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ごはん屋 なつこ  作者: K2MA


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3/12

第3話 めるぴっぴ

 山岸梨子、十七歳。


 人生最大の危機に直面していた。


 大学受験? 違う。


 進路? それも違う。


 めるぴっぴの握手会が、今日、この街で開催される。


 そして梨子には、握手券がない。


 抽選には落ちた。追加募集もなかった。めるぴっぴは握手会をめったに開かない。次があるという保証など、地球上のどこにも存在しない。


 しかも、今日に限って全国模試である。


 午前の二科目を受け終えた梨子は、予備校の建物を出て、スマートフォンを握りしめていた。


『で、午後も受けるんだよね?』


 友人の真帆からメッセージが届いている。


『当然!』


 と打ちかけ、消す。


 当然とは何だろう。何をもって当然とするのか。人類はその問いに、まだ答えを出せていない。


『握手券ないだろ』

『あるよ。推しへの愛が』

『それは券じゃねー』


 正論だった。ぐうの音も出ない。


 会場へ行ってどうするのかと問われれば、答えはある。会場ではめるぴっぴが呼吸している。それだけで、その一帯の空気には価値が発生する。本人に会えなくても、せめてその空気を吸いたい。


 しかし午後には数学の試験がある。受験料の六千円は、母がパートのシフトを一日増やした月から出ている。昨日の夕飯でも「明日は頑張ってね」と言っていた。


 そんな母に、「推しと同じ空気を吸いたいので模試を抜けました」と説明できるだろうか。


 できない。


 できるわけがない。


 梨子はひとまず昼食を取ることにした。空腹時に人生の決断をしてはいけない。


     * * *


 大通りを一本外れた路地で、梨子は小さな看板を見つけた。


『ごはん屋 なつこ』


 午後の数学は二時半から。時間はまだあるが、ゆっくり悩んでいられるほどではない。


 引き戸を開けた。


「いらっしゃいませ」


 店内はこぢんまりとしていた。ほかに客はいなかった。


 カウンターの向こうに、エプロン姿の女将がいた。髪をきちんとまとめていて、笑顔が柔らかい。


 癒やし系お姉さん属性。


 しかも料理ができる。設定が強い。


「今日は唐揚げがおすすめですよ」

「それください。定食で!」

「はい。少々お待ちくださいね」


 女将が小鍋を火にかけた。奥から、じゅうっと油の音が聞こえてくる。


 梨子はスマートフォンを開いた。


 めるぴっぴの公式アカウントには、今日の握手会のお知らせが固定されている。


『当選者の皆さまとお会いできるのを楽しみにしています!』


 当選者の皆さま。


 選ばれし民たち。


 私は選ばれなかった側の民。


 梨子は画面を伏せた。世の中には、見続けると心が削れる文字列がある。


 やっぱり、午後は受けよう。


 空気を吸ったところで、握手できるわけじゃない。六千円分の数学を捨てる理由にはならない。


 真帆に『受けるよ』と打って、送信ボタンの上で親指を止めた。


「お待たせしました」


 運ばれてきた唐揚げは、大ぶりのものが五個。こんがりとした衣の表面に、細かな突起が立っている。千切りキャベツの脇にはレモンが添えられ、湯気の立つ味噌汁と漬物、つやのある白いご飯が並んだ。


「どうぞ、ごゆっくり」

「いただきます!」


 梨子は一個つまみ上げた。


 重い。


 これは強い。センターの風格がある。


 ひと口かじると、さくっ、と衣が弾けた。続いて熱い肉汁が舌に広がる。生姜と醤油の香りがふわっと抜け、柔らかい鶏肉のうまみが追いかけてきた。


 ……うっま。


 何これ。


 衣が完璧。中身も完璧。五個全員がセンター候補。こんな完成度の高いユニット、私は知らない。


 白いご飯を頬張る。唐揚げの味が口の中に残っていて、何もかかっていないご飯までおいしい。


 梨子は思わず、もう一個に箸を伸ばした。


 揚げたての衣の中で、油がまだぱちぱちと小さく鳴っている。


 油の粒が、光った。


 え、唐揚げって光るの? センターの風格どころか、照明まで自前?


 そう思っているうちに、光が視界を埋めた。


 油の香りも、箸の重さも遠のいていく。衣の中のぱちぱちという音だけが、だんだん大きくなる。


 気がつくと、それは拍手の音だった。


――山岸梨子の記憶――


 光る棒が、暗い客席を埋め尽くしていた。


 歓声。拍手。誰かのすすり泣く声。


 梨子は大きなホールの客席に立っていた。手には、何度も使ったらしいペンライト。知らないはずの曲の最後の余韻が、胸の奥に残っている。


 ステージに、めるぴっぴがいた。


 今より少し大人びた顔。長い髪を揺らし、両手でマイクを握っている。


「今日で、めるぴっぴとしての活動を卒業します」


 梨子の胸が、ぎゅっと縮んだ。


 卒業。


 その言葉の意味は分かる。分かるのに、頭が受け入れない。


 めるぴっぴは笑おうとして、少しだけ声を震わせた。


「今まで、ありがとうございました」


 会場が泣いていた。


 梨子も泣いていた。


 そして、その涙の奥に、一つの後悔があった。


 あの日、地元で握手会があった。


 券がないから、行かなかった。


 会えるはずなんてないと、自分で決めてしまった。


 結局、一度も近くで「ありがとう」を伝えられなかった。


 ステージが暗くなる。


 めるぴっぴの姿が、光の向こうへ消えていく。


 もう一度、会いたい。


 そう思ったとき、ステージの光が白く溶けた。


 箸の先に、二個目の唐揚げがぶら下がっていた。


 梨子はしばらく、瞬きもできなかった。


 何、今の。


 めるぴっぴ、卒業?


 いや、待って。まだ今日の握手会も終わってない。卒業発表なんて聞いてない。あの会場も知らない。


 夢? 妄想? 空腹でついに脳が推しの将来まで自動生成した?


 梨子はカウンターの向こうを見た。


「あの、この唐揚げ、何か入ってます?」

「生姜と、にんにくを少し」


 女将はにこにこしている。


 そういうことではない。でも、たぶん本当にそれだけなのだ。


 自分でも分からない。


 ただ、ステージからめるぴっぴが消えていく感覚だけが、胸に残っていた。


 いつか終わる。


 それだけは、本当だ。


 梨子はスマートフォンの時刻を見た。午後の数学は二時半から。会場は予備校から電車で二駅。


 会場へ行っても握手はできない。


 でも、同じ街にいる推しに、せめて少しだけ近づきたい。


 ……よし。空気だけ吸って、すぐ戻ろう。


 数学には間に合わせる。模試も推しも諦めない。完璧な作戦だ。


 梨子は残りの唐揚げを味わい、ご飯を食べきった。唐揚げは最後の一個まで、信じられないほどおいしかった。


 席を立つ。


「ごちそうさまでした! めちゃくちゃおいしかったです!」

「ありがとうございました。またどうぞ」


 店を出て、真帆にメッセージを送る。


『会場、ちょっとだけ行ってくる!』

『数学は?』

『二時半までに戻る!』

『券ないだろ』

『空気だけ吸って帰る!』


 帰る。もちろん帰る。


 推しへの愛と数学の答案は両立できる。私は今、その歴史的実証実験に挑んでいる。


     * * *


 会場のある駅に着いたとき、梨子は小走りだった。


 午後一時半過ぎ。握手会の受付までは、まだ少し時間がある。


 予備校まで戻るには、電車を使っても二十分はかかる。十分だけ、この場所の空気を吸ったら引き返そう。


 胸が高鳴る。


 推しが、この街にいる。


 同じ県。同じ市。同じ駅の近く。


 すごい。地理ってすごい。


 駅前の広場を抜けようとしたとき、前を歩いていた年配の女性が、ふいに手提げ袋を落とした。


 水筒、小さなポーチ、飴の袋。あれこれが地面に散らばる。


 梨子は反射的に足を止め――かけて、二度見した。


 うちわ。


 落ちた荷物の中に、めるぴっぴの顔が印刷された公式うちわがある。


 同担!?


 このご婦人、同担!?


「だ、大丈夫ですか! 拾います!」

「あら、ありがとう。もう、慌てちゃって」


 梨子はポーチを拾い、水筒を立て、飴の袋を追いかけた。うちわだけは、地面に顔の面をつけないよう、慎重に持ち上げる。


 推しのご尊顔をアスファルトに擦るなど、あってはならない。


 最後に薄い封筒を拾うと、口から細長い紙がのぞいていた。


『めるぴっぴ 特別握手会』


 握手券だ。


 選ばれし民の証を間近で見てしまった。眩しい。


 欲しい。


 喉から手が出るほど欲しい。


 いや、手どころか内臓も出る。


 譲ってください、と言えたら。


 だが、それを口にした瞬間、私はただの「券目当てで親切にした人」になる。


 オタクには、守るべき仁義がある。


 梨子はそれ以上見ないようにして、女性に封筒を返した。


「お好きなんですか?」

「孫に頼まれて持ってきたの。私は詳しくないんだけどね。本当は娘も来るはずだったんだけど、急に仕事が入っちゃって」


 違った。同担のおばあさまではなく、同担を支えるおばあさまだった。


 それはそれで尊い。


 ……娘さんが、来られない。


 ということは、一人分――


 考えるな。


 今それを考えた時点で、私の親切は親切ではなくなる。


 最後に、小さな星形のキーホルダーが転がっているのを見つけた。黄色いフェルトに、ピンクの糸で大きく『M』の文字が縫ってある。端の縫い目が少し曲がっている。


「これ、かわいいですね!」

「孫たちとお揃いなの。私が三つ作ったのよ」

「手作り!? めちゃくちゃいいです!」


 女性は、曲がった縫い目を指でなぞった。


「孫たちと来たんだけど、人が多くて、はぐれちゃったの。会場のほうへ行けば会えると思うんだけど」

「会えるといいですね! お気をつけて!」


 梨子は袋を渡し、女性を見送った。


 いいものを見た。


 手作りグッズには、公式グッズとは違う強さがある。あの曲がった縫い目には、愛が詰まっていた。


 さて、私も会場へ。


 時刻は午後一時四十五分。


 残された時間はほとんどない。それなのに、気がつくと人混みの中に黄色い星を探していた。三つ作った、と言っていた。あと二つ、この辺りのどこかにある。


 植え込みの脇で、黄色い星が揺れていた。


 小さな男の子のリュックだった。胸には、めるぴっぴの缶バッジ。ピンクの『M』の縫い目が、ちゃんと曲がっている。


 見つけた。二つ目。


 ただ、男の子は今にも泣きそうな顔で、あたりを見回していた。


「ねえ、誰か探してる?」

「……お姉ちゃん」

「よし、一緒に探そう。まず係の人ね!」


 同担の迷子を見捨てる選択肢はない。梨子は男の子を案内所へ連れていった。スタッフに話をすると、男の子は姉と祖母とはぐれたらしい。


「握手、間に合う?」

「間に合わせよう。めるぴっぴが待ってるんだもん」


 そのとき、案内所の前を目元の赤い少女が通った。中学生くらい。めるぴっぴのTシャツに、黄色い星のキーホルダー。


 三つ目。


「スタッフさん! あの子、お姉ちゃんでは!?」


 大当たりだった。


「お姉ちゃん!」

「もう、どこ行ってたの!」


 少女は弟を抱きしめた途端、泣き出した。


「おばあちゃんも見つからないし、握手会に行けなくなるかと思って……」


 梨子の胸がぎゅっと痛んだ。推しに会えなくなる絶望。それだけは分かりすぎる。


「大丈夫! 弟くんは無事だし、おばあちゃんもスタッフさんが探してくれてる。まだ終わってない!」

「でも……」

「会えないって、まだ決まってないでしょ!」


 自分の声が、妙に大きく聞こえた。


 少女は涙を拭いて、泣き笑いになった。


「お姉さんも、めるぴっぴ好きなの?」

「人生の主食。あと酸素」


 ちょうどそこへ、スタッフが祖母と連絡がついたと知らせに来た。数分後、さっきの女性が駆け込んでくる。


「ああ、よかった! 二人とも!」


 祖母と孫二人が揃った。


 キーホルダーも、三つ揃った。


 梨子は時計を見て、凍りついた。


 午後二時二分。


 数学まで、あと二十八分。予備校までは、どう急いでも二十分。


 任務完了。


 ……いや、本来の任務も完了している。空気は吸った。


 時間はない。今すぐ出れば、ぎりぎり滑り込める。駅まで全力疾走だ。


 めるぴっぴ推しの家族よ。あとはお前らに任せた。


 梨子はくるりと向きを変え、一歩目を踏み出した。


「あら、あなた!」


 二歩目が出なかった。


 祖母だった。


「さっき荷物を拾ってくれた子でしょう?」

「あ、はい。こんにちは!」

「この子たちもお世話になったそうで。本当にありがとう」


 少女が弟の背中を押した。


「お姉さん、ありがとう」

「あ、ありがとう」


 二人に頭を下げられ、梨子は慌てて両手を振った。


「いやいや! いいんです! 同担は助け合いですから!」


 祖母は目を細めた。


「あなたも、握手会に来たの?」

「ええと……来た、というか。ここまでは来ました」

「ここまで?」

「券、ないので。会場の空気を吸いに」


 三人が黙った。


 説明を間違えたかもしれない。


 そこへ女の子が口を開いた。


「お姉さん、券、持ってないの?」

「うん。抽選、全落ち。清々しいほど全落ち」


 祖母が手提げ袋を開いた。


「それなら、ちょうどよかったわ」


 ちょうど?


 ……いや、考えるな。


 祖母が取り出したのは、駅前で梨子が拾った、あの薄い封筒だった。そこから細長い紙を一枚抜く。


「さっき話した、娘の分なの」


 梨子の目が、その紙に吸い寄せられる。


『めるぴっぴ 特別握手会 参加券(同行者)』


 文字が読めた。


 読めてしまった。


「家族で申し込んだから、一緒に来る人は受付で名前を書けばいいんですって」


 待って。


 それ、本当に大丈夫なやつ? 譲渡とか、そういうのに厳しいんじゃ――


 祖母は封筒から案内の紙を出し、小さな字の一行を指でなぞってみせた。家族で申し込んだ人だけの決まりらしい。


「よかったら、あなたが一緒に来てくれないかしら」


 思考が止まった。


 え。


 待って。


 同行者?


 握手券?


 今ここで?


 私が?


「え、いや、そんな、大事な券……!」

「娘も、来られる人がいたら連れていってって言ってたのよ。あなたのおかげで、孫たちも揃ったしね」

「お金、払います!」

「いいの。今日はうちの家族でいてちょうだい」


 梨子は両手でその一枚を受け取った。


 薄い紙だった。


 でも重い。


「……ありがとうございます」


 声が震えた。


 少女が、自分のことみたいに笑った。


「お姉さんも、めるぴっぴに会えるね」


 会える。


 その二文字が、ようやく頭に届いた。


 梨子は券を胸の前に掲げた。


 いや、落とすな。しまえ。大事にしまえ。


 震える手で鞄の内ポケットに入れ、さらにファスナーを閉じ、もう一度開けて存在を確認した。


 ある。


 消えてない。


 世界線、まだ維持されてる。


 梨子は時計を見た。午後二時八分。


 数学の開始まで、あと二十二分。予備校へ戻るには、最短で二十分。


 走れば、間に合う。


 鞄の中には握手券。


 駅へ向かう道と、握手会の受付。


 ……いや、迷うまでもない。迷うまでもないけど、一応迷った顔だけはしておこう。母への礼儀として。


 昨日の夕飯で、母はパートの制服のまま「明日は頑張ってね」と言った。


 顔だけのつもりが、少し本当に迷った。


 ごめん、数学。ごめん、お母さん。


 六千円分は、次の模試で取り返す。


 今日は推しを選びます。


 祖母たちは、受付へ向かって歩きだした。


 梨子も慌てて後を追った。


     * * *


 受付で、祖母が係の人に何か説明した。同行者の欄に、梨子の名前が書き込まれた。


 山岸梨子。


 知らない家族の、いちばん下の行だった。


 握手会の列は、思っていたより静かだった。


 全員が緊張しているのだろう。ここに並ぶ人は皆、推しに会うという重大な任務を背負っている。


 梨子も脳内では、完璧な挨拶を組み立てていた。


 ずっと応援しています。


 歌に何度も助けられました。


 今日、会えて本当にうれしいです。


 三秒で言えるか?


 言える。早口なら。


 いや、せっかくの対面で早口オタクを発動させていいのか。


 待っているうちに、前の人が進む。


 さらに進む。


 スタッフが券を受け取る。


「次の方、どうぞ」


 その先に、めるぴっぴがいた。


 写真でも動画でもない。


 立体。


 三次元。


 本当に実在した。


 いや、実在してるのは知ってる。でも実在してる。


 めるぴっぴと、目が合った。


「こんにちは!」


 梨子の頭の中で、用意した文章がすべて吹き飛んだ。


「あ……あの……」

「来てくれてありがとう!」


 めるぴっぴが手を差し出す。


 梨子は、おそるおそる握った。


 人差し指の先に、小さな絆創膏が巻いてあった。


 推しも、指を切ったりするんだ。


 温かい。


 当たり前なのに、それだけで涙が出そうになった。


「ありがとう……ございます!」


 用意した文章の、どれでもなかった。


 めるぴっぴは一瞬きょとんとして、それから、ぱっと笑った。


「こちらこそ! ありがとう!」


 スタッフに促され、梨子はその場を離れた。


 終わった。


 あまりにも短かった。


 でも、確かに握手した。


     * * *


 出口の近くで、あの姉弟がおばあさんを囲んではしゃいでいた。弟は自分の右手を、何度も不思議そうに眺めている。


 分かる。


 梨子は小さく手を振り、外へ出た。


 会場の外で、梨子は右手を胸に抱えた。


 そして、その場にしゃがみ込んだ。


 推しの手は、温かかった。


 たった数秒の出来事が、頭の中で何度も再生される。


 ふと、白い光の中で見たステージを思い出した。


 いつか、あの日は来るのかもしれない。


 でも、ありがとうはもう言った。


 人生全部の運を使い切った。


 大学受験も、就職も、結婚も、たぶん今後は全部不運になる。


 それでもいい。


 めるぴっぴと握手したんだから。


 スマートフォンが震えた。


 母からだった。


『模試の午後、受けてないって予備校から連絡が来たんだけど』


 続けて、もう一通。


『帰ったら話があります』


 梨子は画面を見つめた。


 あ。


 運を使い切った効果、発動早くない?


 さらに真帆からもメッセージが届く。


『数学、結局来なかったじゃん』

『めるぴっぴと握手した!!!』

『は??? 券なかっただろ!?』

『奇跡が起きた!!!』

『その奇跡、お母さんに説明できんの?』


 梨子はスマートフォンをそっとしまった。


 ……今日の数学より難しい問題が、家で待っている。


 帰りに、お母さんの好きなプリンを買っていこう。六千円分には、ぜんぜん足りないけど。


 でも、右手だけは胸の前から下ろせなかった。


 今、世界で一番幸せな手だった。


         ――了――


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