#10
◇ ◇ ◇
翌朝。
目が覚めた瞬間、侑は違和感を覚えた。
天井の、木目。
壁の、僅かな染み。
カーテンの縫い目。
昨日までは気にも留めなかった細部が、やけにくっきりと見える。
「……視力が、上がってる?」
いや、視力だけではない。
見たものの意味を、瞬時に読み取ってしまう感覚。
洞察の力。
それが、昨日までとは比べ物にならないほど、研ぎ澄まされていた。
「水曜は、弓鬼か。」
継承のとき頭へ流れ込んだ情報を、思い出す。
水曜、弓鬼。
索敵と、狙いの力。洞察力。さらに俊敏性。
そして、あらゆるものを射抜く、命中力。
遠くの一点を捉え、確実に射抜くための能力だった。
「便利だが……ちょっと、情報が多すぎるな。」
侑は苦笑した。
世界の解像度が、一段上がってしまったような感覚だった。
台所へ立ち、朝食を作る。
零奈を起こし、送り出す。
その間も、洞察は止まらない。
零奈の顔色が、少し優れないこと。
昨日より、寝るのが遅かったらしいこと。
そんな些細な情報まで、勝手に頭へ入ってくる。
「零奈。ちゃんと寝ろよ。」
「……なんで分かるの。」
「兄だからだよ。」
侑は笑って誤魔化した。
まさか、能力で見抜いたとは言えない。
◇ ◇ ◇
いつもの通勤路。
だが今日は、歩いているだけで疲れた。
弓鬼の洞察が、周囲の情報を片端から拾ってしまう。
前を歩く女性の、ヒールの減り方。
追い抜いていく自転車の、ブレーキの緩み。
信号が変わるまでの秒数の見当まで、勝手に頭へ入ってくる。
「……全部見えるってのも考えものだな。」
意識して感覚を絞る。
必要なものだけを見る加減を、少しずつ覚えていく。
昨日、階段で身体能力を持て余したのと同じだ。
力は、慣れるまでが一番厄介だった。
河川敷沿いの道へ出る。
土手の下。
早朝の空き地で、学生たちが野球の朝練をしていた。
「元気だな、朝から。」
荒い息づかい。
バットの素振り。
ノックの音。
見慣れた、平和な朝の光景。
侑は、そのまま通り過ぎようとした。
その時だった。
カキーン、と高い音が響く。
一人の生徒が打った球が、大きく逸れた。
白球が土手を越えて、道路側へ飛んでいく。
道の先、スマートフォンを見ながら歩く一人のOL。
イヤホンをつけ、俯いたまま打球にまったく気付いていない。
軌道的に頭部へ。
白球が一直線に向かっていく。
誰も気付いていない。
学生たちは、まだ打球の行方を追っていない。
OL本人も。
周りの通行人も。
ただ一人。
侑の目にだけ、その軌道が、くっきりと線になって見えていた。
弓鬼の、洞察。
回転。
風。
落下。
全てが一瞬で読み取られ、答えが出る。
――当たる。
それも、まともに。
硬球が、あの速度で側頭部へ当たれば下手すりゃ、命に関わる。
考えるより先に、侑の身体が動いていた。
弓鬼の俊敏性が、常人の何倍もの速さで身体を運ぶ。
周辺で一番高い屋根の上。
さらにその一瞬で、左手が宙をなぞる。
淡い光とともに、無銘の弓が実体化する。
右手が、弦を引き絞った瞬間。
弦の上に、細く白い光の矢が生まれた。
弓鬼が導く狙い。
照準など不思議と要らなかった。
ただ、線の交わる一点へ矢を放つ。
ヒュンッ。
空気を裂く音。
光の矢が、白球を空中で撃ち抜いた。
パンッ、と乾いた音。
硬球は勢いを殺され、革が裂けて、OLの数歩手前へ、ぽとりと落ちた。
「きゃっ……!」
突然足元に転がった球に、OLがようやく顔を上げる。
だが、もう危険は去っていた。
何が起きたのかも、分からないまま。
OLは、不思議そうに首をかしげ、また歩き出す。
光の矢は、既に消え弓もインベントリへ還っている。
誰も、何が起きたのか気付いていない。
「……あぶな。」
侑は、詰めていた息を、そっと吐いた。
人知れず、一つの命を守った。
誰にも、気付かれることなく。
不思議と悪い気はしなかった。
「……こういう使い方も、あるんだな。」
「こらー!屋根に登るんじゃないー!!」
下からお年寄りの声が。
侑は、す、すみません...!小さく頭を下げ、再び駅へ向かって歩き出す。
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弓鬼の洞察は、まだ、世界の隅々まで拾い続けている。
だが、今はもう、少しだけそれが心地よかった。
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