#11
◇ ◇ ◇
定時を過ぎ、侑はようやくデスクを離れた。
昼の仕事は、営業アシスタント。
見積書の確認と、上司への報告を終え、パソコンをシャットダウンする。
外はもう暗い。
今夜はバイトが休みだった。
久しぶりに、まっすぐ家へ帰れる夜。
エレベーターを降り、エントランスへ向かう。
自動ドアが開いた瞬間、侑は足を止めた。
「お兄ちゃん!」
零奈が、柱の陰から手を振っている。
制服姿のまま、鞄を肩にかけていた。
「零奈? どうした、こんなとこまで。」
「今日休みだって言ってたから、迎えに来た。」
零奈は、少し得意げに笑う。
「一緒に帰ろうと思って。」
侑は、思わず頬を緩めた。
妹がわざわざ会社まで来ることなど、滅多にない。
「お前な……危ないだろ、夜に出歩くのは。」
「もう十五だし、大丈夫だよ。」
そう言いながらも、零奈は侑の隣にぴったりとくっついて歩き出す。
夜道を、二人で歩く。
それだけで、今日一日の疲れが、少し軽くなる気がした。
「晩ごはん、何にする?」
「零奈が食べたいやつでいいぞ。」
「えー、決めてよ。」
「じゃあ、カレー。」
「昨日もカレーだったじゃん。」
「カレーは好きな時に食べていいものだろ。」
零奈が、小さく笑う。
その笑い声に、侑もつられて笑った。
「学校はどうだ?テストとか。」
「来週から中間。憂鬱。」
「ちゃんとやっとけよ、あとで泣きつかれても知らねぇぞ。」
「わかってるって。」
そんな、他愛のない話。
これが日常が今大事に思える。
命がけの門も、神話級の竜も、遠い世界の出来事のように思える。
だが、この時間があるからこそ侑は戦うことができる。
そう思っていた矢先だった。
――スッ。
横合いから、滑るように一台の車が近付いてきた。
黒く磨き上げられた、高級車。
排気音すらほとんどしない。
その車が、二人の横で静かに停まった。
「……何?」
零奈が、怪訝そうに車を見る。
侑も、反射的に警戒する。
運転席のドアが開き、一人の男が降りてきた。
歳の頃は、四十代半ばだろうか。
無精髭を蓄えた、鋭い目つき。
仕立ての良いスーツを着ていながら、どこか荒々しさを隠しきれない雰囲気があった。
テレビか何かで、この顔を見た気がする。
零奈が、小さく息を呑んだ。
「あれ……ヘヴンズの、ギルドマスター……?」
その呟きで、侑も思い出す。
日本三大ギルドの一つ。
ヘヴンズ。
そのトップに立つ男。
「城崎、賢治……。」
侑が名を口にすると、男――城崎は、口の端を僅かに上げた。
「知っててくれると、話が早い。」
城崎は、車に寄りかかるように立つ。
「桜咲侑。少し、時間をもらえるか。」
いきなり名前を呼ばれ、侑の背筋に緊張が走る。
なぜ、名前を知っている。
なぜ、自分の前に現れた。
考える間もなく、城崎は続けた。
「三日前の門。」
「あの中にいた一人が、お前だってことは、もう調べがついてる。」
その瞬間だった。
侑の中で、何かが弾けた。
――こいつは、俺を、零奈を。
理屈より先に、身体が反応する。
息を潜め、殺気を殺す暇もなかった。
込められた敵意は、ほんの一瞬。
だが、それだけで十分だった。
「……っ!」
城崎の顔から、表情が消えた。
背筋を、氷の刃で撫でられたような感覚。
歴戦のSランクである自分の全身が、粟立っている。
――何だ、これは。
数百体の魔物を屠り、数多の修羅場をくぐってきた。
それでも、今のこの一瞬。
死を、はっきりと予感した。
たった一人の、一般人だったはずの男から。
「……お、お兄ちゃん?」
零奈が、怯えたように侑の袖を掴む。
その声で、侑は我に返った。
自分が、何をしかけたのか。
ゆっくりと、殺気を収める。
「……悪い。」
侑は、短く詫びた。
だが、目の奥の警戒は消えていない。
「妹に、何かする気なら容赦しない。」
低く、そう告げる。
城崎は、僅かに乱れた呼吸を整えながら、両手を軽く上げた。
「落ち着け。危害を加えるつもりは、微塵もない。」
「敵対するために、来たわけじゃない。」
「ただ、話がしたいだけだ。」
その声に、嘘の色はなかった。
先ほどまで肌を刺していた圧が、少しずつ緩んでいく。
零奈も、少しだけ肩の力を抜いた。
「……本当に、それだけか。」
「ああ。」
城崎は、小さく息を吐く。
「今の一撃で、むしろ確信した。」
「お前は、敵に回すような男じゃない。」
その言葉に、侑は僅かに眉をひそめた。
褒められているのか、値踏みされているのか。
判断がつかない。
「立ち話も何だ。」
城崎は、車のドアへ手をかける。
「よければ、飯でも食いながら話さないか。」
「妹さんも一緒でいい。私にご馳走させてくれ。」
零奈が、侑の顔を窺うように見上げる。
断る理由も、正直なところない。
話を聞かなければ、この先も落ち着かないだろう。
「……わかった。」
侑は、短く答えた。
「ただし、変な真似はするなよ。」
「約束しよう。」
城崎は、口元だけで笑った。
◇
連れて行かれたのは、住宅街の奥にある、目立たない一軒の店だった。
看板も小さく、常連しか知らないような店構え。
だが、通された個室は、驚くほど落ち着いていて、料理も一つ一つが丁寧だった。
零奈が、目を輝かせている。
緊張していたのも束の間、出てくる料理に夢中になっていた。
「美味しい……!」
「気に入ったなら、良かった。」
城崎は、そう言って目を細める。
一通り食事が進んだところで、城崎が箸を置いた。
「本題に入りたい。」
その一言で、空気が変わる。
侑も、箸を置いた。
「三日前の門。一つだけ確認したいことがある。」
城崎は、真っ直ぐに侑を見た。
「一緒に助け出された、あの少女。覚えているな。」
「……ああ。」
侑は、頷いた。
忘れるはずがない。
あの日、共に神話級から生き延びた少女だ。
「彼女の名前は、藤宮心春。中学二年。」
その名前を聞いた瞬間、隣に座る零奈が、箸を止めた。
「……心春?」
零奈の声が、僅かに震える。
「知ってるのか。」
侑が尋ねると、零奈は勢いよく頷いた。
「知ってるも何も……友達だよ。学校は違うけど、小学校からの……!」
「門に飲まれたって聞いた時から、ずっと連絡取れなくて。心配で……。」
零奈の声が、掠れていく。
城崎は、その様子を静かに見ていた。
「そうか。それなら、話が早い。」
城崎は、一度目を伏せてから、また口を開いた。
「藤宮心春と、その両親は今、うちの保護施設で預かっている。」
「命に別状はない。今は、メンタルケアを含めてしっかり保護対象になっている。」
「外部との接触は制限しているが、いずれ落ち着けば会わせてやれると思う。」
その言葉に、零奈の目が、みるみる潤んでいく。
「……よかった……。」
堪えきれなかった涙が、一筋、頬を伝った。
「生きてて、ちゃんと守られてて……本当に、よかった……。」
零奈は、俯いたまま、何度も頷く。
その肩を、侑はそっと抱き寄せた。
妹の涙を見ながら、侑の胸にも静かに安堵が広がっていく。
あの日、確かに守った。
少女だけでなく、その家族の日常も。
そして――目の前で、静かにそれを伝えてくれたこの男のことも。
先ほどまでの警戒が、完全に解けたわけではない。
だが、少しだけ。
本当に、少しだけ。
侑の中で、城崎という男への見方が、揺らいでいた。
「……ありがとう。教えてくれて。」
侑が、そう漏らすと、城崎は小さく笑った。
「礼はいい。」
「俺は、ただ確かめたかっただけだ。」
「お前が、どういう人間なのか。」
その目には、値踏みではない何かが宿っていた。
零奈は、まだ涙を拭いながら、それでも小さく微笑んでいる。
静かな個室に、少しだけ、温かい空気が満ちていった。
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