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ごはん屋 なつこ  作者: K2MA


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1/11

第1話 しりとり

 大通りから一本入った路地の奥に、小さな食堂がある。


 カウンターが六席と、二人掛けのテーブルが二つ。


 女将は静かに火の前に立ち、今日のおすすめを差し出す。


 湯気の向こうで、客はふと、自分でも思いがけないものに出会う。


 それが過去なのか、誰かの願いなのか、あるいはまだ見ぬ明日なのかは、誰にも分からない。


     * * *


 車の中で、娘はいつもしりとりをしたがった。


 趣味はドライブだった。


 海が見たければ海へ、山の空気が吸いたければ山へ行く。休日は朝早くから、平日でも早く目が覚めた日には出勤前に、仕事が早く終わった日には夕方に、ハンドルを握った。


 四十五歳の今日まで、無事故、無違反。免許証は、ずっと金色のままだ。


 近頃は、車に乗る時間が前より増えた。


 娘の千晴が家を出てから、休日がやけに長くなった。その分を、車が埋めていた。


     * * *


 七月のある休日。


 俺は朝から海沿いの道を走り、昼前になって街へ戻ってきた。


 信号待ちで、後ろの車に短くクラクションを鳴らされた。前はもう青だった。


 朝が早かったせいだろう。


 フロントガラスの上のほうで、入道雲が少しずつ形を変えている。昼飯を食べられる場所を探して裏通りを流していると、小さな路地の入口に看板が見えた。


『ごはん屋 なつこ』


 見たことのない店だった。このあたりは何度も走っている。こんな店、前からあっただろうか。


 近くの時間貸し駐車場に車を停め、歩いて引き戸を開けた。


「いらっしゃいませ」


 こぢんまりとした店だった。磨かれたカウンターに、きちんと並べられた椅子。冷房は強すぎず、外の熱気にさらされていた体が少しずつ落ち着いていく。


 カウンターの向こうには、髪をまとめた女将がいた。エプロンの胸元に、小さな染みがいくつか重なっている。毎日台所に立つ人の染み方だった。


「今日はビーフシチューがおすすめですよ」

「ビーフシチューですか。じゃあ、それを」

「パンとご飯、どちらにします?」

「ご飯でお願いします」

「はい。少々お待ちくださいね」


 夏にシチューというのも悪くない。冷房の効いた店でなら、むしろうまそうだ。


 待つ間、スマートフォンを取り出した。


 千晴から、短いメッセージが届いていた。


『夏休み入ったら帰るから』


『迎えに行こうか』


『いい。電車で帰る』


 相変わらず、そっけない。


 千晴は十三歳。春から私立の中学校に通い始め、学校に近い俺の母の家で暮らしている。


 妻を亡くしたのは、千晴が三歳のときだった。それから十年、母の手を借りながら、二人でやってきた。


 娘が言わずに飲み込んだことも、きっとあっただろう。千晴は、よく笑う子に育った。


 その千晴が、今は母の家にいる。


 二人分だった洗濯は半分になった。目玉焼きも一つ焼けば済む。夕飯が遅くなっても文句を言う相手はいない。


 楽になったのは確かだった。


 ただ、食卓でテレビにひとこと言っても、誰も「お父さん、うるさい」と言わない。それはどうにも、つまらなかった。


『何か食べたいものあるか?』


 送ると、少しして返事が来た。


『ハンバーグ。いつもの』


『任せろ』


『焦がさないでね』


 思わず苦笑した。もう何年も作っているのに、たまたま焦がした一回をいまだに覚えている。


 でも、ちゃんと「いつもの」と言ってくれる。


 せっかく帰ってくるのだから、どこかへ連れていってやりたい。


 千晴が小さかった頃は、よく二人で出かけたものだった。


 厨房の奥で、寸胴鍋が弱い火にかかっていた。


「お待たせしました」


 目の前に、深い皿が置かれた。


 濃い茶色のソースから、白い湯気が立ち上っている。大きな牛肉と人参、じゃがいも。脇には色鮮やかなブロッコリーが添えられていた。


「どうぞ、ごゆっくり」


 スプーンを持ち、牛肉にそっと当てた。


 ほろり、と崩れる。


 口へ運ぶと、赤ワインの酸味が先に来て、あとから炒めた玉ねぎの甘さが追いかけてきた。牛肉の繊維が舌の上でほどけていく。熱い一口が喉を下りると、体の芯に、静かに火が入るようだった。


 うまいな。


 ご飯も進む。自然と食べる速度を落とし、一口ずつ味わった。


 休日の昼に、こういう食事を取るのもいい。


 冷房の風にさらされていた指先に、皿の熱がじんわりと移ってくる。


 次の一口をすくうと、スプーンの縁が湯気で白く曇った。


 ソースの艶が、光った。


 スプーンの曇りが、ゆっくりと広がっていく。目の前の皿も、手元のスプーンも、白い曇りの向こうへ遠ざかっていった。


 代わりに、耳元で幼い声が弾んだ。


「お父さん、しりとりしよう!」


――小野寺透の記憶――


 空は薄暗かった。


 ハンドルを握る指先が冷たい。フロントガラスの端が、まだ白く曇っている。その向こうに、夜と朝の境目が広がっていた。


「お父さん、お茶」


 後部座席から、小さな手が水筒のコップを差し出してきた。湯気の立つほうじ茶だった。


 赤信号で受け取って、ひと口飲んだ。冷えた指先が、少し温まった。


 千晴、六歳。


 青い上着を着て、海が見えるのを今か今かと待っている。


「しりとり? さっきもやったじゃないか」

「もう一回!」

「しょうがないな。じゃあ、りんご」

「ごりら!」

「らっぱ」

「ぱんだ!」

「だるま」

「まくら!」

「ら、ら……」


 気がつくと、千晴が後ろから身を乗り出していた。ルームミラーの中で、千晴の目がまっすぐこちらを見ていた。


「お父さん、早く!」

「ちょっと待て。考えてるんだから」

「待てなーい!」


 俺は吹き出した。


 そんなに好きか、しりとりが。


 カーブを抜けると、左手の先に海が見えた。まだ色の薄い水面が、遠くまで続いている。


「千晴、海だぞ」

「見えた! でも、しりとり終わってないよ!」

「海よりしりとりか」

「うん!」


 笑いをこらえて、次の言葉を探した。


「……らくだ」

「だんご!」

「ごま」

「まくら!」

「それ、さっき言っただろ」

「いいの!」

「よくないだろ」


 千晴が座席の上で足をばたつかせた。


 やがて俺が「みかん」と言ってしまうと、千晴はすぐさま「今のなし!」と主張した。


「『ん』がついたら終わりだろ」

「終わっちゃだめ!」

「千晴の負けじゃないぞ。お父さんの負けだ」

「じゃあ、もう一回!」


 声が妙に真剣なのが可笑しくて、ハンドルを握ったまま肩が揺れた。


 どうしても遊び続けたいらしい。


 道沿いの駐車場へ車を入れた。


 車を降りると、湿った潮の匂いがした。空の端がゆっくり赤くなり、海面に細い光の道が伸びていく。


「お父さん、きれい!」

「ああ。早起きした甲斐があったな」


 千晴は両手を広げた。小さな上着の袖が朝の風にはためいた。


 俺は娘の横顔を見た。


 まだ丸い頬。少し跳ねた髪。何か言いたくてたまらないように、落ち着きなく動く口元。


「ねえ、お父さん」

「なんだ?」

「帰りも、しりとりしようね」


 ああ、と頷いた。


 いつまでも、こうして一緒に出かけられたらいい。


 そう思った瞬間、海も、空も、娘の姿も、白い光に包まれた。


 スプーンを握る指先が、冷えていた。


 目の前には、半分ほど食べたビーフシチューがある。


 さっきまで聞こえていた波の音はない。


 店の奥から、食器の触れ合う小さな音が聞こえた。


 ……何だったんだ、今のは。


 夢を見たのだろうか。


 そう思うには、あまりにも鮮明だった。


 海から吹いてきた風も、車の中に響く千晴の声も、ついさっきの出来事のように残っている。


 そうだ。あの頃は、あいつとよく海を見に行った。


 しりとりばかりしたがっていたっけ。


 毎日の暮らしに紛れて、すっかり忘れていた。


 鼻から、小さく息が抜けた。


 最近の千晴は、すっかり大人びた。電話で話しても、学校のことは「普通」、勉強のことは「まあまあ」。こちらが知りたいことほど、短く返ってくる。


 寂しいとは言いたくなかった。子供はいつまでも親の隣にいるわけじゃない。それくらい、分かっている。


 けれど、あと一回くらい、一緒に朝日を見に行ってもいいだろう。


 帰ってきたら、誘ってみよう。


 顔を上げると、女将は流しで鍋を洗っていた。客がたった今、七年前の海を見てきたことなど、知る由もないだろう。


 知らなくていい、と思った。


 残りのシチューを、急がずに食べた。


 最後まで温かく、うまかった。


「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました。またどうぞ」


 店を出ると、アスファルトの照り返しが顔に当たった。


 駐車場へ戻り、車のドアを開けた。


 ハンドルに手を置いた。さっきの海を思い出すと、また自然に顔がほころんだ。


 帰りは、海沿いの道を少し遠回りした。


     * * *


 夏休みに入って数日後、千晴が帰ってきた。


「ただいま」

「おかえり。背、伸びたか?」

「一か月前にも会ったでしょ」

「そのときより伸びた気がする」

「そんなに伸びないって」


 玄関に娘の靴が増えた。それだけで、家の中が急ににぎやかになったようだった。


 千晴は大きなバッグを部屋に運び込み、慣れた手つきで洗濯物を取り出した。


「これ、洗っていい?」

「いいけど、先にお茶でも飲めよ」

「あとで飲む。洗濯機、空いてる?」

「誰も使ってないよ。お前がいない間は、ずっと空いてる」

「大げさ」


 俺は冷蔵庫から麦茶を出した。千晴がいると、こういうどうでもいい会話が増える。


 夕飯は約束どおりハンバーグにした。形を整えたつもりの肉は、焼いているうちに少々いびつになった。


「丸くない」

「味には関係ない」

「それ、お父さんの決まり文句だよね」

「うまくなかったか?」

「おいしいよ。だから、また作って」


 何でもない顔で頷いた。


 食後、二人で食器を片づけているとき、思いついたように言った。


「今度の休み、久しぶりにドライブでも行くか」


 千晴の手が止まった。


「……ドライブ?」

「ああ。昔みたいに海でも見に行こう。朝早く出れば、日の出にも間に合うぞ」


 千晴は皿を持ったまま、俺を見た。


「お父さん、まだ車に乗ってるの?」

「そりゃ乗るよ。好きなんだから」

「いつ?」

「休みの日はだいたい。平日も、時間があれば走ってる」

「……一人で?」

「そりゃそうだろ。お前いないんだから」


 冗談めかして言った。昔ほど一緒に出かけてくれなくなった娘を、少しからかうつもりだった。


 けれど千晴は笑わず、黙って皿を流し台に置いた。


 小さな音がした。


「どうした?」

「……お父さん、前にも言ったよね」

「何を?」

「車は乗らないほうがいいって」


 そういえば、春に千晴が母の家へ移るとき、そんなことを言われた。


 俺は笑い飛ばした。


 大丈夫。事故なんて、一度も起こしていないから。


 自分が何年ハンドルを握っていると思っているんだ。そんな気持ちも、あった。


「ああ、言ってたな。でも平気だよ。今までずっと無事故だし」


 千晴はうつむいた。


「……春も、同じこと言った。ちゃんと聞いてくれなかった」

「聞いたよ。でも、本当に平気なんだって」

「無事故だから、心配なんだよ」

「心配って、何が?」


 娘は少し迷ってから、顔を上げた。


「お父さん、昔、一緒に海に行ってたときのこと覚えてる?」

「もちろん。お前、しりとりばっかりやりたがってたな」


 記憶の中の幼い声が、耳によみがえった。


「もう一回、もう一回って。よっぽど好きだったんだろ」


 千晴は首を横に振った。


「別に、好きじゃなかったよ」

「え?」

「しりとり」

「でも、あんなに何度も――」


「お父さんが、返事しなくなるから」


 手が止まった。


「……どういうことだ?」


「運転してるとき、ときどき黙っちゃったでしょ。話しかけても、返事しないの。鏡に映ったお父さんの目が、閉じてることもあった」


「そんな……」


 千晴は続けた。


「一人になったら、誰が起こしてくれるの?」


 静かな問いだった。


 拭きかけの皿を、流し台に戻した。


 朝焼けの海。


 車の中で響く、幼い娘の声。


『お父さん、早く!』


『終わっちゃだめ!』


 妻がいなくなってから、千晴には心細い思いをさせまいと、そればかり考えてきた。


 その間、後部座席の千晴は、ずっと俺を見ていたのだ。


「……何回くらい、あった?」

「分かんない。毎回じゃないけど、何回も」


 自分の両手を見た。


 ハンドルを握っていた手だった。


 運転中に眠った覚えなどない。


 眠気をこらえて走ったつもりもない。無理をしていたという感覚もなかった。


 なのに千晴は、父親の目が閉じていたと言う。


「お父さん?」


 千晴が呼んだ。


 顔を上げた。


「……ごめんな。ちゃんと聞いてやらなくて」


 千晴は小さく首を振った。


「また一緒に出かけるなら、電車がいい」


「ああ」


 俺は頷いた。


「そうしよう」


     * * *


 その夜、千晴が眠ったあとで、俺は駐車場へ下りた。


 後部座席のドアを開け、そこに座った。


 大人の体には、少し窮屈な席だった。膝が前の座席の背に当たる。


 前を見ると、ルームミラーに、誰もいない運転席が小さく映っていた。


 六歳の千晴は、ここから、この鏡を見ていた。


 俺は、しばらくそこから動けなかった。


 翌朝、車の鍵を引き出しにしまった。


 それから病院へ行った。


「運転中に、眠気を感じたことは?」

「ありません。危ないと思ったことも」


 検査を受け、後日、結果を聞いた。


「本人が気づかないまま、ほんの一瞬、意識が途切れることがあるんです」


 医師はそう言って、少なくとも今は運転を控えてください、と付け加えた。


 あの頃、事故を起こさなかった。


 だから安全だった。


 俺はずっと、そう考えてきた。


 違ったのかもしれない。


 そして今も、一人で走り続けていた。


 早朝も。


 夕方も。


 休日も、平日も。


 青信号に気づかなかった、あの日の昼も。


 シチューを食べた帰りに、遠回りした海沿いの道も。


 帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見た。


 いつもと変わらない顔だった。


 いちばん怖いのは、そのことだった。


     * * *


 車を売ることにした。


 治療を受ければ、いつかまた運転できるかもしれない。医師にも、永久に手放せと言われたわけではない。


 それでも、そう決めた。


 好きだったから持っていた。千晴が小さい頃は、車でしか行けない場所にも連れていった。千晴がいなくなったあとの静かな休日にも、車は付き合ってくれた。


 手放すのは、少し惜しかった。


 だが、千晴の「もう一回!」という声を思い出すと、惜しいという気持ちは、長くは続かなかった。


 売却の日、車内をきれいに掃除した。


 後部座席の足元に、小さな砂粒が残っていた。いつのものかは分からない。


 千晴を乗せて海へ行った日のものかもしれない。


 指先で砂粒をつまみ、それから掃除機で吸い取った。


 手続きを終え、車を見送った。


     * * *


「ほんとに売ったんだ」


 千晴は空になった駐車場を見て、ほっと息をついた。


「……よかった」

「ああ」

「でも、あんなに好きだったのに」

「まあな」

「……私が言ったから?」


 千晴は俺を見上げた。


「心配してくれてたんだろ。前から」

「……うん」

「今度はちゃんと聞いた。それだけだ」


 千晴は少し目を丸くして、それから、ほどけるように笑った。


「お父さんが素直に聞くなんて、珍しいね」

「おい、いつも聞いてるだろ」

「そうだっけ?」


 千晴がいたずらっぽく笑った。


「これから休みの日、何するの?」

「さあな。探してみるよ」


 それから二人で、電車に乗った。


「しりとりしてみる?」

「お前、好きじゃなかったんじゃ?」


「電車でなら、好きかもよ」


         ――了――


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