外伝 ミスティ〜蒼に染まるまで〜 その2
11歳になって。
少し経ったある日のことだった。
いつもと。
何かが違った。
「……?」
朝から施設が騒がしい。
廊下を走る足音。
怒鳴り声。
慌ただしく開閉される扉。
普段なら一定の間隔で聞こえてくる機械音さえ、今日は途切れ途切れだった。
少女は部屋の小さな窓から外を見る。
見慣れない車が何台も走っていた。
施設の周囲を。
何かを探すように。
「……何?」
いつもなら。
そんなことを気にする余裕なんてなかった。
今日も実験がある。
今日もNoiseを倒す。
それだけ。
そう思っていた。
その時だった。
――ドンッ!!
遠くで大きな音がした。
建物全体が揺れる。
「……!」
少女が立ち上がる。
廊下の向こうから。
複数の人間が走ってくる。
「急げ!」
「研究データを回収しろ!」
「施設を放棄する!」
「何をしている!」
聞き慣れた研究員たちの声。
けれど。
その声には。
初めて。
恐怖が混じっていた。
「……。」
少女は。
何故か。
少しだけ不思議に思った。
いつも。
怖がるのは自分だった。
怒鳴るのも。
命令するのも。
大人たちだった。
なのに。
今日は。
大人たちが逃げている。
「被検体の少女を確保!」
突然。
扉が開いた。
「……え?」
見知らぬ男が飛び込んでくる。
少女が身構えるより早く。
「いたぞ!」
身体を抱き上げられた。
「離して……!」
反射的に抵抗する。
「大丈夫だ!」
「君を助けに来た!」
「……助ける?」
その言葉を。
少女は理解できなかった。
助ける。
そんな言葉。
自分には。
もう必要ないと思っていた。
「走れ!」
男は少女を抱えたまま廊下を駆ける。
爆発音。
怒号。
警報。
赤い非常灯。
その全部が。
遠ざかっていく。
少女は。
男の肩越しに。
施設を見た。
何年も過ごした場所。
苦痛しかなかった場所。
それなのに。
何故か。
胸の奥に。
小さな空白が生まれた。
外へ出る。
眩しい。
「……。」
太陽を見る。
こんなに。
空は青かったのか。
車へ乗せられる。
扉が閉まる。
少女は窓から外を見つめる。
施設が。
どんどん遠ざかっていく。
「……。」
何も思わなかった。
嬉しいのか。
悲しいのか。
分からない。
ただ。
それから。
少女の生活は変わった。
食事がある。
眠る場所がある。
怒鳴られることも。
拘束されることもない。
毎日。
普通の少女が受けるような教育も始まった。
けれど。
一つだけ。
変わらないものがあった。
「被検体二一七。」
「はい。」
「本日の訓練を始める。」
「……分かりました。」
楽器を持つ。
音を鳴らす。
心奏力を放つ。
Noiseを倒す。
それだけは。
変わらなかった。
施設を出ても。
誰かに守られていても。
少女は。
戦い続けた。
戦うことしか。
知らなかったから。
ある日。
新しい環境の担当者が尋ねた。
「君。」
「どうしてそこまでNoiseを倒したいんだ?」
「……。」
少女は少し考えた。
答えは。
すぐに出た。
「……怒っているから。」
「何に?」
「……。」
少女は。
自分でも分からなかった。
両親に。
施設に。
Noiseに。
世界に。
そして。
何もできなかった自分自身に。
全部に。
「……全部。」
少女は静かに答えた。
「私は。」
「全部に怒ってる。」
担当者は何も言わなかった。
ただ。
少女の記録に何かを書き込んだ。
少女は。
それを気にしなかった。
まだ。
自分の名前を取り戻すことも。
誰かと笑うことも。
考えてはいなかった。
ただ。
Noiseを倒す。
それだけだった。
――その先で。
初めて自分を「少女」としてではなく。
一人の人間として見てくれる存在と出会うことになる。
その名を。
まだ。
少女は知らない。
それから。
少女の生活は変わった。
施設ではない。
白い部屋でもない。
怒鳴り声も。
拘束具もない。
毎日、食事が与えられ。
眠る場所があり。
普通の少女が受けるような教育も始まった。
けれど。
少女自身は。
何も変わらなかった。
「被検体二一七。」
「本日の訓練を始める。」
「……はい。」
楽器を持つ。
音を鳴らす。
心奏力を放つ。
Noiseを倒す。
それだけ。
施設を出ても。
戦うことだけは続けた。
それが。
自分に出来ることだったから。
ある日の訓練。
別の少女が、演奏を失敗した。
「……ごめんなさい。」
「また失敗した……。」
肩を震わせる。
周囲の大人たちは。
「次は成功させろ。」
それだけを告げて離れていった。
「……。」
少女は。
しばらくその背中を見ていた。
そして。
誰も見ていないことを確認すると。
少女の隣へ座る。
「……。」
「これ。」
自分の持っていたタオルを差し出す。
「泣くなら。」
「これ使えばいい。」
「……え?」
「返さなくていい。」
それだけ言って。
立ち上がる。
「……ありがとう。」
少女は。
振り返らなかった。
けれど。
その耳は。
少しだけ赤くなっていた。
また別の日。
食事の時間。
自分の皿に残ったパンを。
向かいに座る幼い少女へ半分渡す。
「えっ?」
「いらないから。」
「でも……。」
「食べろ。」
ぶっきらぼうな声。
けれど。
少女は知っていた。
そのパンを。
本当は自分が食べたかったことを。
それでも。
何も言わずに渡したことを。
怒っている。
ずっと。
世界に。
Noiseに。
自分自身に。
何も出来なかった過去に。
それでも。
誰かが泣いていれば。
放っておけない。
誰かが苦しんでいれば。
手を伸ばしてしまう。
それだけは。
どうしても変わらなかった。
「どうしてNoiseと戦うの?」
ある日。
担当者からそう聞かれた。
「嫌じゃないの?」
「……嫌だ。」
「怖くない?」
「怖い。」
「なら、どうして?」
少女は黙った。
少しだけ考える。
「……あいつらが。」
「誰かを苦しめるから。」
「それが嫌なんだ。」
担当者は記録を取る。
「復讐心か?」
「……。」
少女は首を横に振った。
「違う。」
「じゃあ何だ?」
「……分からない。」
自分でも。
上手く言葉に出来なかった。
ただ。
誰かが傷つくのが嫌だった。
泣いている人を見るのが嫌だった。
だから。
戦う。
怒りに突き動かされながら。
それでも。
守るために。
少女は今日も楽器を手に取った。
その瞳に宿るものを。
研究員たちは。
「強い怒り」だと思っていた。
けれど。
本当は違う。
怒りは。
ただの外側だった。
その奥にあったのは。
誰かを傷つけたくないという。
どうしようもないほどの優しさだった。
そして。
その優しさこそが。
後に。
双子座の魔奏器に選ばれる理由となる。
少女自身は。
まだ何も知らない。
自分が。
何故、戦い続けられるのかさえ。




