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≪第九部≫ウンディーネは日盛りに沈む ―スキャンダル編―  作者: 咲佐きさ


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第六話

 初対面は、『嵐が丘』の制作発表会だった。

 オーディションで役をゲットした新進女優の私と違って、セデュイールはその当時既に何本も主演作を抱える売れっ子で、既婚者だった。

 初めて名乗り合って握手したとき、彼は私の目をシッカリと見て微笑んでいた。私の身体のほうには、一度も目をくれずに。

 オーディション以来、値踏みされ鑑賞され商品として扱われることに慣れ切っていた私は、だから驚いたのだ。このひとは周りの男たちと何かが違う。それは直観だった。

 撮影が開始して、親しく言葉を交わすようになっても、セデュイールは私から常に一定の距離を置いていて、私のプライヴェートゾーンを守ってくれているように感じて、それも好ましかった。

 共演女優に飲みに誘われ、キッパリ断る姿も何度も目にした。彼が愛妻家だという噂は、そういった彼の態度から来ていたのだろう。どんなに魅力的な相手に誘われても目移りせず、奥さんだけを一途に想っている理想の男。私は撮影中どんどん彼が好きになり、それと同時に、振り向いてもらえないことに満足していた。

 だって私の理想の男は、他所の女に色目を使うような男じゃないんだもの。

 

 その日は朝から、昨夜までの豪雨のために延期していたシーンの撮影だった。断崖絶壁のシーンで、肌寒い空に囂々と打ち寄せる波が荒い。ごつごつした岩が重なり合った中にぶち当たった波が白い水しぶきとなっていくつも散っている。空はどんよりと曇っていて、またいつ嵐が来るかわからない。

 撮影は難航していて、スタッフもどこかピリピリしていた。

 機材の調子が悪いとかで中断した撮影の合間、私は断崖絶壁を覗き込む。泡立つ海は黒く淀んで底が見えない。まるで地獄の窯の蓋が開いているみたい。どどどと物凄い音がして波が打ち寄せるたび、ぐらぐらと眩暈を誘うように海面が揺らぐ。私は魅入られたようにそれを注視し、また一歩踏み出した。

 ぐいと二の腕を掴まれて引き戻されたのはその瞬間だ。

 振り返ると真剣な顔のセデュイールがいた。ヒースクリフの衣装を着たままの、荒々しい男の仮面を脱いだオフの彼が。

「あまり崖に近づくな。昨日の雨で、足場が崩れやすくなっている」

「…ええ、」

 不意の接触にドキマギして、私は目を落とす。掴まれたままの腕を見下ろす私に気付いたのか、彼はぱっと手を離して、すこし居心地が悪そうに私に謝罪する。

「強く掴んで悪かった」

「いいの、ありがとう、…」

 ごうごうと吹く風に乱された前髪が目元にかかって、彼は鬱陶しそうに掻き上げる。どこか遠い地平線を睨むように眉を顰めた彼はくるりと踵を返して離れていく。まるでなんの感慨もないかのように。

 私を助けたのも、見返りなんて何も期待していない、当たり前のことであるかのように。

 私のことをただの人間として扱ってくれるのはそのとき、彼ただ一人だったのだと思う。


 完成披露のパーティーでも、その後の取材でも、何度もセデュイールに会う機会はあったけれど、そのたび仲睦まじく寄り添う奥さんの姿があって、私は結局、一度も彼に思いを告げられなかった。

 でもそれでよかったの。奥さんを大切にしているあの人に、生真面目で堅物で愛情深いあの人に、私は恋をしたのだから。

 告白したところで振られるのがオチだし、振られなかったら、彼が堂々浮気したりなんかしたら、それはそれでもっと幻滅だし!

 そうよ、あのひとはそんなことする人じゃない。奥さんを裏切って、他の女にふらつくことなんか、絶対にしない人だ。誠実で、一途で、優しい紳士なの。私の理想の男の人なの。――

 セデュイールの離婚についての初報を聞いたのはある撮影現場だった。

 セデュイールは一緒じゃない。ハリウッドの片隅で撮られている、フィルムノワールを意識したような犯罪映画だ。私は父親を殺されるヒロインで、親子ほども年の離れた探偵と恋に落ちる令嬢の役だった。

 私にその報道を伝えたのは『嵐が丘』でも共演したことのある男だ。黒髪で長身で、蛇みたいな男。セデュイールとは何度も共演経験があるとかで、彼の奥さんにまとわりついてばかりいた男。たいして演技が巧くもないのに強大な後ろ盾があるのか、フランスだけでなくハリウッドにまで最近は進出してきた男だ。――名前は確か、ファルコだったかしら。

「セデュイールも遂に離婚かア。まあやつはフェリシアには最初から相応しくなかったからな、当然の結果だよ」

 撮影の待ち時間、唐突に切り出した男の言葉には私は目を白黒させる。何か言った? 何か、信じられないようなことを、こいつは今言わなかった?

「…嘘でしょう、何かの間違いじゃ…」

「間違いなもんかよ! フランス本国では連日報道されてるんだぜえ。世紀の美男美女カップル遂に破局! てな感じで」

 けらけら笑いながら告げられても、はいそうですかと信じられるわけがない。あのセデュイールが離婚? 奥さんを一途に愛していたはずのあの人が? 共演女優に誘われても一向に首を縦に振らなかったあの人が? いつでも奥さんと寄り添って、睦まじそうにしていたあの人が?

「間違いじゃないなら、何かしら…仕事の上ですれ違いがあったとか…? こういう職業にはよくあることだから…そういうことよね、多分、うん…」

「理由について知りたいかい? 確かな筋から俺は入手しちゃってるんだよなア~」

「あんたの情報源なんてどうぜ三流のゴシップ記事でしょ」

「いーや! 俺の知り合いには情報通がワンサカ居てなア。真相を知ってるのはあいつらくらいかもしれないなー!」

「……」

 じっとり睨みつける私に話したくてウズウズしている様子のファルコはなおも、蛇のように纏いついてくる。聞きたくないと言っても聞かせずにはおかないとでもいうようだ。だったらとっとと話せばいいのに、何を勿体ぶっているのかしら。

「どうでもいいわ。私はセデュイールの口から真実を聞き出すから。本人の言葉以外は何も信じません」

 鬱陶しい男にくるりと背を向け歩き出す私に追い縋り、ファルコは私の二の腕掴んで引き擦り戻す。

「ホントに知りたくないのかい? アイツが君に真実を話すとでも? 君たちってそんなに親しい仲だったかな?」

「後ろめたいことがないなら、誰にだって話せるでしょう! 離しなさい、訴えるわよ」

「後ろめたいことなんか満載さ、むしろ後ろめたい事しかないね、」

 ファルコは私の耳元に唇を寄せて、ぽそりと囁いた。まるで、ねばついた悪意という名の毒を注ぎ込むように。

「あいつには愛人がいたんだ、それも男のね」


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