#7
◇ ◇ ◇
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日で、目が覚める。
「……よく寝た。」
時計は、午前六時半。
零奈を送り出すために、いつもより早く起きる時間だ。
ベッドから起き上がり、洗面所へ向かう。
蛇口をひねり、水で顔を洗う。
顔を上げた瞬間。
「……。」
鏡の中の自分と、目が合った。
昨日までとは、明らかに違う。
慢性的な寝不足で沈んでいた目の下の隈が、消えている。
栄養も足りず、痩せこけていた頬に、張りが戻っていた。
血色のいい肌。
そして何より。
「……背、伸びてないか、これ。」
鏡の中の自分は、昨日より確実に目線が高い。
肩幅も、胸板も、一回り大きくなっている。
二十歳なのでまだ、伸びる余地はあった。
その伸びしろを、七曜システムが一気に引き出したのだろう。
過労で削れていくばかりだった身体が、本来あるべき姿へ作り替えられていた。
「……悪くはない、けど。」
問題は、別にあった。
着替えようとスーツへ袖を通すと、あちこちが窮屈だった。
肩が張り、袖が短い。
「……スーツまでは、育ってくれないか。」
思わず苦笑する。
「帰りに、直しに出すか……。」
そう呟いて、リビングへ向かう。
台所に立とうとしたらぱたぱたと足音がした。
「おはよ……って、」
寝ぼけ眼でリビングに現れた零奈が、侑を見て固まった。
「……え、お兄ちゃん、なんか、でかくない?」
「気のせいだろ。」
「絶対でかくなってる! 昨日より背高いもん!」
「一晩で背が伸びる人間がいるかよ。」
侑は平然と誤魔化しながら、卵を割る。
零奈は、じっと兄を見つめていた。
その視線には、疑いと――ほんの少しの心配が混じっている。
「……お兄ちゃん、ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。」
「嘘。昨日だって、あんな遅くに帰ってきて。」
零奈は、ぷいとそっぽを向く。
「別に、心配とかじゃないけど。」
「……無理して倒れられても、困るし。」
その言い方が、あまりに不器用で。
侑は、思わず笑ってしまった。
「わかってる。ちゃんと気をつける。」
「……ならいい。」
零奈は、まだ少し膨れたまま、食卓についた。
両親がいなくなってから、三年。
この子は、こうしていつも兄を心配して、それを素直に言えずにいる。
守らなければ、と思う。
昨日、命を懸けてでもあの少女を助けようとしたのも。
きっと、根っこは同じだった。
◇ ◇ ◇
零奈を送り出し、侑もマンションを出る。
階段を降りようとした、その時だった。
「ん?」
足が、軽い。
一段飛ばしどころか、二段飛ばしでもまるで負担がない。
試しに、軽く踏み込む。
トンッ。
身体が、思った以上に前へ飛んだ。
「うおっ!」
慌てて手すりを掴み、転倒だけは免れる。
「……危ねぇ。」
心臓が跳ねる。
今のは完全に、力加減を間違えた。
「身体能力も、変わってるのか。」
昨日は必死だった。
神話級を相手に、逃げることしか考えていなかったから気付かなかった。
今なら、分かる。
歩幅。
脚力。
反応速度。
どれも、確実に向上している。
侑は深呼吸を一つしてから、小さく笑った。
「しばらくは、慣れるのが大変そうだ。」
無意識に力を出せば、人前で怪しまれる。
零奈の前でも、職場でも、普通の顔をしていなければならない。
まず覚えるべきは、"力加減"だった。
◇ ◇ ◇
最寄り駅へ向かう途中。
コンビニへ立ち寄り、コーヒーを買う。
レジ待ちの列でスマートフォンを開くと、ニュースアプリの通知が目に入った。
【速報】
トッカン、昨夜出現した門について会見
侑は、そのまま記事を開く。
壇上へ立つトッカンの職員が、淡々と発表していた。
『昨夜発生した門について、調査結果をご報告します。』
『今回確認された門は、既存の白門とは性質が大きく異なります。』
『内部で観測された魔力量、生態系、空間構造、そのすべてが既存データと一致しません。』
『よって本件を"特異個体案件"として、調査を継続します。』
侑の表情が、僅かに変わる。
やはりあれは、普通ではなかった。
記事は、続く。
『なお当該門は、生還者二名の帰還から約四時間後、前触れなく消滅しました。』
『現在、現場には門の痕跡すら残っておらず、原因は不明です。』
「……消えた?」
侑は思わず、小さく呟く。
門が消える。
そんな話は、ニュースでも聞いたことがない。
画面の下には、専門家のコメントが表示されている。
『門が自然消滅した事例は、国内初となる可能性があります。』
侑はスマートフォンの画面を閉じた。
ヴリドラ。
特異個体。
そして、消えた門。
昨日の出来事は、自分が思っている以上に、世界へ大きな波紋を広げているのかもしれない。
そんな予感だけが、胸の奥へ静かに残っていた。
◇◇◇
東京都千代田区。
日本最大ギルド――ヘヴンズ本部。
最上階にある会議室には、幹部たちが静かに集められていた。
巨大なスクリーンには、昨夜出現した門の映像と、膨大な解析データが映し出されている。
「魔力量は?」
低く落ち着いた声が響く。
部屋の奥。
椅子へ深く腰掛けている男。
ヘヴンズのギルドマスター。
城崎 賢治。
日本を代表するSランク能力者の一人。
部下が資料をめくる。
「通常の白門の、およそ四百七十倍です。」
会議室が、静まり返る。
「あり得ません。」
「計測機器の故障では?」
誰かが、そう口にする。
しかし城崎は、首を横へ振った。
「違う。」
その一言だけで、全員が黙る。
「トッカンの計測器が壊れるとは思えません。」
隣へ座る副ギルドマスター。
桐谷 真弓が、静かに口を開く。
「魔力量だけなら、黒門以上。」
「生還者は二名。」
「しかも門は、四時間後に消滅。」
資料を見つめながら、続ける。
「情報同士が、噛み合いません。」
城崎はスクリーンを見つめたまま、呟いた。
「……中で、何かが起きた。」
「それだけは、確かだ。」
しばらく、沈黙が流れる。
やがて城崎は、椅子から立ち上がった。
「生還者の身元は、もう割れているな?」
桐谷が頷く。
「はい。二十歳の、一般の会社員です。能力歴はありません。」
「妹と二人暮らし。両親は、数年前から行方不明――と。」
「そうか。」
城崎は、短く息を吐いた。
そして、幹部たちを見回す。
「調査班を張り付けて、生活を洗う。」
そこまで言いかけて、城崎は自分で首を振った。
「……いや、やめだ。」
桐谷が、僅かに目を見開く。
「マスター?」
「回りくどいのは、性に合わん。」
城崎は、無精髭の顎を撫でた。
「探偵ごっこで一週間かけて調べたところで、結局は本人に聞くのが一番早い。」
「俺が、直接会いに行く。」
会議室が、ざわついた。
「お待ちください。」
一人の幹部が、思わず腰を浮かせる。
「ギルドマスター自らなど……。相手の正体も、まだ分からないのですよ。」
「だから会うんだ。」
城崎の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
「Sランクが雁首揃えて、こそこそ尾行する方がよっぽど怪しいだろう。」
「一人で、茶でも飲みに行く。その方が早いし、角も立たん。」
桐谷は、小さく息を吐いた。
このギルドマスターが一度こう言い出すと、誰にも止められない。
それは、長年隣で見てきた彼女が、一番よく知っていた。
「……敵意はないと、示すのですね。」
「ああ。」
城崎は、上着を羽織る。
「敵に回す理由が、どこにもない。」
「一般人が、神話級かもしれん門から少女を守って帰ってきた。」
「そんな面白い奴、敵にするにはもったいないだろう。」
そう言って、城崎は会議室を出ていった。
残された幹部たちは、顔を見合わせる。
止められる者は、誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
東京都郊外。
牙王組本部。
木造の、重厚な会議室。
壁には無数の武器が飾られている。
机を囲む男たちは皆、歴戦の能力者だった。
「門が……消えただぁ?」
資料を机へ叩きつけたのは、組長。
大問 徹人。
傷だらけの大男は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「国内初です。」
「原因は、不明。」
幹部が答える。
大問は腕を組み、目を閉じた。
「討伐された可能性は?」
「ありません。」
「魔石も、素材も確認されていません。」
「なら、違うな。」
大問は即座に否定した。
「もし討伐なら、何か残る。」
「何も残ってねぇってことは、もっと別の理由だ。」
誰も、反論できない。
しばらく沈黙が続いたあと、大問が笑った。
「面白ぇ。」
「久々に、血が騒ぐ。」
その笑みを見た幹部たちは、誰も笑わなかった。
彼が本気で興味を持つ時ほど危険だと、知っているからだ。
◇ ◇ ◇
横浜。
高層ビル、最上階。
スターリング本部。
スクリーンへ映し出された魔力波形を、一人の男が静かに眺めていた。
ギルドマスター。
葉壁 悠真。
世界でも二人しか存在しない、二属性魔法の使い手。
その瞳は、解析データを一つ一つ読み取っていく。
「……解析不能。」
誰にも聞こえないほど、小さく呟く。
幹部が、恐る恐る尋ねた。
「葉壁さん。」
「もし、その魔力の主と戦ったら……。」
葉壁は、少しだけ考えた。
そして、静かに答える。
「勝てるかどうか、分かりませんね……」
その一言で、空気が凍りつく。
「私一人でも。」
「三大ギルド全員でも。」
「恐らく、結果は変わらないと思います。」
誰一人として、言葉を返せなかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
侑は、まだ何も知らないでいた。
三大ギルドが動き出したことも。
その一つのギルドマスターが、自分に会いに来ようとしていることも。
そして――一般には存在すら公表されない、あの機関までもが、静かに自分を見始めていることも。
「おはようございます。」
侑はいつも通り、会社の自動ドアをくぐった。
受付の女性が、顔を上げる。
「……え?」
そのまま、固まる。
侑は、苦笑いを浮かべた。
「桜咲です。」
「……桜咲、さん?」
驚きの声に、近くの社員たちまで振り向く。
「えっ!? 桜咲くん!?」
「なんか、ガタイ良くなってない?」
「背も伸びてないか、これ!」
あっという間に、人だかりができた。
「何かのトレーニング始めたの?」
「プロテインの名前、教えて!」
「その方法、俺にも教えてくれ!」
口々に飛んでくる言葉に、侑は肩をすくめる。
「……妹が、よく食べさせるんですよ。」
苦しすぎる言い訳だった。
だが他に、説明のしようがない。
まさか、神話級の化け物から生き延びた副産物です、とは言えない。
「若い子は成長期が長いなぁ!」
「羨ましいっ!」
同僚たちは、勝手に納得してくれた。
侑は内心で、ほっと息を吐く。
どうやら人間は、理解できない出来事を、都合よく解釈してくれるらしい。
「桜咲くん、朝から騒がしくてごめんな。」
苦笑しながら声をかけてきたのは、直属の上司だった。
「叔父さんから、くれぐれもよろしくと言われててな。」
「無理はしてないか? 妹さんと二人、大変だろう。」
「……大丈夫です。ありがとうございます。」
侑は、小さく頭を下げた。
叔父の口利きで入った会社だ。
だが、周囲は侑の事情を知った上で、いつも気にかけてくれる。
両親がいないこと。
中学生の妹と、二人で生きていること。
それを、憐れむでもなく、ただ自然に支えてくれる。
この職場のそういうところが、侑は嫌いではなかった。
.




