第1話 しりとり
大通りから一本入った路地の奥に、小さな食堂がある。
カウンターが六席と、二人掛けのテーブルが二つ。
女将は静かに火の前に立ち、今日のおすすめを差し出す。
湯気の向こうで、客はふと、自分でも思いがけないものに出会う。
それが過去なのか、誰かの願いなのか、あるいはまだ見ぬ明日なのかは、誰にも分からない。
* * *
車の中で、娘はいつもしりとりをしたがった。
趣味はドライブだった。
海が見たければ海へ、山の空気が吸いたければ山へ行く。休日は朝早くから、平日でも早く目が覚めた日には出勤前に、仕事が早く終わった日には夕方に、ハンドルを握った。
四十五歳の今日まで、無事故、無違反。免許証は、ずっと金色のままだ。
近頃は、車に乗る時間が前より増えた。
娘の千晴が家を出てから、休日がやけに長くなった。その分を、車が埋めていた。
* * *
七月のある休日。
俺は朝から海沿いの道を走り、昼前になって街へ戻ってきた。
信号待ちで、後ろの車に短くクラクションを鳴らされた。前はもう青だった。
朝が早かったせいだろう。
フロントガラスの上のほうで、入道雲が少しずつ形を変えている。昼飯を食べられる場所を探して裏通りを流していると、小さな路地の入口に看板が見えた。
『ごはん屋 なつこ』
見たことのない店だった。このあたりは何度も走っている。こんな店、前からあっただろうか。
近くの時間貸し駐車場に車を停め、歩いて引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
こぢんまりとした店だった。磨かれたカウンターに、きちんと並べられた椅子。冷房は強すぎず、外の熱気にさらされていた体が少しずつ落ち着いていく。
カウンターの向こうには、髪をまとめた女将がいた。エプロンの胸元に、小さな染みがいくつか重なっている。毎日台所に立つ人の染み方だった。
「今日はビーフシチューがおすすめですよ」
「ビーフシチューですか。じゃあ、それを」
「パンとご飯、どちらにします?」
「ご飯でお願いします」
「はい。少々お待ちくださいね」
夏にシチューというのも悪くない。冷房の効いた店でなら、むしろうまそうだ。
待つ間、スマートフォンを取り出した。
千晴から、短いメッセージが届いていた。
『夏休み入ったら帰るから』
『迎えに行こうか』
『いい。電車で帰る』
相変わらず、そっけない。
千晴は十三歳。春から私立の中学校に通い始め、学校に近い俺の母の家で暮らしている。
妻を亡くしたのは、千晴が三歳のときだった。それから十年、母の手を借りながら、二人でやってきた。
娘が言わずに飲み込んだことも、きっとあっただろう。千晴は、よく笑う子に育った。
その千晴が、今は母の家にいる。
二人分だった洗濯は半分になった。目玉焼きも一つ焼けば済む。夕飯が遅くなっても文句を言う相手はいない。
楽になったのは確かだった。
ただ、食卓でテレビにひとこと言っても、誰も「お父さん、うるさい」と言わない。それはどうにも、つまらなかった。
『何か食べたいものあるか?』
送ると、少しして返事が来た。
『ハンバーグ。いつもの』
『任せろ』
『焦がさないでね』
思わず苦笑した。もう何年も作っているのに、たまたま焦がした一回をいまだに覚えている。
でも、ちゃんと「いつもの」と言ってくれる。
せっかく帰ってくるのだから、どこかへ連れていってやりたい。
千晴が小さかった頃は、よく二人で出かけたものだった。
厨房の奥で、寸胴鍋が弱い火にかかっていた。
「お待たせしました」
目の前に、深い皿が置かれた。
濃い茶色のソースから、白い湯気が立ち上っている。大きな牛肉と人参、じゃがいも。脇には色鮮やかなブロッコリーが添えられていた。
「どうぞ、ごゆっくり」
スプーンを持ち、牛肉にそっと当てた。
ほろり、と崩れる。
口へ運ぶと、赤ワインの酸味が先に来て、あとから炒めた玉ねぎの甘さが追いかけてきた。牛肉の繊維が舌の上でほどけていく。熱い一口が喉を下りると、体の芯に、静かに火が入るようだった。
うまいな。
ご飯も進む。自然と食べる速度を落とし、一口ずつ味わった。
休日の昼に、こういう食事を取るのもいい。
冷房の風にさらされていた指先に、皿の熱がじんわりと移ってくる。
次の一口をすくうと、スプーンの縁が湯気で白く曇った。
ソースの艶が、光った。
スプーンの曇りが、ゆっくりと広がっていく。目の前の皿も、手元のスプーンも、白い曇りの向こうへ遠ざかっていった。
代わりに、耳元で幼い声が弾んだ。
「お父さん、しりとりしよう!」
――小野寺透の記憶――
空は薄暗かった。
ハンドルを握る指先が冷たい。フロントガラスの端が、まだ白く曇っている。その向こうに、夜と朝の境目が広がっていた。
「お父さん、お茶」
後部座席から、小さな手が水筒のコップを差し出してきた。湯気の立つほうじ茶だった。
赤信号で受け取って、ひと口飲んだ。冷えた指先が、少し温まった。
千晴、六歳。
青い上着を着て、海が見えるのを今か今かと待っている。
「しりとり? さっきもやったじゃないか」
「もう一回!」
「しょうがないな。じゃあ、りんご」
「ごりら!」
「らっぱ」
「ぱんだ!」
「だるま」
「まくら!」
「ら、ら……」
気がつくと、千晴が後ろから身を乗り出していた。ルームミラーの中で、千晴の目がまっすぐこちらを見ていた。
「お父さん、早く!」
「ちょっと待て。考えてるんだから」
「待てなーい!」
俺は吹き出した。
そんなに好きか、しりとりが。
カーブを抜けると、左手の先に海が見えた。まだ色の薄い水面が、遠くまで続いている。
「千晴、海だぞ」
「見えた! でも、しりとり終わってないよ!」
「海よりしりとりか」
「うん!」
笑いをこらえて、次の言葉を探した。
「……らくだ」
「だんご!」
「ごま」
「まくら!」
「それ、さっき言っただろ」
「いいの!」
「よくないだろ」
千晴が座席の上で足をばたつかせた。
やがて俺が「みかん」と言ってしまうと、千晴はすぐさま「今のなし!」と主張した。
「『ん』がついたら終わりだろ」
「終わっちゃだめ!」
「千晴の負けじゃないぞ。お父さんの負けだ」
「じゃあ、もう一回!」
声が妙に真剣なのが可笑しくて、ハンドルを握ったまま肩が揺れた。
どうしても遊び続けたいらしい。
道沿いの駐車場へ車を入れた。
車を降りると、湿った潮の匂いがした。空の端がゆっくり赤くなり、海面に細い光の道が伸びていく。
「お父さん、きれい!」
「ああ。早起きした甲斐があったな」
千晴は両手を広げた。小さな上着の袖が朝の風にはためいた。
俺は娘の横顔を見た。
まだ丸い頬。少し跳ねた髪。何か言いたくてたまらないように、落ち着きなく動く口元。
「ねえ、お父さん」
「なんだ?」
「帰りも、しりとりしようね」
ああ、と頷いた。
いつまでも、こうして一緒に出かけられたらいい。
そう思った瞬間、海も、空も、娘の姿も、白い光に包まれた。
スプーンを握る指先が、冷えていた。
目の前には、半分ほど食べたビーフシチューがある。
さっきまで聞こえていた波の音はない。
店の奥から、食器の触れ合う小さな音が聞こえた。
……何だったんだ、今のは。
夢を見たのだろうか。
そう思うには、あまりにも鮮明だった。
海から吹いてきた風も、車の中に響く千晴の声も、ついさっきの出来事のように残っている。
そうだ。あの頃は、あいつとよく海を見に行った。
しりとりばかりしたがっていたっけ。
毎日の暮らしに紛れて、すっかり忘れていた。
鼻から、小さく息が抜けた。
最近の千晴は、すっかり大人びた。電話で話しても、学校のことは「普通」、勉強のことは「まあまあ」。こちらが知りたいことほど、短く返ってくる。
寂しいとは言いたくなかった。子供はいつまでも親の隣にいるわけじゃない。それくらい、分かっている。
けれど、あと一回くらい、一緒に朝日を見に行ってもいいだろう。
帰ってきたら、誘ってみよう。
顔を上げると、女将は流しで鍋を洗っていた。客がたった今、七年前の海を見てきたことなど、知る由もないだろう。
知らなくていい、と思った。
残りのシチューを、急がずに食べた。
最後まで温かく、うまかった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。またどうぞ」
店を出ると、アスファルトの照り返しが顔に当たった。
駐車場へ戻り、車のドアを開けた。
ハンドルに手を置いた。さっきの海を思い出すと、また自然に顔がほころんだ。
帰りは、海沿いの道を少し遠回りした。
* * *
夏休みに入って数日後、千晴が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。背、伸びたか?」
「一か月前にも会ったでしょ」
「そのときより伸びた気がする」
「そんなに伸びないって」
玄関に娘の靴が増えた。それだけで、家の中が急ににぎやかになったようだった。
千晴は大きなバッグを部屋に運び込み、慣れた手つきで洗濯物を取り出した。
「これ、洗っていい?」
「いいけど、先にお茶でも飲めよ」
「あとで飲む。洗濯機、空いてる?」
「誰も使ってないよ。お前がいない間は、ずっと空いてる」
「大げさ」
俺は冷蔵庫から麦茶を出した。千晴がいると、こういうどうでもいい会話が増える。
夕飯は約束どおりハンバーグにした。形を整えたつもりの肉は、焼いているうちに少々いびつになった。
「丸くない」
「味には関係ない」
「それ、お父さんの決まり文句だよね」
「うまくなかったか?」
「おいしいよ。だから、また作って」
何でもない顔で頷いた。
食後、二人で食器を片づけているとき、思いついたように言った。
「今度の休み、久しぶりにドライブでも行くか」
千晴の手が止まった。
「……ドライブ?」
「ああ。昔みたいに海でも見に行こう。朝早く出れば、日の出にも間に合うぞ」
千晴は皿を持ったまま、俺を見た。
「お父さん、まだ車に乗ってるの?」
「そりゃ乗るよ。好きなんだから」
「いつ?」
「休みの日はだいたい。平日も、時間があれば走ってる」
「……一人で?」
「そりゃそうだろ。お前いないんだから」
冗談めかして言った。昔ほど一緒に出かけてくれなくなった娘を、少しからかうつもりだった。
けれど千晴は笑わず、黙って皿を流し台に置いた。
小さな音がした。
「どうした?」
「……お父さん、前にも言ったよね」
「何を?」
「車は乗らないほうがいいって」
そういえば、春に千晴が母の家へ移るとき、そんなことを言われた。
俺は笑い飛ばした。
大丈夫。事故なんて、一度も起こしていないから。
自分が何年ハンドルを握っていると思っているんだ。そんな気持ちも、あった。
「ああ、言ってたな。でも平気だよ。今までずっと無事故だし」
千晴はうつむいた。
「……春も、同じこと言った。ちゃんと聞いてくれなかった」
「聞いたよ。でも、本当に平気なんだって」
「無事故だから、心配なんだよ」
「心配って、何が?」
娘は少し迷ってから、顔を上げた。
「お父さん、昔、一緒に海に行ってたときのこと覚えてる?」
「もちろん。お前、しりとりばっかりやりたがってたな」
記憶の中の幼い声が、耳によみがえった。
「もう一回、もう一回って。よっぽど好きだったんだろ」
千晴は首を横に振った。
「別に、好きじゃなかったよ」
「え?」
「しりとり」
「でも、あんなに何度も――」
「お父さんが、返事しなくなるから」
手が止まった。
「……どういうことだ?」
「運転してるとき、ときどき黙っちゃったでしょ。話しかけても、返事しないの。鏡に映ったお父さんの目が、閉じてることもあった」
「そんな……」
千晴は続けた。
「一人になったら、誰が起こしてくれるの?」
静かな問いだった。
拭きかけの皿を、流し台に戻した。
朝焼けの海。
車の中で響く、幼い娘の声。
『お父さん、早く!』
『終わっちゃだめ!』
妻がいなくなってから、千晴には心細い思いをさせまいと、そればかり考えてきた。
その間、後部座席の千晴は、ずっと俺を見ていたのだ。
「……何回くらい、あった?」
「分かんない。毎回じゃないけど、何回も」
自分の両手を見た。
ハンドルを握っていた手だった。
運転中に眠った覚えなどない。
眠気をこらえて走ったつもりもない。無理をしていたという感覚もなかった。
なのに千晴は、父親の目が閉じていたと言う。
「お父さん?」
千晴が呼んだ。
顔を上げた。
「……ごめんな。ちゃんと聞いてやらなくて」
千晴は小さく首を振った。
「また一緒に出かけるなら、電車がいい」
「ああ」
俺は頷いた。
「そうしよう」
* * *
その夜、千晴が眠ったあとで、俺は駐車場へ下りた。
後部座席のドアを開け、そこに座った。
大人の体には、少し窮屈な席だった。膝が前の座席の背に当たる。
前を見ると、ルームミラーに、誰もいない運転席が小さく映っていた。
六歳の千晴は、ここから、この鏡を見ていた。
俺は、しばらくそこから動けなかった。
翌朝、車の鍵を引き出しにしまった。
それから病院へ行った。
「運転中に、眠気を感じたことは?」
「ありません。危ないと思ったことも」
検査を受け、後日、結果を聞いた。
「本人が気づかないまま、ほんの一瞬、意識が途切れることがあるんです」
医師はそう言って、少なくとも今は運転を控えてください、と付け加えた。
あの頃、事故を起こさなかった。
だから安全だった。
俺はずっと、そう考えてきた。
違ったのかもしれない。
そして今も、一人で走り続けていた。
早朝も。
夕方も。
休日も、平日も。
青信号に気づかなかった、あの日の昼も。
シチューを食べた帰りに、遠回りした海沿いの道も。
帰りの電車で、窓に映る自分の顔を見た。
いつもと変わらない顔だった。
いちばん怖いのは、そのことだった。
* * *
車を売ることにした。
治療を受ければ、いつかまた運転できるかもしれない。医師にも、永久に手放せと言われたわけではない。
それでも、そう決めた。
好きだったから持っていた。千晴が小さい頃は、車でしか行けない場所にも連れていった。千晴がいなくなったあとの静かな休日にも、車は付き合ってくれた。
手放すのは、少し惜しかった。
だが、千晴の「もう一回!」という声を思い出すと、惜しいという気持ちは、長くは続かなかった。
売却の日、車内をきれいに掃除した。
後部座席の足元に、小さな砂粒が残っていた。いつのものかは分からない。
千晴を乗せて海へ行った日のものかもしれない。
指先で砂粒をつまみ、それから掃除機で吸い取った。
手続きを終え、車を見送った。
* * *
「ほんとに売ったんだ」
千晴は空になった駐車場を見て、ほっと息をついた。
「……よかった」
「ああ」
「でも、あんなに好きだったのに」
「まあな」
「……私が言ったから?」
千晴は俺を見上げた。
「心配してくれてたんだろ。前から」
「……うん」
「今度はちゃんと聞いた。それだけだ」
千晴は少し目を丸くして、それから、ほどけるように笑った。
「お父さんが素直に聞くなんて、珍しいね」
「おい、いつも聞いてるだろ」
「そうだっけ?」
千晴がいたずらっぽく笑った。
「これから休みの日、何するの?」
「さあな。探してみるよ」
それから二人で、電車に乗った。
「しりとりしてみる?」
「お前、好きじゃなかったんじゃ?」
「電車でなら、好きかもよ」
――了――




