第十七話
パリで開かれた映画祭で、私は彼と出会った。私は20歳で、彼は21。著名な映画プロデューサーである父と資本家である彼の父親とが親しくて、その縁で引き合わされたのだ。
当時、何人かの男の子と付き合っては別れてを繰り返していた私は生意気な女学生だった。男性経験もそれなりに積んでいたけど、私に寄ってくる男たちはお金目当ての最低男か、そうでないなら資産家の両親に溺愛されて育った甘ったれの赤ん坊みたいな男か――そんな具合だったから、私は男という性別全体に軽蔑を持ち始めていたのだ。
女性でも手に職を持つべきと考えていた父は私を大学で学ばせ、その傍らに仕事を手伝わせていた。そのとき父が私を同行したのも、業界人とのコネクションを私に作らせるためだった。
ひととおり俳優陣や監督らと談笑し、彼らの人となりを冷めた目で見つめて、私は正直、退屈しきっていた。上滑りするおべっか、饒舌な成功自慢、私に向けられる下卑た眼差し。業界人の半数以上がそんな調子で、輝かしい映画業界の裏側をまのあたりにするようでウンザリしていたのだ。
彼の父親が挨拶に使づいてきたのは宴の終わり頃だった。ある映画の出資者のひとりとして名を連ねていた彼の父親は、私にも父に対してと同様に慇懃に挨拶し、息子だと言ってセデュイールを紹介した。
ぱちりと目が合った瞬間、彼は微笑んで、夏の夕暮れの海のような瞳で私をじっと見つめた。美しく整った精悍な顔立ち、すらりと伸びた手足に、ピンと伸びた背筋、柔らかで落ち着いた、余裕のあるその物腰。静かで、穏やかで、清潔で、少しの乱れたところもなく、どこか愁いを帯びた彼は、私のこれまで抱えてきた男性観を、ぐるりとひっくり返したのだ。
宴が果てるまで私は彼と映画の話で盛り上がり――彼は映画音楽が好きだと語っていた――すっかり彼に夢中になっていた私は、次に彼と会う約束をしっかりととりつけてから別れた。
道を歩くだけで誰もが振り返るほどの美貌の持ち主なのに、彼は少しの驕ったところもなく謙虚で、けれど自分を卑下しすぎることもなく、自然体でいた。
私の今日会った業界人、映画俳優の誰よりも美しい彼を、私は映画業界に引き入れる計画をひそかに心に固め、父に相談して了承を得て――次に会った時には、もうその話を彼にしていた。
彼は勢い込んだ私のスカウトに驚いたようにぱちぱちと長い睫毛で瞬いていたが、おっとりとその申し出を受けた。当時進路について悩んでいたらしい彼は、父の敷いたレールの上から一度逸れて、自分の可能性に賭けてみたいと語っていた。
資産家の嫡子である彼を芸能界に引きずり込むことに彼の父親は難色を示すかと思ったが、放任主義であるらしい父親からの抵抗は意外なほどに少なく、その年の秋には私のすすめで彼はオーディションを受けていた。
有名な監督の文芸映画の、若者役のオーディションで彼は難なく一次通過し、二次通過し三次も四次もパスして――翌年撮影の映画への、初出演が決定した。初めて参加したオーディションでだ。何年も芽が出ず悩む俳優の卵などこの業界では珍しくないのに、目座ましいほどの躍進と言わざるを得ない。まあまだ端役だけれど。
私は有頂天になって彼を祝い、今後も彼を全面的にバックアップすることを約して、父の息のかかった芸能事務所に彼を所属させた。
初出演の映画では、彼は後ろ姿が数秒映っただけだったけれど――彼を正面から映してしまうと主役を食ってしまうほどの美しさなので、まあ仕方がなかったのだと私は自分を納得させた。
私は彼の成功を確信していて、そのための協力は惜しまないつもりだった。
彼は実家を出てパリのアパートで一人暮らしを始め、私はそこにもよく遊びに行った。
キッチンを借りて彼に食事を作ったり、芝居の養成講座に通い出した彼の失敗談を聞きながら笑いあったり。
めかしこんでふたりで劇場にもよく出かけた。彼は音楽が殊の外好きで、コンサートに行った日などはいつもの寂しげな様子は影を潜め、目をキラキラさせて舞台の上を注視していた。
私は彼の好きなものをひとつずつ知って、そして知れば知るほど、彼に夢中になっていった。
私の歴代の彼氏たちと違って、彼は安易に私に手を出すことも、土足で踏み込んでくるようなこともなく、貞節を保って一定の距離を置いていて――それを少しもどかしいと思う気持ちもあったけれど、彼らしくて好ましいと、私は感じていた。
彼と付き合い始めて3年ほど経った頃、私は彼に初めてプロポーズした。
彼とこの先に進みたいという思いもあったし、生真面目な彼は婚約という手続きを経れば私をそういうふうに――一歩踏み込んで扱ってくれるのではないかと期待したからだ。
けれど結果は「Non」だった。
あまりにあっさりと、呆気なく、彼は言った。
コンサートの帰り道だ。ショパンの英雄ポロネーズを聞いた帰り道。上機嫌な彼は憧れるような眼差しでピアニストの技量を褒め、私はいつになく饒舌な彼に相槌を打って――
「私と結婚する気はない?」
と彼に聞いたのだ。
当時の彼は毎年のように映画の仕事があって、主演を張る作品はまだだったけれど、業界からも注目されはじめていた。私の父は業界の大物で、私、ひいては私の家と繋がることは彼にとってはメリットしかないと私は思い込んでいた。断られるなど、微塵も予想していなかったのだ。
「理由を聞いてもいい?」
「……」
私の申し出を断った彼に尋ねると、彼は黙り込んで私をじっと見つめる。出会った日と同じ、どこか寂しそうな、凪の海のような瞳で。
「私は君を愛せない。それが理由だ」
ぐわりと足元に大穴が開いて、落ちていくような気分だった。
愛せない、愛せないってどういうこと? いつでも穏やかで優しくて、私を気遣ってくれたあなたは、私のことを大切に思っていてくれたのじゃあないの?
「納得できない。どうしてそんな…今までのあなたは、じゃあ、嘘だったって言うの?」
「…君には感謝している。君の力添えがなければ私は、この世界に入っても芽を出すことは難しかったろう」
それは謙遜が過ぎる、おそらく私がいなくてもあなたはいずれ誰かに見つかっていたろう。けれど私はそれを口には出さない。あなたにとって私が利用価値のある女であることを、思い知らせてやりたかったから。
「それがわかっていながら、断るって言うの? わたしと結婚すればあなたはもっと――今以上の成功を手にできるわ。そう思わない?」
「仕事のために、君の人生を搾取するわけにはいかない」
「搾取だなんて…」
彼は決然としていた。迷いなど微塵もない様子で、私の申し出を断った。私を愛していないから。私に今まで手を出してこなかったのも、一定の距離を保ったまま、それ以上踏み込んで来なかったのも、私を愛していなかったから。
でも、あなたの言う愛って何? 穏やかに寄り添い合うのは愛じゃないの? 私といて、寂しそうに、でもたしかに微笑んでいたあなたは、愛を感じていてはくれなかったの?
「搾取されてもいいと、私が言っても、だめなの?」
「…すまない」
彼は首を横に振って振り切るように歩き出す。手を上げてタクシーを止め、私を促す。
「今まで世話になった。君には本当に…」
「待って、待って…いいわ、もういいから、…また会って、くれるでしょう?」
縋りつくような必死な私の言葉に少し考えて、あなたは頷いた。
寂しそうな瞳のままで。




