第2話 九時の声
容疑者は二人いる。
だが、殺人だと証明するものすらなかった。
事件から十日が経っていた。
県警本部、捜査一課。
高瀬美紀は、机に置いた現場写真を見つめていた。
十一階建てのマンション。
その八階のベランダから、野口信彦、五十三歳が転落した。
遺体が見つかったのは翌朝。建物の裏手にある植え込みの脇だった。
死亡推定時刻は前夜の二十時から二十三時頃。
酒を飲んでいた野口が、誤って転落した可能性も否定できない。室内に荒らされた様子はなく、玄関もベランダの窓も施錠されていなかった。
ベランダに残されていたのは、サンダルの片方と、踏み消されたタバコの吸い殻。吸い口から検出された唾液は、野口のものだった。
室内の写真には、電源の切れたテレビと、ランプの点いたレコーダーも写っていた。ありふれた光景にしか見えなかった。
ただ、当夜、野口を訪ねた男が二人いる。
石川英明、四十六歳。午後九時頃に来訪。
大西正樹、四十五歳。午後十時頃に来訪。
二人とも野口から金を借りていた。近隣の防犯カメラには、石川が二十一時三分に入って九分に出る姿と、大西が二十二時十六分に入って二十四分に出る姿が映っていた。
そして二人とも、同じことを言った。
『インターホンを鳴らしたが応答がなかった。部屋には入っていない』
石川は返済の猶予を頼むつもりだったという。大西も金の話をしに行ったと話した。
どちらかが嘘をついているのか。あるいは二人とも本当のことを言っていて、ただの事故だったのか。
「高瀬さん、まだその写真ですか」
向かいの席の若い刑事が言った。
「見てれば何か増えるかと思って」
「増えたら怖いですよ」
「そうだね」
「でも、石川じゃないですか。野口に怒鳴られてたって話もありますし」
「どうして?」
「いや、だから、揉めてたなら」
「揉めてたら、殺す?」
若い刑事は口を開きかけて、閉じた。
「……そうとは限りませんけど」
美紀は写真から目を上げなかった。
ベランダの手すりには争った痕跡がない。二人の男と転落を結びつけるものもない。これまでの捜査では、逮捕に踏み切るだけの根拠を得られずにいた。
野口が生きていれば、誰が部屋に入ったか聞けたのだろう。
そんな、捜査としては何の役にも立たないことを考えてしまう。
美紀は写真を裏返した。
「ちょっと外す。何か食べてくる」
「今日、まだ昼も食べてないんですか」
「忘れてた」
時計は午後七時を回っていた。
* * *
本部の近くには、遅くまで開いている飲食店がいくつもある。いつもなら適当に弁当を買い、机で食べるところだった。
この日は少しだけ歩きたくなった。
大通りを外れ、路地を一本曲がる。古い雑居ビルの一階、奥まったところに小さな看板が見えた。
『ごはん屋 なつこ』
中の明かりはついている。
美紀は引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
店内はこぢんまりとしていた。入口からカウンターまで見通せる。小さなテーブルが二つ。客は一人だけだった。
カウンターの向こうには、エプロンの紐をきちんと結んだ女将がいた。こちらを見る前に、手元の包丁を、刃を奥に向けて置いた。
「お食事ですか?」
「ええ。すぐに食べられるもの、ありますか」
「では親子丼がおすすめですよ」
「じゃあ、それを。急いでいるので」
「はい。できるだけ早くお出ししますね」
美紀はカウンターの端に座った。
携帯電話を伏せて置き、その上に左手を載せたまま、壁の時計を確認する。食事には十分もかけないつもりだった。
小鍋に出汁を張る音がした。まな板に包丁の当たる音。やがて、醤油と甘い出汁の香りが店に広がった。
「お待たせしました」
思っていたより早く、親子丼が運ばれてきた。湯気の立つ味噌汁と、小皿に盛られた漬物が添えてある。
丼の上には、黄金色の卵がふんわりとかかっていた。白身はところどころ半透明で、黄身の濃い色がまだ残っている。鶏肉の間に、柔らかく煮えた玉ねぎがのぞいた。上には、刻んだ三つ葉が散らしてある。
「どうぞ、ごゆっくり」
「いただきます」
急いでいると自分で言った手前、美紀はすぐに箸をつけた。
一口目で、動きが止まった。
卵が舌の上でとろりとほどける。ご飯に染みた出汁は甘すぎず、醤油の香りがすっと抜けた。鶏肉は柔らかいのに、噛めばきちんと旨みがあった。
……うまい。
もう一口食べる。玉ねぎの甘みが加わって、さっきとは少し違う味になる。
こんな店があったのか。
十分で済ませるつもりだった食事を、美紀は思わずゆっくり味わっていた。
いつの間にか、左手は携帯電話を離れ、丼を支えていた。
次の一口を飲み込んだ、そのときだった。
甘い出汁のあとに、三つ葉のほろ苦さが舌の奥に残った。
半熟の黄身が、光った。
その光が、音もなく滲んだ。
箸の感触が遠のく。
かわりに、口の中に酒の苦みが広がった。
――野口信彦の記憶――
テレビがついていた。
見慣れた居間。テーブルには飲みかけの酒のグラスと、灰皿。画面では、男性のアナウンサーが原稿を読んでいる。
右手にはリモコンがあった。
『午後九時になりました』
聞き慣れた声だった。
リモコンのボタンを押す。テレビが暗くなった。
そういえば、呼び鈴が一度鳴ったきりだった。とうに帰ったのだろう。金の返済を待ってくれという話なら、今夜は聞く気になれなかった。
グラスを手に取り、残りを飲む。
少し風に当たりたくなった。
ベランダの窓を開けると、夜の空気が顔に触れた。遠くに車のライトが並んでいる。下の道路を見下ろせば、まばらに人が歩いていた。
タバコを一本取り出し、火をつけた。
一口吸う。吐いた煙が、街の灯りの向こうへ薄く流れた。
手すりに両腕を預ける。酒で熱くなった肌に、風が心地よかった。
次の瞬間、足首に何かが触れた。
いや、つかまれた。
強い力で、両足が後ろから持ち上がる。
何だ。
振り向こうとした。だが、手すりが腹に食い込み、体が前へ傾いた。
右手から、火のついたタバコが滑り落ちる。
足元の床に、小さな赤い点が落ちた。
声を出す暇もなかった。
手すりが視界の下へ消える。
街の灯りが、横倒しになった。
何が起きたのか分からない。ただ、ひどく怖かった。
暗い地面が迫ってくる。
そこで、すべてが白く途切れた。
箸を、折れそうなほど握っていた。
心臓の音が、耳の奥でうるさかった。
女将が厨房で小鍋を洗っていた。ほかの客が椅子を引く音がする。
美紀は息を吸った。
喉が痛いほど渇いていた。
今のは、何だ。
死者の、記憶?
目を閉じると、落ちていく街の灯りがまだ見えた。足首をつかまれた感触が皮膚に残っている。
あの部屋を知っている。
テーブルの位置。灰皿。窓の向こうに見えた道路。
野口信彦の部屋だ。
現場写真と同じだった。
「お水、お持ちしましょうか?」
女将の声にはっとして顔を上げる。
「あ……お願いします」
差し出された水を一息に飲んだ。
女将は空いたグラスにもう一度水を注ぐと、また小鍋を洗い始めた。
人が何かを隠しているときの顔なら、仕事柄いやというほど見てきた。女将の顔には、何もなかった。
美紀は考えた。
これを誰かに話して、どうなる。こんな夢を見たなどと口にしたら、疲れているから休めと言われるだけだろう。
考えるほど、あの声は耳の奥に残った。
『午後九時になりました』
あの声を聞いて、野口はテレビを消した。
その直後、ベランダで襲われた。
九時だ。
石川が来た時間ではないか。
美紀は残っていた親子丼を口に運んだ。出汁の味がした。さっきと変わらず、おいしかった。
それが、妙に心強かった。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「ありがとうございました。またどうぞ」
店を出ると、美紀は足早に本部へ向かった。
その夜遅く、自宅の部屋で、ベランダの窓を開けかけて、手が止まった。
足首に、まだ、つかまれた感触が残っていた。
美紀はカーテンを閉めた。
* * *
翌日、美紀は石川の足取りを調べ直した。
石川がマンションの建物へ入った時刻は二十一時三分。出たのは二十一時九分。部屋の前まで行って呼び鈴を鳴らし、返事がなかったと話している。
野口が見ていたテレビからは、九時になったという声が聞こえた。映像を見てすぐに消し、外へ出た。
つながる気がした。
だが、つながるのは美紀の頭の中でだけだった。
石川が現場にいたことを示す証拠が見つかったわけではない。
石川に改めて会うと、男はやつれた顔をしていた。
「借金してたのは本当です。でも、あの人を殺してどうするんですか」
「返済のことで、野口さんと揉めたことはありませんか」
「ありますよ。怒鳴られたことだって。でも、殺していいなんて思いません」
石川は膝の上で手を握りしめた。
「返す日を延ばしてもらいたかっただけです。居留守を使われたのは、たぶん分かってました。中でテレビの音がしてたから。野球の中継みたいでした」
美紀はメモを取った。
石川の話には不自然なところがない。ないからといって無実とは限らない。だが、疑う根拠があるからといって、犯人だとも限らない。
分かっていたはずだった。
本部に戻り、石川の供述調書を机に置いた。
――どうして?
昨日、自分が若い刑事に言った言葉だった。
九時という声を聞いた。それだけで、石川の訪問と結びつけている。
八年前にも、こうして一人に絞ったことがある。動機があり、現場の近くで目撃され、証言のあやふやな男だった。別の人物を見たという証言は、後回しにした。
男は無実だった。
男は逮捕され、勤め先を辞めた。真犯人が別の事件で捕まったのは、その三か月後だった。釈放の日、男は美紀に一度だけ頭を下げた。責める言葉は、何もなかった。
その頭の下げ方を、美紀は今でも覚えている。
美紀は調書を閉じた。
目を閉じ、あの記憶を初めから思い返した。
テレビ。リモコン。アナウンサーの声。
テレビを消したとき、野口は何を考えていたか。
呼び鈴が一度鳴ったきりだった。とうに帰ったのだろう。
呼び鈴は、九時の声を聞くより前に鳴っていた。
石川がマンションに入ったのは二十一時三分。大西は二十二時十六分。呼び鈴を鳴らしたのがどちらであっても、九時より後だ。
それなのに野口は、呼び鈴の後で『午後九時になりました』を聞いている。
順番が合わない。
美紀は目を開けた。
手がかりは、最初から記憶の中にあった。
では、あの九時の声は、いつ聞こえたのか。
* * *
美紀は、記憶の中で流れていた番組を調べた。
画面に映っていたアナウンサー。背景の地図。短い特集の映像。
放送局の記録を照合すると、すべて事件当日の内容だった。
午後八時台に放送された報道特番。番組の終わりには、そのまま九時のニュースの冒頭が続いていた。
『午後九時になりました』
まさしく、あの声だった。
当日の番組には違いない。だが、放送と同じ時刻に見ていたとは限らない。
美紀は現場写真を引き寄せた。
テレビ台の下に置かれた、ランプの点いたレコーダー。
発見時、テレビの電源は切れていた。レコーダーの電源だけが入っていた。
当初の検証記録には、テレビをつけると録画番組の一覧が表示された、とある。
ただの使用状況として書き留められ、それ以上は調べられていなかった。
「現場のレコーダー、もう一度確認したい」
美紀が言うと、若い刑事が眉を上げた。
「テレビですか?」
「そう。見落としていることがあるかもしれない」
保全されていた機器を確認すると、録画一覧には事件当日の報道特番が残っていた。古い機種で、再生の履歴は残らない。
再生する。
記憶で見た映像が流れた。
画面に映るアナウンサーも、背後の地図も、少し掠れた声の調子も同じだった。
番組が終わり、続けて録画されていたニュースの冒頭が流れる。
『午後九時になりました』
美紀は再生を止めた。
「これだ……」
野口は、録画を見ていたのだ。
では、本当は何時だったのか。
美紀は、紙に二つのことだけを書いた。
野口が覚えていた呼び鈴は、一度きり。
その呼び鈴は、九時の声より「とうに」前だった。
大西が十時過ぎに呼び鈴を鳴らしていたなら、野口は録画を見ている最中にそれを聞いたはずだ。記憶の中の野口は、そんな呼び鈴を覚えていない。覚えていたのは、石川の一度だけだ。
大西は、呼び鈴を鳴らしていないのかもしれない。
石川が聞いたのは、野球中継の音だった。その夜の試合が終わったのは、二十一時過ぎ。中継を見終えた野口が、裏で録画しておいた特番を再生したとすれば、一時間後の九時の声は、二十二時過ぎに聞こえたことになる。
大西が建物にいた、八分間のどこかに。
筋は通る。
だが、筋が通るだけだ。再生を始めた時刻を示すものは、どこにもない。
美紀は椅子の背にもたれた。
危うく、八年前と同じことをするところだった。今度は、大西だと決めつけるわけにもいかない。
大西の訪問を、最初から調べ直そう。
* * *
大西は、自宅のマンションで美紀を迎えた。
石川とは違い、身なりに隙のない男だった。玄関で、美紀のためにスリッパを揃えた。
「何度も申し訳ありません。あの夜のことを、もう一度伺いたくて」
「何度でもどうぞ。お話しできることは、全部お話ししましたが」
大西はソファに浅く腰かけ、脚を組んだ。組んだ右足のつま先が、話のあいだじゅう、宙で小さく揺れていた。
十時過ぎに着き、呼び鈴を二度鳴らした。応答がなかったので、すぐに帰った。前と同じ話を、淀みなく繰り返した。
「部屋の中から、何か聞こえましたか。テレビの音とか」
「いいえ。物音ひとつしませんでした。もう寝ているんだと思って」
美紀はメモを取る手を止めなかった。
礼を言って部屋を辞し、エレベーターを待ちながら、さっきの答えを繰り返した。
物音ひとつしなかった。
筋書きどおりなら、十時過ぎの部屋には、まだ録画のテレビの音があったはずだ。
筋書きが違うなら、大西の言うとおり、静かだったのかもしれない。
どちらとも言えない。
九時の声ばかり追いかけていた。記憶の中には、まだ見落としているものがあるはずだった。
そのとき、別の光景がよみがえった。
小さな赤い点。
落ちていくタバコの火だった。
* * *
美紀は吸い殻の写真を机に広げた。
黒く焦げた巻紙が、押し潰された形で残っている。
被害者の唾液が検出されたため、野口が吸っていたものだと確認されていた。吸い殻自体も、本人が踏み消したものと考えられていた。事故の線が濃いと見られていたこともあり、鑑定はそこで止まっていた。
だが、美紀の知っている光景は違う。
野口は、火のついたタバコを落とした。
足を持ち上げられ、手すりの向こうへ倒れていく、その瞬間に。
自分で踏み消すことなどできなかった。
では、誰が踏んだのか。
その夜、美紀は自宅のベランダの窓の前に立った。
あの店から帰った晩から、一度も開けていない。
鍵を外し、窓を引いた。夜の空気が、足首のあたりを撫でていった。
一歩出ようとして、足が自然に、窓の外に揃えたサンダルを探した。
一足だけの、古いサンダルだった。
片足を入れたところで、美紀は動きを止めた。
ベランダのサンダルは、たいてい一足しかない。
現場には、野口が履いていたと思われるサンダルが、片方だけ残っていた。
では、部屋の中から近づいた誰かは、何を履いていたのか。
美紀はサンダルから足を抜き、靴下のまま、ベランダのコンクリートに下りた。ひやりとした。
手すりに、誰かがもたれていると思ってみる。その両足を持ち上げるには、真後ろに立つしかない。腰を落とし、足を踏ん張る。
踏ん張った足は、もたれた人の足のすぐ後ろに来た。
火のついたタバコが落ちたのは、野口の足元だった。
美紀は手すりを握ったまま、しばらくそこに立っていた。
足首をつかまれた感触は、いつの間にか消えていた。
翌朝、美紀は鑑識に連絡した。
「野口の吸い殻、再鑑定をお願いしたいんです」
『唾液なら被害者本人と一致していますよ』
「そこじゃないんです。咥える部分以外の、焦げていない側の巻紙を、もう一度調べてほしい」
『何を探すんですか』
「衣類の繊維です。たぶん、靴下の」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『分かりました。保存状態を確認してみます』
美紀は電話を切った。
この推理を支えているのは、あの店で見た記憶と、ゆうべの足の裏の冷たさだけだった。
数日後、鑑識から連絡が入った。
踏み潰された巻紙の一部から、微細な繊維が見つかった。
被害者のサンダルの底とは一致しない。綿と化学繊維が混じった、ごくありふれた衣類の繊維と考えられるものだった。
さらに、その繊維に付着していた微量の皮膚片から、被害者以外の人物のDNAが検出された。
美紀は受話器を握り直した。
「照合できますか」
『量は少ないですが、比較できる結果は得られています』
関係者から任意で採取していた照合用資料と突き合わせると、そのDNA型は大西のものと一致した。
大西は、部屋には入っていないと言っていた。
それなのに、八階のベランダで踏み消されたタバコから、大西の痕跡が見つかった。
あの夜、野口の足元に落ちた火を、大西は靴下のまま踏んでいたのだ。
* * *
大西の借金は、石川よりはるかに多かった。
訪問の時刻、無施錠の玄関、ベランダの吸い殻。そのすべてを改めて検討し、捜査は大西に集中した。
収集した証拠に基づいて逮捕状が請求され、大西は殺人の疑いで逮捕された。
あの夜に履いていた靴下は、すでに処分されていた。
取調室で、美紀は大西の向かいに座った。
「足の裏を、見せていただけますか」
大西は答えなかった。
確認された右足の土踏まずの脇に、治りかけた小さな火傷があった。
靴下越しに火のついたタバコを踏んだ痕だと、断定はできない。
「あの夜、物音ひとつしなかったとおっしゃいましたね」
美紀は鑑定書の写しを、机の上に置いた。
「野口さんは、ベランダに出る直前まで、録画のテレビを見ていました。あなたがあの部屋に入ったとき、テレビはまだついていたはずです」
大西は長いあいだ、その紙を見ていた。
やがて、あの夜、野口の部屋へ入ったことを認めた。
「会社の金を使い込んだのを、野口に知られていました。返せないなら、翌日には会社に知らせると」
最初から殺すつもりだった、と大西は言った。刃物を持ち、呼び鈴は鳴らさなかった。金を借りに通っていた頃から、野口は家にいるあいだ鍵をかけない男だった。玄関は、その夜も開いていた。足音を立てないよう、靴は玄関で脱いだ。部屋に上がると、ちょうどテレビの音が消えた。ベランダの窓が開いていて、手すりにもたれた背中が見えた。大西は刃物ではなく、両足をつかんだ。
「足の裏が、焼けるみたいに熱かった。でも、離したら終わりだと思って」
刃物は、供述どおりの川底から見つかった。
大西の言葉は、美紀の知らない部分を埋めていった。
けれど、大西にも知りようのないことがある。
足首をつかまれた瞬間、野口は何が起きたのかも分からず、ただひどく怖かった。
それを知っているのは、美紀だけだった。
* * *
石川に、捜査の経過を伝える機会があった。
美紀は、改めて石川に頭を下げた。
「何度もお話を聞いて、申し訳ありませんでした」
「……もう、疑われないんですね」
「はい」
石川は長く息を吐いた。
「返すのが嫌で、あの人の電話を避けたことはあります。でも、死んでほしいなんて思ったことはなかった」
美紀は黙って聞いた。
石川は膝の上の手を見たまま、少しして言った。
「……信じてもらえるとは、思ってませんでした」
美紀は、すぐには答えられなかった。
もう一度、頭を下げた。
さっきより、長く。
* * *
大西の送致から、数日が過ぎた。
仕事を終えた夜、美紀は大通りを外れ、路地を一本曲がった。
古い雑居ビルの一階。奥まったところに、小さな看板がある。
『ごはん屋 なつこ』
引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
女将が、布巾を置いた。
「親子丼、できますか」
「はい、できますよ」
美紀はカウンターの端に座った。
携帯電話は鞄にしまったままにした。壁の時計は見なかった。
小鍋に出汁を張る音がした。醤油と甘い出汁の香りが、ゆっくり店に広がっていく。
「お待たせしました。どうぞ、ごゆっくり」
美紀は箸を取った。
卵が舌の上でほどける。出汁の染みたご飯。柔らかな鶏肉と、甘い玉ねぎ。
何も起こらなかった。
もう一口食べる。
白い光は来ない。
美紀は、急がずに食べた。
最後の一口まで、出汁の味がした。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。またどうぞ」
外へ出ると、夜の風が頬に冷たかった。
見上げると、どこかのマンションのベランダに、小さな明かりが一つ灯っていた。
美紀はしばらくそれを見てから、駅へ向かって歩き出した。
――了――




