第10話 始めよう もう一度 その2
ピスケの笑顔が。
ほんの僅かに歪んだ。
「……。」
その表情を。
ミソラは知っていた。
知っている。
見覚えしかない。
「――っ。」
頭の奥を、何かが掻き回す。
ぐちゃぐちゃに。
内側から膿が流れ出してくるような、不快な感覚。
「……まさか。」
目の前にいるのが。
もし。
あいつだとしたら。
「……!」
ミソラは本能的に振り返った。
先ほどまでアノマリーが立っていた場所。
そこには黒い霧が僅かに漂っている。
「……え?」
霧の中。
何かが倒れている。
ゆっくりと霧が晴れていく。
そこにあったのは。
「……ピスケちゃん?」
見知った姿。
金色の髪。
ツインテール。
しかし。
その身体は傷だらけで。
まるで命そのものを抜き取られたかのように、力なく朽ち果てていた。
「……嘘。」
膝から力が抜ける。
「違う……。」
「私が……?」
背後から。
「あーあ。」
声がする。
聞き慣れた声。
それなのに。
今は。
何よりも恐ろしい。
「友達に酷いことするのね。」
ぎゅっ。
背中から。
誰かに抱き寄せられる。
「ミソラちゃん。」
「……っ!」
首筋に吐息が触れる。
その腕から。
黒い靄がゆっくりと染み込んでくる。
「や……。」
心臓の奥へ。
冷たい何かが入り込んでくる。
「今回は。」
耳元で。
優しい声。
「誰も助けてくれないよ。」
「……。」
ミソラの身体が震える。
「だって。」
少女は笑う。
「あなたが、そうしたんだから。」
「――っ!!」
黒い靄が。
ミソラの胸の奥へ、さらに深く沈んでいった。
◇ ◇ ◇
――視界が暗転する。
次にミソラが目を開けた時。
そこは、まだ何も起きていない頃の綾小路家だった。
幼稚園児ほどの少女が歩いている。
その隣には、一人の老紳士。
「……堂道さん?」
少し若い。
けれど。
間違いない。
あの堂道だ。
二人は並んで、穏やかな街路を歩いている。
「これは……。」
ミソラは周囲を見渡す。
「ピスケちゃんの記憶……?」
少女――雲雀は、幼いながらもどこか凛とした雰囲気を纏っていた。
「お嬢様。」
「今日はどちらへ参りましょうか。」
「お母様のお迎えまで、少しだけお散歩したいです。」
「承知いたしました。」
堂道が微笑む。
その視線は常に雲雀へ向けられている。
少しでも危険があれば、すぐに動けるように。
「……。」
ミソラは黙って二人を見つめる。
こんな頃から。
ずっと一緒だったんだ。
やがて二人は交差点へ差し掛かる。
「お嬢様。」
「少々お待ちください。」
堂道が手を差し出す。
雲雀がその手を握る。
信号は青。
二人は横断歩道を渡り始めた。
――その時。
「……?」
街灯が。
一瞬だけ、明滅した。
信号機の表示も。
ほんの僅かに揺らいだように見えた。
「……?」
堂道が足を止める。
何かを感じ取ったように周囲を見渡す。
「どうしました?」
「……いえ。」
「少々様子を見てきます、お嬢様はお待ちを。」
堂道が雲雀の元を離れる。
次の瞬間。
遠くから。
甲高いブレーキ音が響いた。
キィィィィィッ!!
「お嬢様!」
堂道が雲雀を抱き寄せようと駆け寄る。
しかし。
間に合わない。
「――!」
衝撃。
視界が白く弾ける。
雲雀の小さな身体が宙を舞う。
「お嬢様ぁぁぁぁっ!!」
堂道の叫び声。
そして。
ミソラの視界も、再び暗転した。
◇ ◇ ◇
視界が、再び開ける。
そこには。
一人の男性がいた。
台の上で目を覚ました少女へ、縋るように身を乗り出している。
「雲雀……。」
「雲雀!」
「私が分かるか……!?」
少女はゆっくりと瞼を開く。
「……お父様?」
「おお……。」
男性の目から、涙が溢れた。
「三年もかけて……。」
「ようやく……。」
「お前の声が聞けた……。」
少女は不思議そうに父親を見つめる。
自分が何故ここにいるのか。
何故、三年も眠っていたのか。
まだ何も分からない。
ただ。
父親が泣いている。
それだけは分かった。
――そして。
綾小路家は一つの決断をした。
魔奏器。
ピスケス。
その力によって。
かつての雲雀と同じ姿を持つ身体を作り上げる。
幼い身体。
金色の髪。
青い瞳。
両親が愛した。
あの日の娘の姿。
「……雲雀。」
「お帰りなさい。」
そう呼ばれるたび。
少女は笑った。
「ただいま、お父様。」
「ただいま、お母様。」
しかし。
身体は、最初から自由に動いたわけではなかった。
歩くことも。
走ることも。
普通の人間と同じようにはいかなかった。
そこで。
もう一つの魔奏器が埋め込まれた。
身体を安定させるため。
与えられた姿を維持するため。
それが。
アクエリアスだった。
年月が流れる。
身体は少しずつ成長していった。
幼かった少女は。
やがて小学生になり。
高学年になり。
そして。
今のピスケと同じ姿へ近付いていった。
けれど。
心だけは。
あの日の雲雀から、ほとんど変わらなかった。
「お父様。」
「お母様。」
「今日、学校でこんなことがありましたの!」
「それで――」
楽しそうに話す。
無邪気に笑う。
けれど。
時折。
両親には理解できない言葉を口にすることがあった。
「……私は。」
「本当に雲雀なのでしょうか?」
「……。」
両親の顔から。
少しずつ笑顔が消えていく。
「どうして私は、昔のことを覚えていないのでしょう?」
「どうして私は、あの日から成長していないような気がするのでしょう?」
「どうして……。」
「私は――」
その問いに。
両親は答えられなかった。
最初は。
ただ娘が帰ってきたことが嬉しかった。
しかし。
時間が経つにつれて。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
視線が変わっていった。
我が子を見る目が。
どこか他人を見るようなものへ変わっていく。
それでも。
少女は気付かない。
ただ。
家族に愛されたかった。
――ある日のこと。
「じゃあね!」
「また明日!」
学校帰り。
友達と遊んでいた少女が転んだ。
「いたっ!」
膝を擦りむく。
「大丈夫!?」
「うん。」
少女は立ち上がる。
その時。
「……あれ?」
友達が首を傾げた。
「血、出てないよ?」
「……。」
少女は自分の膝を見る。
傷はある。
けれど。
血は一滴も流れていない。
「……そうですわね。」
「なんで?」
「……。」
少女は少しだけ迷った。
でも。
この子なら。
きっと大丈夫。
そう思った。
「……実は。」
少女は自分のことを話した。
自分が普通の人間ではないこと。
魔奏器の力で作られた身体であること。
そして。
本当の自分が何者なのか。
全部。
「……。」
友達は何も言わなかった。
「……どうしましたの?」
「……。」
少女は笑おうとする。
「驚きました?」
「でも。」
「わたくしは、わたくしですわよ。」
返事は。
なかった。
「……じゃあ。」
「また明日。」
小さな声でそう言って。
少女は帰った。
次の日。
その友達は。
雲雀を避けるように過ごしていた。
その次の日も。
その次の日も。
やがて。
話しかけても。
目を合わせてくれなくなった。
そして。
いつの間にか。
その子とは話さなくなった。
「……。」
少女は一人。
教室の窓から外を眺める。
友達の笑い声が聞こえる。
けれど。
自分のところには。
誰も来ない。
胸の奥に。
小さな穴が開いたような気がした。
――ああ。
そういうことなのですね。
少女は。
まだ幼い心で。
初めて理解した。
自分が。
普通ではないということを。
そして。
それを知られれば。
大切な人は。
離れていってしまうのだと。
それでも。
少女は笑った。
いつものように。
「……大丈夫ですわ。」
誰に言うでもなく。
小さく。
「わたくしは。」
「綾小路雲雀ですもの。」
その言葉だけを。
胸の奥へしまい込んだ。




