しても、すぐ撮り直せるのよね」

「たぶんな」

「それは、ちょっと便利そうね」


 私は佳代の顔を覗き込んだ。


「見に行くだけ、だったな」

「ええ、もちろん」


 佳代は、何食わぬ顔で頷いた。


     * * *


 翌週、二人で駅前のカメラ店へ出かけた。


 佳代は最初、棚の前でしきりに「難しそうね」と言っていた。それが店員の説明を聞き、何台か手に取るうちに、指がダイヤルを探すようになった。


「ここで露出を変えられるの?」


 試しに窓際を撮ると、画面に写真が表示された。


「あら、本当にすぐ見られる。昔は現像するまで分からなかったのよ」


 画面を拡大する佳代の横顔に、展示室の彼女が重なった。


 私が店員に別の機種のことを聞いているうちに、佳代は一台の小さなカメラを抱えて、もうレジに並んでいた。財布を出したのも、佳代だった。


 帰り道、佳代は店でもらった説明書を何度も開いていた。


「最初は乗り気じゃなかったくせに」

「誰かさんが、しつこく誘うからでしょう」


 それ以上からかわずに、隣を歩いた。


 家に帰ると、佳代は真っ先に食卓の花瓶へカメラを向けた。退職の日にもらった花束は、少しずつ花びらを落とし始めていた。


「最初に撮るのが、それか」

「枯れる前に撮っておこうと思って。あなたの四十年分のお花でしょう」


 佳代は角度を変えながら、何枚もシャッターを切った。


 それから、よく近所を歩くようになった。


 佳代はあちこちで足を止めた。私も携帯電話で撮ってみるのだが、同じ場所を撮ったはずなのに、佳代の写真はどこか違って見えた。


「どうしてそんなふうに撮れるんだ?」

「ここから見ると、後ろの木がちょうど入るでしょう?」

「なるほど。ちょっと貸してくれ」


 ある夕方、川沿いの道で、私のほうが先に足を止めた。


 水面に、橋の灯りが細かく揺れて映っていた。


 砕けた光の粒が、あの写真の水たまりに似ていた。


 携帯電話を向けて、一枚撮る。画面を見せると、佳代は少し黙ってから言った。


「いいじゃない」

「そうか?」

「ええ。私、通り過ぎてたもの」


 なんだか、くすぐったかった。


 夕食のあとは、新聞を畳んで、その日の写真を二人で見るようになった。


     * * *


 ある朝。


 雨の音で目を覚ました。


 窓の外は薄暗い。軒先から落ちる雨粒が、庭の植木鉢を濡らしていた。


 食卓では佳代が、いつものようにコーヒーを飲んでいる。


「あら、起きたの。今日は雨ね」

「そうだな」

「ちょっとお散歩は難しいかしら」


 カーテンの向こうを眺めた。


 道路を歩く人の傘が、灰色の景色の中で小さな色を作っている。濡れた地面には、朝の光が柔らかく映っていた。


「佳代」

「なあに?」

「今日は写真を撮りに行こう」

「えっ、今日?」

「ああ。雨だから」


 佳代は少し驚いた顔をした。


 それから、目尻の皺が深くなった。


「そうね。雨の日にしか撮れないものもあるかもね」

「お前なら、きっと見つけるだろう」

「あなたも見つけるのよ」

「そうだったな」


 佳代はカップを置いて立ち上がった。


「じゃあ、カメラの準備をしてくるわ。あなたは傘をお願い」


 玄関の傘立てから、自分の傘を抜きかけて、戻した。


 佳代の赤い傘を、一本だけ手に取った。


 雨は静かに降り続いていた。


         ――了――


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