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外伝 ミスティ〜蒼に染まるまで〜 その1

【外伝 双子座の魔奏少女】


 ――まだ、ミスティが「ミスティ」と呼ばれる前の話。


 広い屋敷。


 磨き上げられた床。


 大きな窓から差し込む朝の光。


 何もかもが揃っていた。


 少女にとって。


 それは、幸せな家だった。


「次はピアノのレッスンです。」


「はい。」


 幼い少女は椅子へ座る。


 小さな指を鍵盤へ置く。


「もう一度。」


「……はい。」


 同じ旋律。


 同じ小節。


 何度も。


 何度も。


「違います。」


「もう一度。」


「はい……。」


 ピアノが終われば。


「次はヴァイオリンです。」


「はい。」


 ヴァイオリン。


 英会話。


 バレエ。


 水泳。


 乗馬。


 礼儀作法。


 家庭教師による勉強。


 毎日。


 予定表には、隙間がなかった。


「お疲れ様でした。」


「ありがとうございました。」


 少女は笑う。


 笑わなければならない。


 良い子でいなければならない。


 両親が望む娘でいなければならない。


「今日はよく頑張ったわね。」


「あなたなら、もっと出来るわ。」


「はい。」


「次の発表会も楽しみね。」


「……はい。」


 褒められる。


 嬉しい。


 ――はずだった。


 夜。


 自分の部屋。


 ベッドへ身体を沈める。


「……疲れた。」


 小さな声。


 誰にも聞こえないように呟く。


 窓の外には。


 街の明かり。


 遠くを走る車。


 家の中には。


 誰もいない。


 両親は仕事。


 使用人たちも、もう寝ている。


 少女は天井を見つめる。


「……こんな生活。」


「嫌だ。」


 初めて。


 口にした。


「普通に遊びたい。」


「友達と……。」


 言葉が続かない。


 友達と何をすればいいのか。


 そもそも。


 どうやって友達を作ればいいのか。


 分からなかった。


 少女は布団へ潜り込む。


「どこかへ行きたい……。」


「ここじゃない場所へ。」


 その願いが。


 何かに届いたわけではない。


 ただ。


 その夜は。


 いつもより少しだけ。


 街の電子機器が不安定だった。


 テレビが一瞬だけ乱れる。


 時計の表示が消える。


 スマートフォンの画面が、勝手に明滅する。


「……?」


 少女は窓の外を見る。


 遠くで。


 何かが爆発したような光が見えた。


 ――そして。


 数日後。


 世界が。


 少しだけ変わった。


 街の交通システムが停止した。


 通信網が混乱した。


 金融機関のシステムまでが、一時的に機能を失った。


 原因は。


 分からなかった。


 ただ。


 「Noise」という言葉だけが。


 ニュースの中で何度も繰り返されていた。


 それから。


 少女の家は。


 少しずつ崩れていった。


「……どういうこと?」


「会社が……。」


「今月の支払いが出来ない?」


「復旧の目処が立っていないんです。」


「そんな……。」


 両親の会話が。


 日に日に変わっていく。


 怒鳴り声。


 電話。


 ため息。


 泣き声。


 少女は廊下の隅から。


 それを見ていた。


 高価な家具が売られた。


 車がなくなった。


 習い事が一つずつ消えていった。


 やがて。


 広かった屋敷も。


 手放すことになった。


「……。」


 少女は荷物をまとめる。


 お気に入りだった服。


 賞状。


 楽譜。


 どれも持っていけない。


「ごめんなさいね。」


 母親が言う。


「あなたには、もっと良い生活をさせてあげたかった。」


「……ううん。」


 少女は首を振る。


「大丈夫。」


 ほんの少しだけ。


 胸の奥で思ってしまった。


 ――これで。


 普通になれるのかな。


 そんな期待は。


 すぐに消えた。


 生活は。


 日に日に苦しくなっていった。


 そして。


 ある日。


 知らない男たちが家へやって来た。


「この子が?」


「ああ。」


「適性値は?」


「かなり高い。」


「ギターとベース。」


「どちらも?」


「ほぼ最高値だ。」


 少女には。


 何を話しているのか分からない。


 ただ。


 両親の顔だけは。


 はっきりと見えた。


「……本当に?」


 父親が俯く。


「これだけあれば。」


「借金を……。」


 母親が泣いている。


「ごめんなさい……。」


「ごめんなさい、〇〇。」


「……え?」


 少女は父親を見る。


「今。」


「なんて……?」


 父親は答えない。


 代わりに。


 男が少女の腕を掴んだ。


「行くぞ。」


「えっ?」


「どこへ……?」


 少女は抵抗する。


「お父さん?」


「お母さん?」


「ねぇ。」


「私……。」


 両親は。


 目を合わせなかった。


「嫌……。」


「待って……。」


「私、何か悪いことした?」


 返事はない。


 玄関を出る。


 見慣れた家が。


 遠ざかっていく。


「お父さん!」


「お母さん!」


 最後まで。


 誰も振り返らなかった。


 車の扉が閉じる。


 走り出す。


 窓の外。


 街の景色が流れていく。


 少女は泣きながら。


 何度も何度も。


 同じ言葉を繰り返した。


「帰りたい……。」


「帰りたいよ……。」


 しかし。


 その車が向かっていたのは。


 家ではなかった。


 正式な魔奏少女育成機関でもない。


 表向きには存在しない。


 少女の人生を。


 「才能」という言葉で買い取った。


 非合法組織の施設だった。


 白い部屋。


 白い壁。


 白い天井。


 何もかもが白かった。


 ただ。


 少女の手首に巻かれた拘束具だけが、鈍い銀色をしていた。


「……。」


 少女は天井を見つめる。


 泣かなかった。


 泣くことにも。


 もう疲れていた。


 最初にここへ連れて来られた頃は。


 毎日のように泣いていた。


「お母さん……。」


「お父さん……。」


「帰りたい……。」


 何度も。


 何度も。


 叫んだ。


 けれど。


 誰も来なかった。


 当然だった。


 ここは。


 家ではない。


 病院でもない。


 学校でもない。


 少女を買った。


 研究施設だった。


「開始します。」


 無機質な声。


 少女の身体にいくつもの電極が取り付けられていく。


「今日も……?」


「今日もだ。」


「嫌……。」


 身体が震える。


「嫌だ……。」


 担当の研究員は表情を変えない。


「心奏力の発現には強い感情が必要だ。」


「君には高い魔奏器適性がある。」


「ならば。」


「その才能を引き出すだけだ。」


「才能なんて……。」


 少女は唇を噛む。


「いらない……。」


「家に帰して……。」


「帰る場所はもう無い。」


「……え?」


 研究員が端末を操作する。


「君の家はNoise関連事故で経済的に破綻した。」


「両親も君を引き取れる状態ではない。」


「だから君はここにいる。」


「……。」


 少女は目を閉じる。


 あの日。


 何もかもが壊れた。


 大きな音。


 割れる窓。


 街中を走る黒いノイズ。


 動かなくなる車。


 止まる信号。


 混乱する人々。


 そして。


 家に帰った時には。


 父親も。


 母親も。


 以前のようには笑わなくなっていた。


 何日も続いた騒音。


 失われていく仕事。


 増えていく借金。


 そして。


 最後に少女を待っていたのは。


「……ごめんなさい。」


 母親の震える声だった。


「ごめんね……。」


「あなたまで巻き込むわけにはいかないの。」


「嫌。」


「お願い……。」


「嫌だよ。」


「私、ちゃんとするから。」


「習い事もする。」


「勉強もする。」


「ピアノも。」


「ヴァイオリンも。」


「英語も。」


「全部ちゃんとやるから……。」


「だから……。」


 その先は。


 言葉にならなかった。


 少女は。


 売られた。


 それから。


 ここにいる。


「始めます。」


「やめて……。」


「感情刺激レベル、一〇。」


 機械が起動する。


「――っ!」


 身体が跳ねる。


 痛い。


 怖い。


 苦しい。


 それでも。


 研究員は記録する。


「反応あり。」


「心拍上昇。」


「心奏力発現……なし。」


「次。」


「刺激レベルを上げろ。」


 少女は歯を食いしばった。


「……やだ。」


 また。


 また。


 また。


 同じことが繰り返された。


 恐怖。


 苦痛。


 絶望。


 怒り。


 何度も感情を揺さぶられる。


 けれど。


 心奏力は発現しない。


「何故だ。」


「これほど適性値が高いのに。」


「感情が強すぎるのか?」


「逆です。」


「感情が固定化している。」


「……固定?」


「この子。」


「恐怖を感じても。」


「苦痛を感じても。」


「最後には全部、同じところへ戻っている。」


 少女は。


 ずっと同じ言葉を繰り返していた。


「帰りたい。」


「帰りたい。」


「帰りたい。」


 研究員はそれを聞きながら。


 何度も実験を続けた。


 ある日。


 少女はついに叫んだ。


「もう嫌だぁぁぁぁぁぁっ!!」


 涙を流しながら。


 喉が潰れるほど。


「こんな生活……!」


「もう嫌だ!!」


「帰りたい!!」


「誰か……!」


「誰か助けてよ!!」


 その瞬間。


 施設全体が。


 僅かに震えた。


「……!」


 モニターの数値が跳ね上がる。


「心奏力反応!」


「発現したぞ!」


「成功だ!」


 研究員たちが騒ぎ始める。


 少女は。


 自分の身体から溢れ出す光を見つめていた。


「……。」


 綺麗だった。


 ずっと欲しかった。


 ここから出られる力。


 そう思った。


 けれど。


「では。」


 研究員が淡々と言う。


「次の段階へ移行する。」


「……え?」


 拘束具が外れる。


 少女は。


 ようやく自由になったと思った。


 その瞬間。


「魔奏器を持たせろ。」


 巨大な装置が運び込まれる。


 ギター。


 ベース。


 そのどちらにも対応できる特殊な魔奏器の紛い物。


「演奏しろ。」


「……。」


「嫌。」


「演奏しろ。」


「嫌だ……。」


「君は魔奏少女になる。」


「それが君の価値だ。」


「……価値。」


 その言葉が。


 少女の胸に刺さった。


 家にいた頃も。


 習い事をしていた頃も。


 いつも同じだった。


「もっと上手く。」


「もっと頑張って。」


「才能があるんだから。」


「期待しているから。」


 ずっと。


 誰かの望む少女でいなければならなかった。


 そして今。


 ここでも。


「君の価値は魔奏器適性だ。」


 同じだった。


「……。」


 少女の指が震える。


 ギターを握る。


 音を鳴らす。


 ――ギィン。


 心奏力が溢れる。


 赤黒い感情と共に。


「良い。」


「非常に高い出力だ。」


「次は実戦だ。」


 少女は。


 初めて笑った。


 ほんの少しだけ。


「……Noise。」


「倒せば。」


「ここから出られる?」


 研究員は答えなかった。


 代わりに。


「次の実験を開始する。」


 少女の笑顔が消える。


 何度も。


 何度も。


 戦わされた。


 Noiseを倒す。


 戻る。


 実験を受ける。


 また戦う。


 それでも。


 少女は耐えた。


 最初は。


 帰るためだった。


 次第に。


 Noiseを倒すことだけが。


 自分の存在理由になっていった。


 ある日。


 研究員が言った。


「君は素晴らしい。」


「誰よりも強い。」


「もっと倒せる。」


「もっと戦える。」


「君なら。」


「世界中のNoiseを消せるかもしれない。」


「……。」


 少女はギターを握る。


 もう。


 帰りたいとは言わなかった。


 代わりに。


「Noiseは。」


「全部。」


「私が倒す。」


 その声には。


 かつての少女らしい温かさは。


 もう残っていなかった。


 怒りだけが。


 彼女を支えていた。


 怒れば。


 戦える。


 憎めば。


 立っていられる。


 Noiseを倒せば。


 自分がここにいる理由を証明できる。


 だから。


 少女は戦う。


 戦って。


 戦って。


 戦い続けた。


 やがて。


 施設の研究員たちは。


 彼女をこう呼ぶようになった。


「最強の魔奏少女。」


 少女は。


 その呼び名を否定しなかった。


 ただ。


 鏡に映った自分を見つめる。


「……。」


 そこにいるのは。


 泣いていた少女ではなかった。


 笑っていた少女でもなかった。


 ただ。


 Noiseを睨みつける少女。


 怒りを失えば。


 何も残らない少女。

 少女は。


 研究員から渡されたギターを見つめていた。


 それは。


 魔奏器によく似ていた。


 形も。


 構造も。


 心奏力を通すための機構も。


 けれど。


 本物ではない。


 魔奏器の構造を模倣して作られた、実験用の紛い物。


「魔奏器を模した実験用楽器だ。」


「君の心奏力を測定する。」


「……。」


 少女はそれを手に取る。


 冷たい。


 本物の楽器とは違う。


 まるで。


 最初から人間を戦わせるためだけに作られた道具だった。


「演奏しろ。」


「……はい。」


 少女は弦へ指を掛ける。


 ――ギィン。


 音が響く。


 同時に。


 赤黒い心奏力が身体から溢れ出した。


「出力、安定。」


「素晴らしい。」


「やはり適性値は本物だ。」


 研究員たちは喜ぶ。


 少女は。


 何も言わない。


「これなら実戦投入できる。」


「次の試験へ。」


「……。」


 少女は楽器を握ったまま。


 自分の手を見つめていた。


 いつからだろう。


「帰りたい。」


 そう言わなくなったのは。


 いつからだろう。


「お母さん。」


 そう呼ばなくなったのは。


 ここでは。


 誰も彼女の名前を呼ばなかった。


「被験体二一七。」


「準備しろ。」


「二一七。」


「Noise討伐試験だ。」


「……はい。」


 名前の代わりに。


 番号が与えられた。


 少女は。


 それを拒まなかった。


 拒む理由すら。


 もう分からなくなっていた。


 戦えば褒められる。


 Noiseを倒せば実験が終わる。


 強ければ価値がある。


 それだけ。


 それだけが。


 彼女の世界になっていった。


 ある日のこと。


「二一七。」


「今日の討伐数は?」


「……十二。」


「素晴らしい。」


「では次は二十を目指せ。」


「……はい。」


 少女は立ち上がる。


 紛い物のギターを肩へ掛ける。


 鏡の前を通り過ぎる。


 そこに映った少女は。


 もう。


 かつての自分には見えなかった。


「……。」


 少女は一瞬だけ足を止める。


 鏡の中の自分を見る。


 そして。


 小さく呟いた。


「……私は。」


 言葉が続かない。


 自分が誰なのか。


 考えることすら。


 面倒になっていた。


 だから。


 少女は鏡から目を逸らす。


「Noiseを倒す。」


 それだけを口にして。


 また戦場へ向かった。


 ――まだ。


 彼女には。


 「ミスティ」という名前すら無かった。




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