第3話 めるぴっぴ
山岸梨子、十七歳。
人生最大の危機に直面していた。
大学受験? 違う。
進路? それも違う。
めるぴっぴの握手会が、今日、この街で開催される。
そして梨子には、握手券がない。
抽選には落ちた。追加募集もなかった。めるぴっぴは握手会をめったに開かない。次があるという保証など、地球上のどこにも存在しない。
しかも、今日に限って全国模試である。
午前の二科目を受け終えた梨子は、予備校の建物を出て、スマートフォンを握りしめていた。
『で、午後も受けるんだよね?』
友人の真帆からメッセージが届いている。
『当然!』
と打ちかけ、消す。
当然とは何だろう。何をもって当然とするのか。人類はその問いに、まだ答えを出せていない。
『握手券ないだろ』
『あるよ。推しへの愛が』
『それは券じゃねー』
正論だった。ぐうの音も出ない。
会場へ行ってどうするのかと問われれば、答えはある。会場ではめるぴっぴが呼吸している。それだけで、その一帯の空気には価値が発生する。本人に会えなくても、せめてその空気を吸いたい。
しかし午後には数学の試験がある。受験料の六千円は、母がパートのシフトを一日増やした月から出ている。昨日の夕飯でも「明日は頑張ってね」と言っていた。
そんな母に、「推しと同じ空気を吸いたいので模試を抜けました」と説明できるだろうか。
できない。
できるわけがない。
梨子はひとまず昼食を取ることにした。空腹時に人生の決断をしてはいけない。
* * *
大通りを一本外れた路地で、梨子は小さな看板を見つけた。
『ごはん屋 なつこ』
午後の数学は二時半から。時間はまだあるが、ゆっくり悩んでいられるほどではない。
引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
店内はこぢんまりとしていた。ほかに客はいなかった。
カウンターの向こうに、エプロン姿の女将がいた。髪をきちんとまとめていて、笑顔が柔らかい。
癒やし系お姉さん属性。
しかも料理ができる。設定が強い。
「今日は唐揚げがおすすめですよ」
「それください。定食で!」
「はい。少々お待ちくださいね」
女将が小鍋を火にかけた。奥から、じゅうっと油の音が聞こえてくる。
梨子はスマートフォンを開いた。
めるぴっぴの公式アカウントには、今日の握手会のお知らせが固定されている。
『当選者の皆さまとお会いできるのを楽しみにしています!』
当選者の皆さま。
選ばれし民たち。
私は選ばれなかった側の民。
梨子は画面を伏せた。世の中には、見続けると心が削れる文字列がある。
やっぱり、午後は受けよう。
空気を吸ったところで、握手できるわけじゃない。六千円分の数学を捨てる理由にはならない。
真帆に『受けるよ』と打って、送信ボタンの上で親指を止めた。
「お待たせしました」
運ばれてきた唐揚げは、大ぶりのものが五個。こんがりとした衣の表面に、細かな突起が立っている。千切りキャベツの脇にはレモンが添えられ、湯気の立つ味噌汁と漬物、つやのある白いご飯が並んだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
「いただきます!」
梨子は一個つまみ上げた。
重い。
これは強い。センターの風格がある。
ひと口かじると、さくっ、と衣が弾けた。続いて熱い肉汁が舌に広がる。生姜と醤油の香りがふわっと抜け、柔らかい鶏肉のうまみが追いかけてきた。
……うっま。
何これ。
衣が完璧。中身も完璧。五個全員がセンター候補。こんな完成度の高いユニット、私は知らない。
白いご飯を頬張る。唐揚げの味が口の中に残っていて、何もかかっていないご飯までおいしい。
梨子は思わず、もう一個に箸を伸ばした。
揚げたての衣の中で、油がまだぱちぱちと小さく鳴っている。
油の粒が、光った。
え、唐揚げって光るの? センターの風格どころか、照明まで自前?
そう思っているうちに、光が視界を埋めた。
油の香りも、箸の重さも遠のいていく。衣の中のぱちぱちという音だけが、だんだん大きくなる。
気がつくと、それは拍手の音だった。
――山岸梨子の記憶――
光る棒が、暗い客席を埋め尽くしていた。
歓声。拍手。誰かのすすり泣く声。
梨子は大きなホールの客席に立っていた。手には、何度も使ったらしいペンライト。知らないはずの曲の最後の余韻が、胸の奥に残っている。
ステージに、めるぴっぴがいた。
今より少し大人びた顔。長い髪を揺らし、両手でマイクを握っている。
「今日で、めるぴっぴとしての活動を卒業します」
梨子の胸が、ぎゅっと縮んだ。
卒業。
その言葉の意味は分かる。分かるのに、頭が受け入れない。
めるぴっぴは笑おうとして、少しだけ声を震わせた。
「今まで、ありがとうございました」
会場が泣いていた。
梨子も泣いていた。
そして、その涙の奥に、一つの後悔があった。
あの日、地元で握手会があった。
券がないから、行かなかった。
会えるはずなんてないと、自分で決めてしまった。
結局、一度も近くで「ありがとう」を伝えられなかった。
ステージが暗くなる。
めるぴっぴの姿が、光の向こうへ消えていく。
もう一度、会いたい。
そう思ったとき、ステージの光が白く溶けた。
箸の先に、二個目の唐揚げがぶら下がっていた。
梨子はしばらく、瞬きもできなかった。
何、今の。
めるぴっぴ、卒業?
いや、待って。まだ今日の握手会も終わってない。卒業発表なんて聞いてない。あの会場も知らない。
夢? 妄想? 空腹でついに脳が推しの将来まで自動生成した?
梨子はカウンターの向こうを見た。
「あの、この唐揚げ、何か入ってます?」
「生姜と、にんにくを少し」
女将はにこにこしている。
そういうことではない。でも、たぶん本当にそれだけなのだ。
自分でも分からない。
ただ、ステージからめるぴっぴが消えていく感覚だけが、胸に残っていた。
いつか終わる。
それだけは、本当だ。
梨子はスマートフォンの時刻を見た。午後の数学は二時半から。会場は予備校から電車で二駅。
会場へ行っても握手はできない。
でも、同じ街にいる推しに、せめて少しだけ近づきたい。
……よし。空気だけ吸って、すぐ戻ろう。
数学には間に合わせる。模試も推しも諦めない。完璧な作戦だ。
梨子は残りの唐揚げを味わい、ご飯を食べきった。唐揚げは最後の一個まで、信じられないほどおいしかった。
席を立つ。
「ごちそうさまでした! めちゃくちゃおいしかったです!」
「ありがとうございました。またどうぞ」
店を出て、真帆にメッセージを送る。
『会場、ちょっとだけ行ってくる!』
『数学は?』
『二時半までに戻る!』
『券ないだろ』
『空気だけ吸って帰る!』
帰る。もちろん帰る。
推しへの愛と数学の答案は両立できる。私は今、その歴史的実証実験に挑んでいる。
* * *
会場のある駅に着いたとき、梨子は小走りだった。
午後一時半過ぎ。握手会の受付までは、まだ少し時間がある。
予備校まで戻るには、電車を使っても二十分はかかる。十分だけ、この場所の空気を吸ったら引き返そう。
胸が高鳴る。
推しが、この街にいる。
同じ県。同じ市。同じ駅の近く。
すごい。地理ってすごい。
駅前の広場を抜けようとしたとき、前を歩いていた年配の女性が、ふいに手提げ袋を落とした。
水筒、小さなポーチ、飴の袋。あれこれが地面に散らばる。
梨子は反射的に足を止め――かけて、二度見した。
うちわ。
落ちた荷物の中に、めるぴっぴの顔が印刷された公式うちわがある。
同担!?
このご婦人、同担!?
「だ、大丈夫ですか! 拾います!」
「あら、ありがとう。もう、慌てちゃって」
梨子はポーチを拾い、水筒を立て、飴の袋を追いかけた。うちわだけは、地面に顔の面をつけないよう、慎重に持ち上げる。
推しのご尊顔をアスファルトに擦るなど、あってはならない。
最後に薄い封筒を拾うと、口から細長い紙がのぞいていた。
『めるぴっぴ 特別握手会』
握手券だ。
選ばれし民の証を間近で見てしまった。眩しい。
欲しい。
喉から手が出るほど欲しい。
いや、手どころか内臓も出る。
譲ってください、と言えたら。
だが、それを口にした瞬間、私はただの「券目当てで親切にした人」になる。
オタクには、守るべき仁義がある。
梨子はそれ以上見ないようにして、女性に封筒を返した。
「お好きなんですか?」
「孫に頼まれて持ってきたの。私は詳しくないんだけどね。本当は娘も来るはずだったんだけど、急に仕事が入っちゃって」
違った。同担のおばあさまではなく、同担を支えるおばあさまだった。
それはそれで尊い。
……娘さんが、来られない。
ということは、一人分――
考えるな。
今それを考えた時点で、私の親切は親切ではなくなる。
最後に、小さな星形のキーホルダーが転がっているのを見つけた。黄色いフェルトに、ピンクの糸で大きく『M』の文字が縫ってある。端の縫い目が少し曲がっている。
「これ、かわいいですね!」
「孫たちとお揃いなの。私が三つ作ったのよ」
「手作り!? めちゃくちゃいいです!」
女性は、曲がった縫い目を指でなぞった。
「孫たちと来たんだけど、人が多くて、はぐれちゃったの。会場のほうへ行けば会えると思うんだけど」
「会えるといいですね! お気をつけて!」
梨子は袋を渡し、女性を見送った。
いいものを見た。
手作りグッズには、公式グッズとは違う強さがある。あの曲がった縫い目には、愛が詰まっていた。
さて、私も会場へ。
時刻は午後一時四十五分。
残された時間はほとんどない。それなのに、気がつくと人混みの中に黄色い星を探していた。三つ作った、と言っていた。あと二つ、この辺りのどこかにある。
植え込みの脇で、黄色い星が揺れていた。
小さな男の子のリュックだった。胸には、めるぴっぴの缶バッジ。ピンクの『M』の縫い目が、ちゃんと曲がっている。
見つけた。二つ目。
ただ、男の子は今にも泣きそうな顔で、あたりを見回していた。
「ねえ、誰か探してる?」
「……お姉ちゃん」
「よし、一緒に探そう。まず係の人ね!」
同担の迷子を見捨てる選択肢はない。梨子は男の子を案内所へ連れていった。スタッフに話をすると、男の子は姉と祖母とはぐれたらしい。
「握手、間に合う?」
「間に合わせよう。めるぴっぴが待ってるんだもん」
そのとき、案内所の前を目元の赤い少女が通った。中学生くらい。めるぴっぴのTシャツに、黄色い星のキーホルダー。
三つ目。
「スタッフさん! あの子、お姉ちゃんでは!?」
大当たりだった。
「お姉ちゃん!」
「もう、どこ行ってたの!」
少女は弟を抱きしめた途端、泣き出した。
「おばあちゃんも見つからないし、握手会に行けなくなるかと思って……」
梨子の胸がぎゅっと痛んだ。推しに会えなくなる絶望。それだけは分かりすぎる。
「大丈夫! 弟くんは無事だし、おばあちゃんもスタッフさんが探してくれてる。まだ終わってない!」
「でも……」
「会えないって、まだ決まってないでしょ!」
自分の声が、妙に大きく聞こえた。
少女は涙を拭いて、泣き笑いになった。
「お姉さんも、めるぴっぴ好きなの?」
「人生の主食。あと酸素」
ちょうどそこへ、スタッフが祖母と連絡がついたと知らせに来た。数分後、さっきの女性が駆け込んでくる。
「ああ、よかった! 二人とも!」
祖母と孫二人が揃った。
キーホルダーも、三つ揃った。
梨子は時計を見て、凍りついた。
午後二時二分。
数学まで、あと二十八分。予備校までは、どう急いでも二十分。
任務完了。
……いや、本来の任務も完了している。空気は吸った。
時間はない。今すぐ出れば、ぎりぎり滑り込める。駅まで全力疾走だ。
めるぴっぴ推しの家族よ。あとはお前らに任せた。
梨子はくるりと向きを変え、一歩目を踏み出した。
「あら、あなた!」
二歩目が出なかった。
祖母だった。
「さっき荷物を拾ってくれた子でしょう?」
「あ、はい。こんにちは!」
「この子たちもお世話になったそうで。本当にありがとう」
少女が弟の背中を押した。
「お姉さん、ありがとう」
「あ、ありがとう」
二人に頭を下げられ、梨子は慌てて両手を振った。
「いやいや! いいんです! 同担は助け合いですから!」
祖母は目を細めた。
「あなたも、握手会に来たの?」
「ええと……来た、というか。ここまでは来ました」
「ここまで?」
「券、ないので。会場の空気を吸いに」
三人が黙った。
説明を間違えたかもしれない。
そこへ女の子が口を開いた。
「お姉さん、券、持ってないの?」
「うん。抽選、全落ち。清々しいほど全落ち」
祖母が手提げ袋を開いた。
「それなら、ちょうどよかったわ」
ちょうど?
……いや、考えるな。
祖母が取り出したのは、駅前で梨子が拾った、あの薄い封筒だった。そこから細長い紙を一枚抜く。
「さっき話した、娘の分なの」
梨子の目が、その紙に吸い寄せられる。
『めるぴっぴ 特別握手会 参加券(同行者)』
文字が読めた。
読めてしまった。
「家族で申し込んだから、一緒に来る人は受付で名前を書けばいいんですって」
待って。
それ、本当に大丈夫なやつ? 譲渡とか、そういうのに厳しいんじゃ――
祖母は封筒から案内の紙を出し、小さな字の一行を指でなぞってみせた。家族で申し込んだ人だけの決まりらしい。
「よかったら、あなたが一緒に来てくれないかしら」
思考が止まった。
え。
待って。
同行者?
握手券?
今ここで?
私が?
「え、いや、そんな、大事な券……!」
「娘も、来られる人がいたら連れていってって言ってたのよ。あなたのおかげで、孫たちも揃ったしね」
「お金、払います!」
「いいの。今日はうちの家族でいてちょうだい」
梨子は両手でその一枚を受け取った。
薄い紙だった。
でも重い。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
少女が、自分のことみたいに笑った。
「お姉さんも、めるぴっぴに会えるね」
会える。
その二文字が、ようやく頭に届いた。
梨子は券を胸の前に掲げた。
いや、落とすな。しまえ。大事にしまえ。
震える手で鞄の内ポケットに入れ、さらにファスナーを閉じ、もう一度開けて存在を確認した。
ある。
消えてない。
世界線、まだ維持されてる。
梨子は時計を見た。午後二時八分。
数学の開始まで、あと二十二分。予備校へ戻るには、最短で二十分。
走れば、間に合う。
鞄の中には握手券。
駅へ向かう道と、握手会の受付。
……いや、迷うまでもない。迷うまでもないけど、一応迷った顔だけはしておこう。母への礼儀として。
昨日の夕飯で、母はパートの制服のまま「明日は頑張ってね」と言った。
顔だけのつもりが、少し本当に迷った。
ごめん、数学。ごめん、お母さん。
六千円分は、次の模試で取り返す。
今日は推しを選びます。
祖母たちは、受付へ向かって歩きだした。
梨子も慌てて後を追った。
* * *
受付で、祖母が係の人に何か説明した。同行者の欄に、梨子の名前が書き込まれた。
山岸梨子。
知らない家族の、いちばん下の行だった。
握手会の列は、思っていたより静かだった。
全員が緊張しているのだろう。ここに並ぶ人は皆、推しに会うという重大な任務を背負っている。
梨子も脳内では、完璧な挨拶を組み立てていた。
ずっと応援しています。
歌に何度も助けられました。
今日、会えて本当にうれしいです。
三秒で言えるか?
言える。早口なら。
いや、せっかくの対面で早口オタクを発動させていいのか。
待っているうちに、前の人が進む。
さらに進む。
スタッフが券を受け取る。
「次の方、どうぞ」
その先に、めるぴっぴがいた。
写真でも動画でもない。
立体。
三次元。
本当に実在した。
いや、実在してるのは知ってる。でも実在してる。
めるぴっぴと、目が合った。
「こんにちは!」
梨子の頭の中で、用意した文章がすべて吹き飛んだ。
「あ……あの……」
「来てくれてありがとう!」
めるぴっぴが手を差し出す。
梨子は、おそるおそる握った。
人差し指の先に、小さな絆創膏が巻いてあった。
推しも、指を切ったりするんだ。
温かい。
当たり前なのに、それだけで涙が出そうになった。
「ありがとう……ございます!」
用意した文章の、どれでもなかった。
めるぴっぴは一瞬きょとんとして、それから、ぱっと笑った。
「こちらこそ! ありがとう!」
スタッフに促され、梨子はその場を離れた。
終わった。
あまりにも短かった。
でも、確かに握手した。
* * *
出口の近くで、あの姉弟がおばあさんを囲んではしゃいでいた。弟は自分の右手を、何度も不思議そうに眺めている。
分かる。
梨子は小さく手を振り、外へ出た。
会場の外で、梨子は右手を胸に抱えた。
そして、その場にしゃがみ込んだ。
推しの手は、温かかった。
たった数秒の出来事が、頭の中で何度も再生される。
ふと、白い光の中で見たステージを思い出した。
いつか、あの日は来るのかもしれない。
でも、ありがとうはもう言った。
人生全部の運を使い切った。
大学受験も、就職も、結婚も、たぶん今後は全部不運になる。
それでもいい。
めるぴっぴと握手したんだから。
スマートフォンが震えた。
母からだった。
『模試の午後、受けてないって予備校から連絡が来たんだけど』
続けて、もう一通。
『帰ったら話があります』
梨子は画面を見つめた。
あ。
運を使い切った効果、発動早くない?
さらに真帆からもメッセージが届く。
『数学、結局来なかったじゃん』
『めるぴっぴと握手した!!!』
『は??? 券なかっただろ!?』
『奇跡が起きた!!!』
『その奇跡、お母さんに説明できんの?』
梨子はスマートフォンをそっとしまった。
……今日の数学より難しい問題が、家で待っている。
帰りに、お母さんの好きなプリンを買っていこう。六千円分には、ぜんぜん足りないけど。
でも、右手だけは胸の前から下ろせなかった。
今、世界で一番幸せな手だった。
――了――




