#3
世界が、再び音を取り戻す。
ドラゴンの爪が迫る。
侑は反射的に少女を抱え、横へ転がった。
轟音。
先ほどまで立っていた場所が、巨大な爪によって消し飛ぶ。
土煙の中、画面だけが冷静に文字を刻む。
《残り29秒》
「……そういうことか。」
侑は理解した。
これは、システムによる確認だ。
どんな状況でも、この意思を失わない人間かどうか。
七曜システムの、継承クエスト。
そして侑は、まだ武器の一つも握ったことのない、ただの二十歳のまま、神話級の存在から、三十秒間生き残らなければならない。
ヴリドラが低く喉を鳴らす。
その視線は、なおも少女へ向けられていた。
(まずい...!)
侑は瞬時に判断する。
このままでは、少女が狙われる。
自分が逃げ回ったところで、意味はない。
ならば、
「おい、デカブツ。」
侑はヴリドラへ向かって、一歩踏み出した。
足は、震えていた。
喉は、渇ききっている。
それでも、無理やり口角を上げる。
「お前が、神話級ってやつか?」
ヴリドラの瞳が、ゆっくりと侑へ向く。
「その図体で、女の子を相手にするのかよ。」
返事はない。
だから、さらに続ける。
「随分と安い"神話"だな。」
空気が変わった。
森中の木々が軋む。
巨大な殺気が、侑一人へ集中する。
その瞬間。
少女への視線が、外れた。
(よし。)
成功した。
侑は、心の中だけで呟く。
自分を狙わせること。
それだけが、目的だった。
『……人間。』
ヴリドラが、初めて侑だけを見据える。
『我を侮辱するか。』
「あぁ...」
足は、今にも逃げ出したい。
全身の本能が、悲鳴を上げている。
それでも、侑は目を逸らさなかった。
「子供をいたぶるトカゲなんて、大したことないだろ。」
ヴリドラの翼が、ゆっくりと広がる。
森を覆うほどの、巨大な翼。
空気が震え、大地が悲鳴を上げる。
その瞬間、画面の数字が変化した。
《生存率を再計算中》
《対象行動を反映》
《攻撃対象変更を確認》
《現在生存率》
0.00001% → 0.000002%
侑は思わず苦笑した。
「……下がってんじゃねぇか。」
それでも、ゼロではない。
なら、やるしかない。
侑に英雄の経験はない。
戦闘の経験も当然ない。
だが、「相手を観察して、生き残るための最善を選び続ける」こと。
それだけは、この三年で嫌というほどやってきた。
両親が消えてからまだ子供だった侑は、いくつもの大人に頭を下げてきた。
役所で、銀行で、学校で。
夜のバイト先では、酔った客の理不尽を笑顔で受け流してきた。
感情的になった相手が、次にどう動くか。
それを読むことだけは、誰よりもやってきた。
(怒った相手は、視野が狭くなる。)
居酒屋の床で、何度も見てきた光景だ。
頭に血が上った人間は、動きが単調になる。
(まずは、動きを読む。)
ヴリドラの肩が、僅かに沈む。
翼が、逆方向へ流れる。
巨大な尾が、地面を払うように動いた。
(来るっ!)
侑は考えるより先に、横へ飛び込んだ。
次の瞬間。
轟音とともに、さっきまで立っていた場所が消し飛んだ。
土も、岩も、木々も、まとめて吹き飛ぶ。
もし半歩遅れていれば、肉片すら残らなかっただろう。
《残り27秒》
地面へ転がった侑は、すぐさま立ち上がる。
背後で、大地が崩れる轟音だけが響く。
(まずは、距離を取る。)
まず状況を把握する。
相手を観察する。
最善手を探す。
それだけは、誰にも負けない自信があった。
ヴリドラは翼を広げたまま、動かない。
巨大な瞳だけが、侑を追っている。
(……見てる。)
攻撃ではない。
観察されている。
侑は直感した。
あの竜は、自分を試している。
《残り24秒》
侑は呼吸を整える。
(予備動作が、ある。)
翼。
尾。
首。
あの巨体だ。
攻撃の前には、必ず重心が動く。
それが唯一、人間に残された可能性。
「全部……見ろ。」
自分に言い聞かせる。
視線を外すな。
恐怖を見るな。
動きを、見ろ。
『ほう。』
ヴリドラが、初めて感心したように呟く。
『避けるか。』
その声には、怒りも殺意もない。
珍しい虫を眺めるような、興味だけがあった。
侑は答えない。
答える余裕など、ない。
巨大な前脚が持ち上がる。
(左……いや、違う。)
影だ。
脚ではない。
翼で風圧を起こして、進路を塞ぐ気だ。
侑は真横ではなく、前方へ滑り込んだ。
直後、暴風が森を切り裂く。
立っていれば、身体ごと吹き飛ばされていた。
「当たりか……!」
読みが、当たった。
偶然ではない。
観察した結果だ。
《残り20秒》
《生存率を再計算》
0.00018% → 0.00037%
「焼け石に水だな……。」
苦笑する。
それでも、ゼロではない。
ヴリドラは鼻を鳴らした。
『知恵だけは、あるようだ。』
巨大な黄金の瞳が、細くなる。
『ならば、もう少し見よう。』
今度はブレスの、予備動作。
胸が赤く光る。
空気が熱を帯びる。
侑は走る。
一直線ではない。
強烈な黒炎が、ヴリドラの口から吐き出される。
木を盾にし、岩陰へ飛び込み、爆風を利用してさらに前へ。
爆発の衝撃で転がされながらも、致命傷だけは避け続ける。
頬が裂ける。
腕が焼ける。
肺が悲鳴を上げる。
それでも、まだ立てる。
まだ、終わらない。
《残り15秒》
ヴリドラは、静かに侑を見つめていた。
そして、
初めて、その表情が変わる。
『……妙だ。』
侑は気づかない。
だがヴリドラは、見ていた。
普通の人間なら、とっくに恐怖で足が止まる。
だが、この男は違う。
恐怖を抱えたまま、考え続けている。
生き残るために。
誰かを守るために。
『面白い。』
その一言とともに。
ヴリドラの巨大な魔力が、解放された。
ゴォォォォォォッ!!
空が裂ける。
森全体が押し潰されるような、圧力。
地面に無数の亀裂が走り、空気そのものが悲鳴を上げる。
侑の身体が、勝手に膝をつく。
「ぐっ……!」
息ができない。
立っているだけで、全身の骨が軋む。
今までとは違う。
圧倒的な"格"の差。
ヴリドラは、ようやく侑を「相手」として見始めたのだ。
『ここまでは、戯れだ。』
竜の低い声が、森を震わせる。
『耐えられるなら、耐えてみせよ。』
侑はゆっくりと顔を上げた。
視界の端で、青白い画面が静かに数字を刻む。
《残り10秒》
ヴリドラの瞳から、興味という色が消えた。
代わりに宿ったのは、ほんの僅かな本気。
『その程度の命でどうこの場をしのぐ?』
竜が静かに口を開く。
そして、胸の奥が赤黒く輝く。
空気が焼ける。
地面に落ちた枯れ葉が、火もついていないのに炭へと変わっていく。
(まずい……。)
今までとは、桁が違う。
あれは避けるとか、防ぐとか、そんな次元の攻撃ではない。
侑は周囲を見回した。
門。
まだ遠い。
少女は?
動けるようになったのか、門の方に走ってる。
森は半分以上が吹き飛ばされ、身を隠す場所もほとんど残っていない。
(どうする。)
焦るな。
焦れば、判断を誤る。
夜のバイト先で理不尽を突きつけられた時も、そうだった。
両親が消えて、一人で妹を抱えて途方に暮れた時も。
感情で動けば、必ず失敗する。
見ろ!
考えろ!
そして、一番生き残れる道を選べ!
ヴリドラの胸が、さらに膨らむ。
熱量が、一点へ集中していく。
ヴリドラが一瞬、こちらを視た。
(真正面に、撃つ。)
侑はヴリドラに向かって走る。
ほんの五十メートル手前。
そこで急停止した。
そして今度は、右へ飛ぶ。
その一瞬、侑は全力で駆け出した。
直後。
轟ォォォォォォッ!!
黒い業火が、大地を飲み込んだ。
一直線に放たれた黒炎は、森を、岩を、空気さえも焼き尽くしながら、遥か彼方まで走り抜ける。
熱ではない。
存在そのものを消し去る、災厄。
侑の頬を掠めただけで皮膚が裂け、服の袖が灰になった。
「ぐあぁっ!」
地面を転がる。
それでも、生きている。
ブレスが放たれる直前、ヴリドラの視線が僅かに動いた。
その癖だけを見て、侑は進路を変えた。
偶然ではない。
この三年、人の顔色ばかり見て生きてきた。
両親のいない家で、妹だけは守ると決めて。
その積み重ねが、導き出した答えだった。
《残り7秒》
《生存率再計算》
0.000002% → 0.0032%
「……まだ千分の一にも、届かないのか。」
思わず笑ってしまう。
普通なら、絶望する数字。
だが今は違った。
数字は、上がっている。
生き残る可能性は、確かに存在している。
『人間。』
ヴリドラが低く唸る。
『貴様は、運が良いのではない。』
巨大な翼が、ゆっくりと持ち上がる。
『見えているな。』
侑は何も答えない。
答えれば、その一瞬で死ぬ。
翼が、振り下ろされる。
暴風。
否、見えない刃。
空気が圧縮され、無数の斬撃となって森を切り裂く。
「っ!」
侑は倒木の陰へ飛び込む。
直後、倒木は紙のように切断される。
だが、その一瞬だけ風が逸れた。
生きている。
まだ、生きている。
《残り5秒》
侑の呼吸は、限界だった。
肺が焼ける。
足は鉛のように重い。
全身が悲鳴を上げている。
それでも、視線だけはヴリドラから外さない。
外した瞬間に、終わる。
ヴリドラは静かに、口角を上げた。
『認めよう。』
『今代の人間にしては、実によく足掻いた。』
その言葉と共に。
ヴリドラの周囲へ、七つの巨大な黒い魔法陣が展開された。
侑の背筋が凍る。
「……冗談だろ。」
本能が叫ぶ。
これは避けられない。
逃げ場がない。
ここで、終わる。
そう確信した、その時。
視界の青白い画面が、眩い黄金色へと変化した。
《継承クエスト達成》
《生存条件を確認》
《正式継承を開始します》
カウントが、最後の数字を刻む。
《3秒》
ヴリドラの魔法陣が輝く。
《2秒》
侑は少女のいる方向を見た。
――生きてくれ。
その願いだけを、胸に刻む。
《1秒》
そして、世界を覆うような黄金の光が、侑の身体から溢れ出した。
黒焔竜ヴリドラが展開した七つの魔法陣が、一斉に世界を焼き払おうと輝きを増す。
しかし、その瞬間。
時間が止まった。
世界が白く染まり、轟音さえ消え去る。
侑だけが、その静寂の中に立っていた。
目の前に、一枚の蒼い画面が現れる。
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《継承クエスト達成》
《正式継承を開始します》
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