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≪第九部≫ウンディーネは日盛りに沈む ―スキャンダル編―  作者: 咲佐きさ


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第二十話

 あなたが離婚を切り出したのは、それから間もなくのことだ。理由を尋ねる私に彼はただ、

「もう終わりにしよう」

 とだけ言った。

 もちろんそんな言葉で了承できる訳はない。性的接触の一切ない仮面の夫婦でも、あなたは女性が愛せないのだとしても、わたしたちは夫婦になったのだ。彼はわたしを一度は選んでくれたのだ。今更離れるなんてできるはずもない。何より私は彼を愛していた。愛してくれない彼をずっと、愛していたのだ。

「確たる理由もないのに、納得なんてできません。あなたは勝手が過ぎるわ。わたしはあなたの我儘をずっと許してきました。あなたももっとわたしに譲歩して然るべきじゃない?」

「やり直すならば、早い方がいい。私と共にいたままでは、君は幸福にはなれない」

「何が私の幸福か、あなたにわかるの? 私の幸福を勝手に決めないで。とにかくわたしは不承知です!」

 本当のところ、彼がわたしに何かを要求したのは――結婚前の約束を除いては――そのときが初めてだった。

 その頃から彼はあの子に出会っていたのか、わたしは知らない。


 ある日彼は、離婚届を置いて荷物を持ち出し家を出て行った。

 唐突な展開に私は戸惑い混乱し、事情を突き止めようと探偵を雇って彼の動向を探らせた。そしてようやく、私は彼がある男の子を囲っていることを、知ったのだ。

 

 その子は嘗て一世を風靡したピアニストだった。とんでもない醜聞を巻き起こして芸能界を去った後、行方をくらませていたそうだが、ある秋の日にパリの場末の男娼窟でセデュイールと共にいるところを、バーテンダーに目撃されていた。

 なにしろ彼は有名俳優だ。店に入ってきたときから出るときまで、彼の一挙手一投足は無数の目に見られ、監視されているようなものだった。

 そんな後ろ暗い場所にわざわざ出向かなくとも、もっと秘密裡にことを運べるようなコミュニティもあったろうに、わざわざ彼はそこに出向いて、その青年を買い上げた。

 彼らがもっと昔からの付き合いだったのか、そのとき出会ったばかりだったのか、そこまではわからなかったが、とにかく彼はその子を買って、ホテルに連れ込み一晩を共に過ごした。これはホテルのポーターを買収して得た情報だ。

 翌日には銀行に赴いてその子のための口座を開設し、何食わぬ顔で定期的にその男娼に金を送る生活を、彼は半年ほどつづけていたらしい。私は何も知らなかった。彼は私には何も告げなかったし、不審に思われるような行動をとることもなく自然体で――彼はいつから仮面を被っていたのか、それは最初からだったのではないか、私と結ばれたころから彼はそういった悪癖を抑えられていなかったのではないかと、私は疑心暗鬼に苛まれ絶望し懊悩した。

 探偵の調べでは彼がそういった場に出入りするのを目撃されたのはその1回と、その男娼と会うための待ち合わせに再度訪れたきりだったそうだが、私は何を信じればよいのかわからなくなっていた。

 ともかく、彼が保有するイタリアの別荘に彼らが滞在していることを突き止めた私は後を追ってイタリアに渡った。

 神に背いて婚姻の誓いを破り、禁忌を犯し、男を囲うなど、私には正気の沙汰とは思えなかった。彼は立場のある大人の男だ。分別も充分にあるはずだ。少なくとも、私とともに5年過ごしてきた彼は、そのような放埓なふるまいをよしとする男ではなかったはずだ。

 …変わってしまったのだろうか。その男娼と会って、彼に魅了されて。年甲斐なく、まるで初恋に狂った男のように。

 機上で私は嫌な連想を必死で追い払い、彼の立場を、世間体を、私を棄てることの意味を、彼に理解させてやるため飛び立った。

 私の父に逆らえば彼の役者生命は絶たれたも同じだ。それでなくともこの醜聞が明らかになれば彼の名声は地に落ちる。世間の信用というものが多分に影響する商売柄、彼の両親も、道に背いた彼を許すことはないだろう。

 職を失い、人倫に背いて、人から後ろ指差されるような生き方をすることになっても、それでもなお、その男娼を囲い続けると彼は言うだろうか。

 そんなことは、まともな神経の人間であれば不可能だ。第一その男娼だって、彼がおちぶれてしまえば呆気なく彼のもとを去っていくだろう。

 何を選ぶべきかなど、一目瞭然なのだ。選択の余地などない、簡単な方程式だ。

 彼にはその子と別れてもらう。醜悪な過去を持ち、既婚者に金をせびるような悪質な男娼とは別れてもらって、彼の目を覚まさせて――もしそれでも彼が男の子を欲しがるようなら、戒厳令を布いた上で後腐れなく言いなりになるような子をこちらで見繕ってもいい。多少の出費は目を瞑ろう。とにかく今の相手は危険なのだ、彼は爆弾を抱え込んでいるようなものなのだから。…


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