第26話「日本に帰りたい、その言葉を残したのは誰ですか?」
『ニホンニ、カエリタイ』
俺は手紙に書かれた文字を、もう一度読み直した。
……日本に帰りたい。
間違いない。
日本語だ。
しかも、俺が今、一番口にしたい言葉だった。
「……どういうことだ?」
十年前、王宮の魔法陣実験で姿を消した研究員。
エドガー・リヒト。
この世界で生まれ、この世界で育ったはずの男が、なぜ日本という国を知っていたのか。
……まさか、あの人も日本から来た?
いや。
待て待て。
名前が異世界風だからといって、日本人じゃないと決めつけるのも変だ。
でも、記録では宮廷魔術研究所の研究員だった。
そこには何か事情があるはずだ。
『――おじさん、どうしたんですか?』
枕元のミドリが、ぷるんと揺れた。
「……ちょっと、気になることがあってね」
『――帰る方法ですか?』
「うん。でも、まだわからない」
俺は手紙を丁寧に畳んだ。
……明日、マリアさんに確認しよう。
今すぐ王城に走っていきたい気持ちはある。
でも、夜中に研究所へ押しかけたところで、記録が増えるわけじゃない。
四十六歳。
徹夜の翌日に無理が利く年齢でもない。
……いや、異世界転生しても、そこは変わらないんだな。
◇◆◇
翌朝。
王宮魔術研究所を訪ねると、マリアさんが待っていた。
「成田様。昨夜の手紙は届きましたか?」
「はい。ありがとうございます」
俺は椅子に座った。
「早速ですが、あの言葉について確認させてください」
「もちろんです」
「『ニホンニ、カエリタイ』という言葉は、誰が聞いたんでしょう?」
マリアさんは記録帳を開いた。
「当時の実験責任者です。エドガー研究員が実験直前に口にしたと記されています」
「……その責任者は、日本語を理解していたんですか?」
「いいえ。意味不明な発音として書き留めたそうです」
……なるほど。
聞こえた音を、そのまま記録したのか。
「では、エドガーさんが実際に何を意味して言ったのかは、わからないんですね」
「そうなります」
……うん。
ここは大事だ。
日本語に聞こえた。
それだけで、本人が日本人だったとは言えない。
「もう一つ。エドガーさんは、以前から異世界について研究していたんでしょうか?」
「はい。境界の神殿から回収された遺物の分析にも関わっていました」
「……あの黒い端末に?」
「そうです」
マリアさんは頷いた。
「彼は、あの物品が別の世界から来た可能性を強く主張していたそうです」
……なるほど。
それなら、日本という言葉をどこかで知った可能性もある。
「エドガーさんの研究ノートは残っていますか?」
「一部だけですが」
「見せていただけますか?」
「はい。ただし、専門的な内容が多いので……」
「……頑張ります」
いや、頑張っても魔術理論はわからないけど。
◇◆◇
机の上に、古びた研究ノートが置かれた。
中には、魔法陣の図や数式らしきものがびっしり書かれている。
……うん。
完全に専門外だ。
俺はページをめくった。
すると、途中に見覚えのある図があった。
二つの円が重なった紋章。
その横に、短い文章が書かれている。
【境界の守り手は、門を閉ざす者なり】
「……これ」
俺は思わず呟いた。
「王女様が調べていた古文書にも、同じ言葉がありました」
マリアさんが顔を上げた。
「……そうなのですか?」
「はい」
王女様が見せてくれた、古い記録。
そこには確かに、同じ言葉があった。
後の時代の資料では『二つの世界を結ぶ誓約を継ぐ者』と書かれていたけれど。
「この文章、エドガーさんはどこから引用したんでしょう?」
マリアさんはノートの余白を確認した。
「……出典が書かれていますね」
「……本当ですか?」
「『北方神殿調査記録・補遺』と」
「…………」
……え?
俺は、思わずマリアさんを見た。
「……その本って」
「はい?」
「今、王立図書館で盗難事件になっている本です」
マリアさんの表情が変わった。
「……何ですって?」
◇◆◇
その日の午前中。
俺はアルベルト総監の執務室にいた。
机の上には、エドガーさんの研究ノートの写し。
そして、王立図書館の盗難事件に関する資料が並んでいた。
「……なるほど」
総監は、ゆっくり頷いた。
「十年前の研究員が、現在行方不明になっている古文書を参照していたわけか」
「はい」
「しかも、その古文書には境界の守り手についての記述があった」
「そうです」
俺は頷いた。
「ただ、これだけでは盗難事件との関係はわかりません」
「うむ」
「でも、少なくとも調べる価値はあると思います」
総監は、研究ノートの写しを見つめた。
「……実は、こちらでも進展があった」
「……おお」
「王立図書館の入退室記録を消した権限について、使用履歴の一部が復元された」
「……本当ですか?」
「ただし、誰が操作したかまでは特定できていない」
……なるほど。
まだ決定的ではないのか。
「わかったのは、記録が消された時刻だ」
「……時刻?」
「ルークが図書館を出た後だ」
……おお!
それは大きい。
「では、ルークさんが直接操作した可能性は低いんですね?」
「少なくとも、通常の入退室経路を使っていたならな」
総監は頷いた。
「だが、まだ完全に疑いが晴れたわけではない」
「……はい」
わかっている。
ここで早合点してはいけない。
◇◆◇
「それと、もう一つ」
総監が続けた。
「ベルク卿についても確認を進めている」
「……はい」
「十年前、彼が神殿の調査記録の一部を非公開にするよう指示したのは事実だった」
「……そうですか」
「ただし、当時の王宮には、境界の神殿で起きた魔力異常が国民に不安を与えることを懸念する声があった」
……なるほど。
つまり、情報を制限した理由は一応あったわけだ。
「それだけで不正とは言えませんね」
「そのとおりだ」
総監は頷いた。
「問題は、その後だ」
「……その後?」
「ベルク卿は、非公開となった調査記録を利用して、ある提案書を作成していた」
「……提案書?」
「王族の婚姻同盟に関するものだ」
……え?
また結婚問題?
「どんな内容なんでしょう?」
「まだ全文は確認できていない。ただ、提案書の題名は判明した」
総監は、一枚の紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
【王家婚姻同盟の再編に関する長期計画】
【作成者:オズワルド・ベルク】
【作成年:王国暦三一二年】
……十年前。
神殿の魔力異常が起きた年。
そして、エドガーさんが姿を消した年。
「……これって」
俺は総監を見た。
「王女様の結婚問題にも、関係しているんでしょうか?」
「可能性はある」
総監は静かに答えた。
「ただし、当時のエレノア殿下はまだ幼かった。現在の七人の候補を、その時点で決めていたわけではない」
「……なるほど」
「有力貴族との婚姻関係を、長期的にどう構築するかという計画だったようだ」
……うん。
そこは、ちゃんと区別しないとな。
◇◆◇
「……総監」
「何だね?」
「王女様は、この提案書のことをご存じなんでしょうか?」
「おそらく、知らないだろう」
「……そうですか」
俺は少し考えた。
王女様は、自分の意思を尊重してほしいと願っている。
国王も、その約束を守ろうとしている。
でも、貴族たちには政治的な事情がある。
そして、その裏には十年前から続く計画があるかもしれない。
……難しいなぁ。
結婚相談所でも、親御さんの希望と本人の希望が食い違うことはあった。
でも、国家規模となると話が違う。
「王女様には、どこまでお伝えする予定ですか?」
総監は、しばらく考えた。
「まずは陛下に報告する。そのうえで、殿下にも必要な情報を共有するべきだろう」
「……はい」
俺は頷いた。
「できれば、王女様ご本人が考えるための材料として、説明していただきたいです」
「……どういう意味だ?」
「結婚を迫るためでも、誰かを疑わせるためでもなく」
俺は言葉を選んだ。
「ご自身の将来について、納得して判断するための情報としてです」
総監は、静かに頷いた。
「……わかった」
◇◆◇
執務室を出ると、セリスが廊下で待っていた。
「成田殿」
「……セリスさん」
「ルークの件で、少し進展があった」
「……またですか?」
今日は情報量が多いなぁ。
「王立図書館の司書長が、事情聴取に応じた」
「……おお」
ルークさんが、事件当日に廊下で見かけたという人だ。
「何かわかったんですか?」
「司書長は、事件当日、確かに保管室の近くにいたと認めた」
「……なるほど」
「ただし、古文書には触れていないと話している」
……うん。
それだけなら、まだ何も言えない。
「それで、何か新しい証拠が?」
セリスは頷いた。
「司書長が持っていた鍵の記録を調べたところ、保管室の予備鍵が一時的に貸し出されていたことがわかった」
「……予備鍵?」
「ああ。しかも、貸し出し先は王宮の文官だった」
……文官。
俺は思わず息を呑んだ。
「……誰ですか?」
セリスは、少し声を落とした。
「オズワルド・ベルクの補佐官だ」
「…………」
……また、その名前につながるのか。
でも。
補佐官が鍵を借りたからといって、ベルク卿が命じたとは限らない。
もちろん、補佐官自身が盗んだとも限らない。
……焦るな。
俺は、自分に言い聞かせた。
「その補佐官には、事情を聞くんですか?」
「ああ。担当官が手配している」
「……そうですか」
俺は頷いた。
ここから先は、捜査の仕事だ。
俺が勝手に動くべきではない。
◇◆◇
その日の夕方。
俺は王女様の研究室を訪れた。
エレノア王女は、机いっぱいに広げた資料を見つめていた。
「……成田さん」
「こんにちは、殿下」
「ルークの件、何かわかった?」
……やっぱり。
真っ先に聞くのは、そこか。
「少しずつ調査は進んでいます。ただ、まだ結論は出ていません」
「……そう」
王女様は、少し肩を落とした。
「でも、ルークさんだけを疑う状況ではなくなってきています」
「……本当?」
「はい。ただし、正式な判断は担当官からの報告を待つ必要があります」
王女様は、小さく頷いた。
「……わかったわ」
俺は、机の上の資料に目を向けた。
「研究は進んでいますか?」
「ええ。少しだけ」
王女様は、一枚の古い地図を見せてくれた。
「境界の神殿について、気になることがあるの」
「……何でしょう?」
「三百年前の地図では、神殿の周囲に五つの領地が描かれているの」
「……五つ?」
「ええ。でも、現在の地図では、そのうち一つが消えている」
……五つ。
王国統一戦争。
五つの婚姻同盟。
そして、記録から消えた五つ目の家。
……まさか。
「その領地って……」
王女様は頷いた。
「ええ。『境界の守り手』と呼ばれた家の領地だった可能性があるわ」
……なるほど。
歴史研究が、少しずつ核心に近づいている。
「ただ、まだ確証はないの」
「はい」
「だから、ルークと一緒に調べたいのよ」
王女様は、真剣な目で俺を見た。
「私たちが調べていることが、今の王国にも関係しているなら……なおさら」
……うん。
この人は、ちゃんと自分で考えている。
俺は小さく頷いた。
「そのためにも、研究を続けられる環境を整えましょう」
「……ありがとう」
王女様は、少しだけ微笑んだ。
◇◆◇
研究室を出たあと。
俺は廊下の窓から、夕暮れの王都を眺めた。
……日本に帰りたい。
その気持ちは、何も変わっていない。
でも、帰還装置の研究は、今すぐ俺がどうにかできる段階じゃない。
マリアさんたちが記録を調べてくれている。
俺にできることは、必要な情報を伝え、結果を待つことだ。
そして、今。
目の前には、相談を必要としている人たちがいる。
王女様。
ルークさん。
そして、王国の人々。
……俺にできるのは、婚活相談くらいなんだけどなぁ。
でも。
その「くらい」が、今は役に立つかもしれない。
俺は、静かに息を吐いた。
……よし。
まずは、目の前の問題を一つずつ。
◇◆◇
その夜。
アルベルト総監の執務室に、一通の報告書が届いた。
王立図書館の予備鍵を借りた補佐官についての調査結果だった。
総監は、報告書を読み進める。
そして、最後の一行で手を止めた。
【予備鍵の貸出申請理由】
【王家婚姻同盟に関する古文書の確認】
【申請者:外交顧問補佐官】
【承認者:オズワルド・ベルク】
総監は、深く息を吐いた。
「……ベルク卿」
そして、机の上に置かれた十年前の提案書へ目を向けた。
王家婚姻同盟の再編。
境界の神殿。
消えた五つ目の家。
……これらは、偶然なのか。
それとも。
誰かが、三百年前の婚姻同盟に関する記録を、今になって探しているのか。
――第26話・完――
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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