第十五話
「どーしたどーした。お、おはよーブルース」
「おはようございますう…あ、あの、だいじょうぶ、ですか…」
腰を抜かした僕におどおどと手を差し伸べるのは青いメッシュの入った黒髪の男の子だ。身長は僕と同じくらい。端正な顔立ちは黙っていればクールな印象なのに、へにゃりと下がった眉が叱られた犬を連想させる。
「なにやらかしたんだよーおまえ。お客様によー」
「な、なにもしてませんよう! そうですよね? ね?」
「あっ、うん、それはそう…」
「まーいーや。お前も手洗ってすぐこいよーもう朝メシできたぞー」
特に気のない様子で赤毛の歌手はくるりと踵を返す。猫みたいなふわふわの毛を揺らしながら彼はキッチンに戻っていった。
残された僕は黒髪の彼の手を掴んで立ち上がる。彼はおどおど視線を逸らしてしまって目が合わない。アーモンド型の黒い目だ。セデュの瞳の形に似てる…。
「あの、ごめんなさい。大きな声出して…ぼく、昨日のこと、あんまり覚えていなくって…」
「あ、は、はい、そうですよね、なんか、すっごく酔ってましたもんね…」
やっぱりそうか。この家に着いたときから酔ってたかー。じゃあ自己紹介とかもした後だったりするのかな? もういちど名前を聞くのは、失礼かな…。
「ぼく、なにか失礼なこと、したりしなかった? …」
「え、いいえ、それはぜんぜん…」
「ホントに?」
「あれくらい、よくあることですし! ロッキーが酔ったときなんか、壁に穴開けたりしますからね!」
「…そ、そうなの…君もタイヘンだねえ…」
「はい! あ、いいえ!」
「はやくこいよーメシがさめるぞー」
キッチンから呼びかける美声に「はい!」と返した黒髪の青年は、もじもじと僕を振り返り、「手、洗っていいですか?」と許可を求めた。不審な闖入者であるはずの僕に対してだ。赤毛の彼と同じで、この子もまた、気の毒なくらい、人が好いんだろうな…。
食卓には皿が三人分。トーストと目玉焼きとベーコンと、あとインスタントコーヒーの朝食だ。ここには彼らしか住んでいないみたいで、席に就いたふたりは黙々と食事を口に運んでいる。あんまり覚えていないんだけど、男の子がふたりで暮らしてるってことは、この子たちは恋人同士だったり、するのかな。廊下からダイニングに戻るまでに、もうひとつ部屋があったから、寝室は別みたいだけど…。
二人が恋人同士なら、僕とは何もなかったって、思っていいんじゃないかな? 酔った勢いでの3Pとか、するようなタイプじゃなさそうだし…僕自身は、全然信用できないんだけれども…。
「ふたりは、恋人同士なの?」
トーストにはむりと齧り付きながら、不躾に、僕は聞いていた。というか、疑問に思ったことがそのまま口に出ちゃってた。一晩泊めてもらって、朝ごはんをご馳走になってる身分でだ。唐突に聞くようなことじゃない、プライヴェートな問題だ、あんまり失礼すぎる、すぐに訂正しないと…。
「ぶはっ」
「ごほっ」
僕が言葉を継ぐ前に、赤毛の歌手は噴き出し、黒髪の青年はコーヒーが器官に入ったみたいに咳き込む。
「わ、ごめん、だいじょうぶ? あの、言いたくなかったら、無理にとは…」
「俺とこいつが、こ、恋人ォ? ふは、面白いこと言うなアあんた! ぶはははは」
「ごほっ、げほっ、」
「ち、ちがうの? 一緒に住んでるのに…?」
「こいつはただの幼馴染! いや、相方? …まあそんなもん! パリは家賃がたっかくてなあ。ちょっとの間の滞在だってのに、バカバカしいだろ? だからルームシェアしてるってだけ!」
「おさななじみ…」
僕とセデュみたいなものか。いや、僕とセデュは恋人同士だけど。ばっちり愛し合っちゃってるけど!
「俺、歌手やってるんだ。でこいつはギタリスト。R&Bって聞いたことない? 今度パリでコンサートがあってさ。バーで歌ってたのは、まあ小遣い稼ぎってとこ。本業一本でやってくには、まだまだ道は遠くてなア」
「R&B…」
どこかで聞いたような名だ。どこだっけ…。
「あんたも、名の知れたピアニストなんだろ? 昨日名前聞きそびれた。教えてくれよ。俺の名はロッキー・バートンだ。よろしく。んでこいつが…」
「ブルース・トゥルーズです。よろしくお願いします…けほっ」
まっすぐこちらを見てロッキーが掌を差し出す。猫みたいな赤毛が日の光に照らされてふわふわ金色の稲穂みたいに輝いている。
「ルーシュミネ・リーヴェだよ。よろしく…」
ロッキーの手を握り返しながら名乗った途端、ぐいと力強く引き寄せられる。小柄で華奢に見えるのに、とんだ馬鹿力だ。指が痛い。ピアニストの指はもっと優しく扱ってほしいんだけど!?
「ルーシュミネ…あんた、リーヴェさん!? まじかよ、本物!? おいブルース、あれもってこいあれ!」
「はいい」
「何何何?」
バタバタと駆けだしていったブルースが、レコードと雑誌を両手に抱えてすぐに戻る。印刷の擦り切れた、バラバラになりそうなくらい草臥れた雑誌はだいぶ前のタブロイド紙だ。ぱらぱら慌てたような指がページをめくり、紙面をこちらに向けて寄越す。
そこにはピアノに座る僕がいた。12歳の、輝かしい前途をもったピアニストであったはずの僕が。
「俺らの曲、あの、作曲家が飛んじまって、それで、急遽捕まった作曲家ってのが、あんたで…あああ、その節は大変お世話になりましたあ!」
「お世話になりましたあ!」
僕の指を掴んだまま立ち上がったロッキーが立ちあがって掌をシェイクし、雑誌をこちらに向けていたブルースも前後して手を重ね合わせる。
「あんたはすごい、天才だよ。たった2週間であんな曲…俺ならとっくに気が狂ってる! なあブルース!」
「はいい、僕も感動しました!」
「あんたは俺らの天使様だ、マリア様だ! あんたと競演できるなんて、俺はなんて幸せ者なんだ! おいブルース、ギター持って来いよ、セッションしようぜ、電子ピアノでもいいかい? こいつのリフは絶品なんだぜ、ぜひ素面のあんたにも聴いてもらいてえ! 昨晩みたいに、歌い騒ごうぜ!」
「でももう脱がないでくださいねえリーヴェさん!」
…思い出した。R&B。僕が数ヶ月前、マフィアのアジトに囚われていた時、仕事として与えられたのが、彼らのための楽曲だった。彼らはマフィアと関りがあるのかな? それとも手当たり次第に見境なく、やつらが仕事を受けてたってだけ? …そうだったらいいな、この子たちは、後ろ暗い世界には関わらないでいてほしい…。
「いいよ、やろう! 何時間でも浮かれ騒ごうよ!」
どうやら僕は昨日もこんな調子で、彼らとセッションして興奮して脱いで騒いで、そのまま寝ちまったみたいだ。まあケツに違和感はなかったから、そりゃそうかって話なんだけど。
幼馴染のロックミュージシャン二人と朝からどんちゃん騒ぎして、隣の部屋の住人に怒鳴り込まれるまで僕らは遊んだ。ロッキーのロックミュージシャンらしからぬ澄んだ歌声も、ブルースの繊細な指遣いも最高で、極上の時間だった。




