第八話
応接のソファに掛けたセデュイールは片手でコーヒーのカップを傾け、長い脚を組んで新聞を読んでいた。目元には縁の薄い眼鏡がある。オフのときにたまに目にする姿だ。私に気付くと彼は新聞を畳んで眼鏡を外し立ち上がる。すらりとした長身を見上げると彼は柔らかく微笑んで私を見る。
「おはよう、ダイアナ。よく眠れたか?」
「…お陰様で。いい朝ね、セデュイール」
エスコートするように手を取られダイニングに向かう。テーブルクロスが引かれた長テーブルにはレストランのように、瑞々しい生花――真っ赤なダリア――が生けられ、ぴかぴかに磨かれた皿が3つ間隔を置いて置かれている。それとグラスがふたつ、カトラリー、バターやジャムの類もある。
席に就くと間もなくコック帽を被った若い男の人――確かクロードと名乗っていた――がお盆に焼き立てのパンを載せて現れる。パンの甘い香りが鼻腔を擽り、食欲を刺激する。後ろにはメイド長のヨランダがカートを押してつづき、カートの上には雫を光らせる果物や、目にも鮮やかなサラダや、何種類ものチーズ、スクランブルエッグにベーコン、目玉焼き、ローストビーフに白ウインナーやらが整然と並んでいる。
「できたてだよお。ご賞味くださーい」
のんびりした口調のクロードがお盆をこちらに翳す。パン・オ・ショコラにクロワッサン、バゲットにアップルパイとより取り見取りだ。
「朝からこんなに食べるの? あなたはいつも…」
「食べられるときに食べておかないとな」
「残してもだいじょーぶですよお、私たち使用人が後で美味しくいただきますんで!」
氷水をサーブしながらにこにこと邪気なく言うルージュをヨランダが窘める。なんだかふかふかの毛布にくるまれているみたいに心地がいい。カーテンは相変わらず閉じられていて、パパラッチの類は外で私たちを待ち構えているのでしょうけど。使用人たちがみんな、いいひとだからかしら。穏やかな空気が整然と流れている感じ。私の故郷の家とは大違いだわ。赤子の泣き声や弟たちの喧嘩する声、兄に髪を引っ張られて泣き喚く妹の声だとかが反響していた、薄汚れてごちゃついたあの家とは。
…こういうところでセデュイールは育ったのね。だからこんなふうにいつも落ち着いて、清潔感があって、余裕がある感じ、なのね…。
…あー好き。また好きになっちゃう。しょせん片思いだけど。叶わぬ恋だけど!
…ところで、私がパン・オ・ショコラに齧り付き、セデュイールが楚々としたしぐさでナイフとフォークを使ってサラダを口に運んでも、ひとつ空いた皿は一向に埋まる気配がなかった。
あのバカはまだ寝てるってことね。アイツ、セデュイールに朝の挨拶もしない気かしら。そんなに夜が遅かったの? それともただあいつがねぼすけなだけ? …どっちもあり得るわね。あの甘ったれのクソガキ…。
「ルーシュミネは、起こさなくていいの?」
スクランブルエッグを大皿から取り分けスプーンでかき混ぜながら問うても、セデュイールは微笑んで頷くだけだ。
「あいつには負担をかけているから、休ませてやりたい」
「負担ったって…」
この状況のことを言ってるのかしら。それとも昨夜あのバカに、負担をかけるようなことをしたってこと? いや朝からセデュイールが下ネタを言うはずないわね! ない、わよね!?
「ちょっと甘やかしすぎじゃない、あなた…」
もごもご苦言を呈す私にも彼は穏やかに笑うばかりだ。
本当にルーシュミネのことが、好きなのね。このひとは…。
起きた時に、セデュとダイアナはもういなかった。僕が起きる前に出かけたんだ。二人揃っての同伴出勤だもの、パパラッチたちの猛攻はもう物凄いモンだっただろう。起きていなくてヨカッタ。騒ぎを耳にするのも鬱陶しいし、騒がれてる彼らを、ただ見送るだけなのも、空しいし…。
あー嫌だな、そろそろ外出したい。外に行きたい。青空の下を大手を振って歩きたい! 陽光を体いっぱいに浴びて、あたらしい曲想を探して、散歩して…
ひとりならいけるかな? セデュと一緒じゃなけりゃいけるんじゃないか? ふと思いついた僕は受話器を取り上げる。マチウを、僕のマネージャーを呼び出して、いろいろ揃えてもらうために。
「じゃーん! どうコレ? 別人にみえるう?」
「…はあ…」
マチウが気のない返事をする。赤毛のウイッグに鳥打帽、セデュのハイネックセーターにジーンズ、トレンチコートのいつにない格好をしたこの僕に。
「変装すれば別にいけんじゃね? って思ったんだけど。だめかなあ…」
「そうですねえ、うーん…」
いまいちマチウの調子ははっきりしない。似合わないってことなのか、柄じゃないってことなのか? なんかもっと意見を言ってほしい! 悪いとこがあったら直すからさあ!
「ルーシュミネ様、探偵ごっこですかあ? わ、カワイイですねえそのウイッグ…」
「こらルージュ! あ、マチウ様、ようこそいらっしゃいました。コーヒーか紅茶どちらがよろしいですか?」
寄り添って部屋に入ってきたハウスメイドのルージュとパールに手を振って「おかまいなく」と断ったマチウは、今度はぐるりと僕を見た。
「…いっそ、メイドに扮してみたらいかがです? 別人になって外に行きたいなら…」
「えええ? また女装させようっての? もーやだよー!」
「あなたの印象を消し去るには、そのくらい致しませんと!」
ソファにぐんにゃりとなってジタバタする僕を興味深そうに眺めつつマチウは宣う。コイツ、ちょっと面白くなってきてないか?
「あの古城でも、ムッシュ・リーヴェのメイド姿は大層可憐でしたよ…」
「もーその話はいいって!」
「えっルーシュミネ様、メイド服着たことあるんですかあ? うちにも大きいのありますし、着てみます?」
「やだ! 絶対いやだ! だいたいメイド服着て外行かないだろ君たち! 私服だろ! 知ってんだよ僕は!」
「ちぇー絶対カワイイと思うのにい。見たかったなー」
「し、失礼しましたルーシュミネ様…ルージュ、あなたは本音をしまうことを覚えなさい…」
パールの慌てたようなフォローも空しい。僕はハアとため息ついて遠い目をする。女装、女装かア…それくらいしないと、外に行けないのかなあ…。
「使用人のフリってのは、いい案だよね…男の使用人がいたら、ヘンかな? …たとえば、執事とかさ、」
「ルーシュミネ様は執事ってタイプじゃないですよねえ、どう見ても。メイドさんのがしっくり来ます」
「もう、ルージュ!」
「メイドさんかア…ううー…」
うんうん唸りながら僕は頭を抱える。女装はいやだ。絶対バレるし。セデュの屋敷から女装男子が現れたら何事かってなるし! 男のメイドを雇ってるなんてパパラッチに知られたらセデュの名誉がズタズタになるだろ!? なんのために僕がこれまで息をひそめていたのかわかんなくなる!
「…女装じゃ、なければ、いいのか…」
ぱっと顔を上げると、マチウはルージュにせっつかれて紙袋から数種類のウイッグを取り出しているところだった。赤毛のショートカット、ロング、セミロング、ブルネットのロング…いや長い髪多すぎだな。ヒッピーにでも化けさせる気だったのかよ。
「化粧とか、お願いできる? パール。男か女かわかんないような感じにさ…」
「え!? あ、はい! もちろん!」
「やっと決心がつきましたか、ムッシュ・リーヴェ!」
「いやメイドさんにはならないからな!? ただその、ちょっと、私服姿の使用人が、買い物に行く、みたいな感じでさ…」
「おお、いいと思います! それでいきましょ、ルーシュミネ様!」
ルージュのガッツポーズに苦笑したパールが僕に白粉を叩く。ペンシルで茶色いソバカスをいくつか付けて、セミロングのウイッグを被せる。トレンチコートは辞めて、体にぴったりしたジャケットを羽織ると、まあ遠目には、男か女かよくわかんないような感じに、なった、かな? …まあいいや、サングラスをかけ、鳥打帽はやめて頭にスカーフを巻く。うん、別人っぽくなった。輪郭を隠したのも効いてるかも。
「それで、外に行くとき、一緒に、ついてきてくれないかな? 二人とも…」
顔を見合わせるルージュとパールに平身低頭頼み込む。日中のお仕事を放り出してふたりを外出させることをヨランダにも頼み込むと、彼女は鷹揚に笑って頷いてくれた。
「ごゆっくり、お外で羽を伸ばしていらっしゃいませ。坊ちゃんの可愛い水の精さん」
こうして、ふっくらとした丸顔の慎ましい身体つきの愛らしいパールと、きりっと目のつり上がったナイスバディ美少女のルージュとを両手に侍らせ(?)、僕はパパラッチの渦の中を通り抜けたのだった。




