第4話 雨の花
雨の日は嫌いだった。
目覚まし時計をかけなくても、六時半に目が覚めた。
天井を眺め、しばらくしてから思い出す。
もう、会社に行かなくていいのだった。
先週、四十年以上勤めた会社を退職した。六十歳で一度定年を迎え、その後も再雇用で五年働いたから、今度こそ本当の引退だった。
隣では妻の佳代がまだ眠っている。
結婚して四十年。佳代は寝るとき、布団を顎の下まで引き上げる。昔から変わらない癖だった。
起こさないように寝室を出て、台所で湯を沸かした。
コーヒーの香りが漂い始めた頃、佳代がやってきた。
「おはよう。今日も早いのね」
「目が覚めるんだから仕方がない」
「せっかく退職したんだから、ゆっくり寝ればいいのに」
「四十年の習慣は、そう簡単には抜けないらしい」
「じゃあ、あと四十年かけて直しましょうか」
カップを差し出すと、佳代はいつもの椅子に座った。砂糖は入れず、牛乳を少し。わざわざ聞くことはない。
退職の日にもらった花束が、食卓の隅の花瓶に生けてあった。添えられたカードには、『三浦和彦様 長い間、お疲れさまでした』とある。
「今日はどうするの?」
「市役所に寄ってくる。手続きの書類を一つ出し忘れてた」
「お昼は?」
「外で食べてくるよ。久しぶりに、知らない店でも探してみようかと思って」
「いいわね。何かおいしいものを見つけたら教えて」
「お前も今度一緒に行こう」
「ええ。おいしかったらね」
佳代はそう言って、トーストにバターを塗った。
二人の子供はとうに独立している。大きな心配事もなく、暮らしは穏やかだった。
私はこれからの毎日を、少し楽しみにしていた。
* * *
午前中の用事は思いのほか早く済んだ。
市役所を出ると、空は一面の薄い雲に覆われていた。雨になるかもしれない。駅に向かって歩きながら、昼食の店を探した。
大通りから一本入ったところの、少し奥まった場所に小さな看板が出ている。
『ごはん屋 なつこ』
引き戸を開けると、醤油と出汁の香りがした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、女将が鍋から顔を上げた。顔を上げるのは一瞬で、手は鍋から離れない。会社にも、ああいう仕事の早い部下がいた。
窓際のテーブルでは、先客が一人、新聞を広げていた。
「お食事ですか?」
「ええ。何か温かいものをいただこうかと」
「今日は肉じゃががおすすめですよ」
「それはいいな。じゃあ、お願いします」
カウンターの端に腰を下ろした。
鍋の中で何かがことことと音を立てている。包丁がまな板に当たる、規則正しい音が続いた。
会社にいた頃なら、この時間は腕時計ばかり見ていた。昼休みが終わるまであと何分あるか。そればかり数えて、味もろくに分からないまま食事を流し込んだ。
今は、腕時計を外してきている。
左の手首が、少し軽い。
「お待たせしました」
目の前に定食が置かれた。
湯気を上げる肉じゃが。ほうれん草の胡麻和え。豆腐とねぎの味噌汁。つやつやとした白いご飯と、薄く切られた漬物。
大ぶりのじゃがいもがごろりと入り、薄切りの牛肉と飴色の玉ねぎ、にんじん、しらたきが添えられていた。透き通った煮汁が、皿の底に溜まっている。
「どうぞ、ごゆっくり」
「いただきます」
まず、じゃがいもを箸で割った。
箸先がすうっと入る。崩れそうで崩れない、ちょうどよい柔らかさだった。
煮汁を少し絡めて、口へ運ぶ。
ほくほくとした中身がゆっくり砕け、染み込んだ出汁の甘みと醤油の香りが広がる。あとから、じゃがいもそのものの素朴な味が追いかけてきた。
牛肉を一切れ、ご飯にのせる。玉ねぎの甘さが加わると、また違ったうまさになった。
――ああ、おいしいな。
皿の底の煮汁に、天井の灯りが小さく砕けて映っていた。
煮汁が、光った。
砕けた光の粒が、ひとつずつ大きくなった。湯気も、箸の重みも、店内の物音も、その明るさの向こうへ遠のいていく。
鍋のことことという音だけが残り、やがて、それが雨の音に変わった。
――三浦和彦の記憶――
雨が降っていた。
道の端を流れる水。車が通るたびに跳ね上がるしぶき。すれ違う人の傘が、肩先をかすめる。
私は若かった。
大学四年の秋。まだ二十一歳で、友人との待ち合わせまで時間があった。
濡れた靴を気にしながら駅前の通りを歩いていると、市民会館の入口に一枚の紙が貼られていた。
『学生写真展 入場無料』
雨宿りくらいにはなるだろう。
それだけの気持ちで、建物に入った。
小さな展示室だった。
白い壁に写真が並び、ところどころに手書きの題名が添えてある。カメラを肩から下げた学生たちが、少し緊張した顔で来場者と話していた。
海を写したもの。山並みを写したもの。街角の子供たちを写したもの。
写真のことは、よく分からなかった。外は雨だし、待ち合わせまでまだ時間がある。一枚ずつ、ゆっくり眺めて歩いた。
そして、ある写真の前で足が止まった。
雨の日の交差点だった。
灰色の空の下、たくさんの人が信号を待っている。濡れたアスファルトも、遠くの建物も、ごくありふれた街の風景だ。
赤、青、黄色、緑。
行き交う傘が、交差点いっぱいに花を咲かせていた。
水たまりには信号や店先の灯りが映り込み、細かく砕けた光が、雨粒の跡を縫うようにきらめいている。濡れた道路は暗いどころか、色と光で満ちていた。
誰もが雨を避けて急いでいるはずなのに、写真の中では、人々が楽しげに行き交っているようだった。
しばらく動けなかった。
雨の日は嫌いだった。
靴が濡れる。傘が邪魔になる。空は暗く、服も乾きにくい。
それなのに、この写真を撮った人の目には、同じ雨がこんなふうに映っている。
題名は『雨の花』。
撮影者の名前も添えてあったはずだが、私は写真ばかり見ていた。
「その写真、気になりますか?」
横から声がした。
振り向くと、若い女性が立っていた。
白いブラウスに、淡い水色のカーディガン。肩まで伸びた髪が、少し内側に跳ねている。
私と同じくらいの年頃だろう。写真の前に立つ私を見て、どこかためらいがちに微笑んだ。
「あ、すみません。ずいぶん長く見ちゃって」
「いえ。嬉しくて。これ、私が撮ったんです」
「そうなんですか」
「はい」
彼女は写真に目を向けた。
「今日も雨ですもんね」
「でも……」
私はもう一度、写真の交差点を見た。
「この写真を見てると、雨の日が嫌いじゃなくなりそうです」
彼女が目を丸くした。
次の瞬間、その顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。こんなに色があるんだなって。いつもは、傘で前が見えないとしか思わないのに」
「そうなんです。あの日、傘がいっぱい重なって、お花みたいだなって思って」
言葉が弾んでいた。
「信号が変わるたびに、花の形も変わるんですよ。赤い傘がこっちに来たと思ったら、黄色が向こうへ行って。ずっと見てたんです」
「ずっと?」
「はい。何度も撮っちゃいました」
「雨の中で?」
「そう。靴までびしょびしょになりました」
彼女は濡れたつま先を見せるように、片足を少し上げてみせた。
私の口元も、つられて緩んだ。
「ほかにも、あなたの写真はありますか?」
「あ、あります。こっちに二枚」
彼女は少し先の壁を指さした。
一枚は、朝日に照らされた古い商店街。もう一枚は、川沿いの草むらに落ちた、小さな赤い手袋だった。
「これも、いいですね」
「本当に? よかった」
「写真、詳しくないんですけど」
「詳しくなくても、いいと思ってもらえたなら、それが一番嬉しいです」
嬉しそうに首をすくめる彼女を見て、待ち合わせの時間を、少しだけ遅らせたくなった。
名前を聞いてみようか。
作品の脇に書いてあったはずだが、見ていなかった。今さら札を確かめに戻るのも妙だ。
そう迷っているうちに、口のほうが先に動いていた。
「三浦です。あの、いい写真を見せてもらって」
彼女は、三浦さん、と小さく繰り返した。
「私は――」
そのとき、受付のほうから声がした。
「ミズ、ごめん、ちょっと手伝って!」
ミズ。水樹さん、だろうか。
彼女は振り返り、私に頭を下げた。
「すみません。今日は見に来てくださって、ありがとうございました」
そう言って、受付の机へ小走りに向かった。
腕時計を見た。待ち合わせの時間が近づいている。
出口へ向かいかけて、もう一度振り返った。
彼女は受付の机の向こうで、別の来場者に案内用の紙を渡していた。
目が合うと、軽く会釈した。
私も頭を下げた。
外へ出ると、雨はまだ降っていた。
通りの向こうで、青い傘と黄色い傘がすれ違った。
私は、少しだけ足を緩めた。
濡れた道に映る色を、目で追った。
そこで、雨の色が白く溶けていった。
手には箸。目の前には肉じゃが。
鍋の蓋が触れ合う音。新聞をめくる音。味噌汁から立つ湯気。
目をしばたたいた。
雨の匂いまで、まだ鼻の奥に残っている。
四十年以上前の展示室だった。あんなことがあったのを、今の今まで忘れていた。
白いブラウスに、水色のカーディガン。ミズと呼ばれていた。本当の名前は、とうとう聞きそびれた。
「お客さん、お茶をお入れしましょうか?」
女将が急須を手に立っていた。
「あ、ええ。お願いします」
新しいお茶が注がれた。女将は湯呑みを置くと、厨房へ戻っていった。
お茶を一口飲み、肉じゃがの残りを食べた。じゃがいもは相変わらず柔らかく、煮汁の甘さが心地よかった。
あの写真は、いい写真だった。
四十年以上経った今でも、思い出しただけで、また見たくなるほどに。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「ありがとうございました。またどうぞ」
店を出て、歩きながら携帯電話を取り出した。
佳代に電話をかけようかと思い、やめた。
昼飯の最中に昔の写真展を思い出した、などと電話で言っても仕方がない。
帰ってから話そう。
* * *
「ただいま」
「おかえりなさい。お昼、何食べたの?」
「肉じゃが。うまかったぞ」
「あら、うちでも今週作ったのに。ひょっとして、私のよりおいしかった?」
「……ああ」
「ちょっと」
佳代が眉を上げた。いつもなら、ここで気の利いた返事の一つも返すところだった。
「いや、悪い。考えごとをしてた」
佳代は居間の窓際で、洗い上がった布巾を畳んでいた。
私は向かいに座った。
「今日、妙なことがあってな」
「妙なこと?」
「昼の店で、急に昔のことを思い出したんだ。学生の頃、雨宿りに入った写真展のこと」
佳代は布巾を折りながら、小首をかしげた。
「写真展?」
「ああ。雨の交差点の写真があってな。色とりどりの傘が写ってて、花みたいだった。『雨の花』って題で」
佳代の手が、ぴたりと止まった。
「……あなた、どうしてそれを?」
「見たんだよ。撮った子とも、少し話した」
「その子に、何て言ったか覚えてる?」
「たしか、この写真を見てると雨の日が嫌いじゃなくなりそうだ、とか」
佳代は布巾を膝の上に置いた。
「『嫌いじゃなくなりそうです』」
「え?」
「敬語だったわよ。あなた、初対面の人にはちゃんとしてたから」
私は佳代の顔を見た。
白髪が少し混じった髪。目尻に刻まれた細かな皺。毎日見ている横顔だった。
その奥に、白いブラウスの女子学生がいた。
「……佳代?」
「あれ、私よ」
「……でも、ミズって呼ばれてたぞ」
「旧姓、水野だったでしょう。サークルでは、みんなそう呼んでたの」
「お前、写真なんか撮ってたのか」
「大学の頃、写真サークルにいたって話したじゃない」
「……そうだったか」
「結婚した頃にも話したわよ。あなた、あんまり興味なさそうだったけど」
佳代は布巾の角を揃えた。
「覚えてたのか。あの日のこと」
「もちろん」
照れくさくなり、視線を落とした。
「あの写真、展示するまでずいぶん迷ったの。もっと立派な景色を撮ってる人がいっぱいいてね。私のは、ただの交差点でしょう?」
「ただの交差点には見えなかったぞ」
「ええ。あの日、知らない人がずっと前に立っててくれたから。出してよかったって、思えたの」
佳代は、少し照れたように目を細めた。
「二年後に友達の集まりで会ったとき、あなた、初めましてって言ったのよ」
「申し訳ない」
「いいのよ」
佳代は手の甲を口に当てて笑った。
付き合い始めた頃、前に会ったことがあると言われた気がする。思い出せず、そのままになっていた。
「写真、まだ残ってるか?」
「たしか押し入れにあると思うけど。見る?」
「ぜひ」
佳代は立ち上がり、押し入れの奥から古い紙箱を取り出した。
中には、厚紙にはさんだ写真が何枚も入っていた。端がわずかに黄ばんだプリントを、一枚ずつ食卓に並べていく。
「あった。これよ」
あの雨の交差点だった。
長い年月のせいか、色は褪せていたが、赤や黄色の傘は花のように咲き、水たまりには細かな光が散っていた。
写真を手に取り、黙って眺めた。
「……やっぱり、いい写真だな」
「ふふ。ありがとう」
紙箱の底に、封筒が一つ残っていた。
封がしてある。表には、若い佳代の字で「和彦さんへ」とあった。
「これは?」
佳代は少し黙ってから言った。
「結婚してすぐの頃に撮ったの。手紙みたいにして渡そうと思って、封をしたのよ。渡す前に、写真を撮ってるって話したら、『今度ゆっくり見る』って」
封に指をかけると、佳代の手が一瞬、封筒の端を押さえた。
それから、離れた。
封を切った。
駅の階段。雨に濡れた会社の窓。玄関にそろえて脱いだ革靴。
毎朝、私が通っていた道だった。私が一度も目を止めなかった景色だった。
「……それで、渡さなかったのか」
「そのうち、撮っても、見せる人がいなくなっちゃったのよ」
佳代は穏やかな顔のまま、空になった封筒を畳んだ。
雨の日が嫌いじゃなくなりそうです。
あの言葉で、彼女に撮り続ける理由を渡したのは、私だった。
それを取り上げたのも、私だった。
四十年遅れて、写真を一枚ずつ食卓に並べた。写っている革靴は、今も玄関にあるのと同じ形をしていた。
「なあ、また撮ってみないか」
「えっ?」
「写真。今度は一緒にさ」
「いやよ、今さら。もう何十年もカメラ触ってないもの」
「俺だって、写真のことはさっぱり分からない。教えてくれないか」
「教えるって言ったって、今のカメラは昔と全然違うでしょう?」
「だったら、二人で覚えればいい」
佳代はすぐには答えなかった。
「あなた、退職した途端にずいぶん熱心ね」
「時間はたっぷりあるからな」
「まずは見に行くだけ、なら」
「ああ。見に行くだけ」
佳代は、また写真に目を落とした。
「今のカメラって、撮った写真がその場で見られるんでしょう?」
「そうらしいな」
「失敗しても、すぐ撮り直せるのよね」
「たぶんな」
「それは、ちょっと便利そうね」
私は佳代の顔を覗き込んだ。
「見に行くだけ、だったな」
「ええ、もちろん」
佳代は、何食わぬ顔で頷いた。
* * *
翌週、二人で駅前のカメラ店へ出かけた。
佳代は最初、棚の前でしきりに「難しそうね」と言っていた。それが店員の説明を聞き、何台か手に取るうちに、指がダイヤルを探すようになった。
「ここで露出を変えられるの?」
試しに窓際を撮ると、画面に写真が表示された。
「あら、本当にすぐ見られる。昔は現像するまで分からなかったのよ」
画面を拡大する佳代の横顔に、展示室の彼女が重なった。
私が店員に別の機種のことを聞いているうちに、佳代は一台の小さなカメラを抱えて、もうレジに並んでいた。財布を出したのも、佳代だった。
帰り道、佳代は店でもらった説明書を何度も開いていた。
「最初は乗り気じゃなかったくせに」
「誰かさんが、しつこく誘うからでしょう」
それ以上からかわずに、隣を歩いた。
家に帰ると、佳代は真っ先に食卓の花瓶へカメラを向けた。退職の日にもらった花束は、少しずつ花びらを落とし始めていた。
「最初に撮るのが、それか」
「枯れる前に撮っておこうと思って。あなたの四十年分のお花でしょう」
佳代は角度を変えながら、何枚もシャッターを切った。
それから、よく近所を歩くようになった。
佳代はあちこちで足を止めた。私も携帯電話で撮ってみるのだが、同じ場所を撮ったはずなのに、佳代の写真はどこか違って見えた。
「どうしてそんなふうに撮れるんだ?」
「ここから見ると、後ろの木がちょうど入るでしょう?」
「なるほど。ちょっと貸してくれ」
ある夕方、川沿いの道で、私のほうが先に足を止めた。
水面に、橋の灯りが細かく揺れて映っていた。
砕けた光の粒が、あの写真の水たまりに似ていた。
携帯電話を向けて、一枚撮る。画面を見せると、佳代は少し黙ってから言った。
「いいじゃない」
「そうか?」
「ええ。私、通り過ぎてたもの」
なんだか、くすぐったかった。
夕食のあとは、新聞を畳んで、その日の写真を二人で見るようになった。
* * *
ある朝。
雨の音で目を覚ました。
窓の外は薄暗い。軒先から落ちる雨粒が、庭の植木鉢を濡らしていた。
食卓では佳代が、いつものようにコーヒーを飲んでいる。
「あら、起きたの。今日は雨ね」
「そうだな」
「ちょっとお散歩は難しいかしら」
カーテンの向こうを眺めた。
道路を歩く人の傘が、灰色の景色の中で小さな色を作っている。濡れた地面には、朝の光が柔らかく映っていた。
「佳代」
「なあに?」
「今日は写真を撮りに行こう」
「えっ、今日?」
「ああ。雨だから」
佳代は少し驚いた顔をした。
それから、目尻の皺が深くなった。
「そうね。雨の日にしか撮れないものもあるかもね」
「お前なら、きっと見つけるだろう」
「あなたも見つけるのよ」
「そうだったな」
佳代はカップを置いて立ち上がった。
「じゃあ、カメラの準備をしてくるわ。あなたは傘をお願い」
玄関の傘立てから、自分の傘を抜きかけて、戻した。
佳代の赤い傘を、一本だけ手に取った。
雨は静かに降り続いていた。
――了――




