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≪第九部≫ウンディーネは日盛りに沈む ―スキャンダル編―  作者: 咲佐きさ


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第十三話

 ダイニングの手前の、応接間で僕は立ち止まる。カーテンは引かれたままだから、朝から煌々と照るシャンデリアの光がダイニングの扉から流れ込んでいる。ころころと歌うように笑うダイアナの声が聞こえる。朝早くから上機嫌だ。セデュとふたりの食事を、きっと楽しんでいるんだろうな。…僕はやっぱりお邪魔かな。

 思い悩む心の内側とは反対に、僕の脚はつかつかダイニングに向かう。ダイアナの幸福をぶち壊してやるってほどの思いはなかったんだけど、まあなんだ、ただ単に、ひとりで暗闇にいるのが、空しかったからだろう。

「おはよー、セデュ、ダイアナ…」

 へらへら笑いながら灯りの下に出る僕を、ぎょっとしたような二対の目が注視する。いつも寝てるはずの男が急に起きて顔を出したからだな。驚かせてごめんよ。ちょっと一緒に食事したいだけだから、気にしないでくれよ…

「ルー、」

 がたんと席を立ったセデュが足早に僕に近づく。ふわりと甘い香りが漂う。僕の大好きなセデュの香水のにおいだ。なんか、久しぶりって感じがする…。

「頭を打ったのか、他に怪我はないか? 無理して起きてこなくてもいい、すぐに医者を呼ぼう…」

「へーきへーき。ちょっと寝惚けてベッドから落ちただけだから…」

 ちょっと自分でも無理があるように感じる作り笑顔で応答する僕を、セデュは心配そうに覗き込んだままでいる。ダイアナはじっとりと僕を胡乱げに見て、ふんと鼻を鳴らした。

「心配しすぎよセデュイール。あなたが甘やかすから、この子どんどん調子に乗るのよ。わざわざ血の付いたパジャマで現れて、セデュイールの気を引こうって言うんでしょ。見え透いてるのよ。小学生みたい。本当にキツイなら医者は自分で呼びなさい」

 なんだか厳しいお母さんみたいにダイアナは言う。優しいお父さんと厳しいお母さんだ。この二人の子供に来世で生まれ変われるなら、悪くないかもしれない…。

 …いやダメだろ。僕はもう自殺未遂はしない。絶対に! だいいちこんな、自分の妄想で自分の首を絞めてるような滑稽な理由で、自殺なんかできるか!

 自分では気づかなかったけど、見下ろしたパジャマにはたしかに血がついていた。鼻血が垂れたんだ。それだけだ。僕は別に、セデュの気を引こうなんて――思ってたかな。思ってたかも。…あさましいやつだな。本当に。

 ぴっちり完璧にセットした頭と、ばっちりメイクしたカワイイ顔と、そのまま外出もできそうなツーピース姿のダイアナと、夢で見たようなグレーのスーツに眼鏡をかけた理知的な雰囲気のセデュは、ぼろぼろぐしゃぐしゃの僕なんかとはそもそも住む世界が違うひとってな感じだ。

 せめて髪は梳かしてくるんだったな。なんか、いつもの癖でそのまま来ちゃったのが悪かったな。顔も洗って、せめて鼻血が止まった後だったら、もうちょっとマシな見た目になったろうにな。…

「ぼく、もうちょっと寝てくるね。騒がせてごめん。きみたちに、出かける前に、挨拶したかった、だけだから…」

「歩行に問題はないか、部屋まで送ろう、」

「へーきだってば。やっぱりぼくは、もっと寝ないと頭がシッカリしないみたいだ。医者はいらない、ただの鼻血に、医者もクソもないよ。じゃあもう一回おやすみぃ~」

 ダイニングの彼らに背を向けて僕は暗闇に踏み出す。パパラッチがまだ大勢いて、カーテンが開けられないせいだ。…それもこれも、ボクがセデュを、むりやり、離婚させたせいだ。

 記者が詰めかけてるのも、ダイアナが危険な目に遭ったのも、――セデュの浮気の心配をしてるのも、僕が既婚者のセデュに、横恋慕して、奥さんから奪い取ったせい。

自分が呼びよせた状況なんだ、なにもかもぜんぶ。僕は報いを受けてるだけなんだ。

穴の中みたいに昏い応接を通って、僕は寝室に向かった。




 セデュとダイアナが揃って出かけてしまってから、赤毛のウイッグにスカーフを巻いた僕は今度はひとりで外出する。映画館には脚を向けない。二度と観てやるもんか。わざわざ惨めな思いをしに行くバカがどこにいる!

記者の顔触れはだいたい昨日と一緒で、顔見知りの僕――私服姿で邸内を出入りする女中その1――には興味を向けない。セデュとダイアナ以外は邪魔っけな虫くらいに思ってるんだろう。

 公衆トイレでウイッグを外し、ぶらぶらカフェでお茶したり、ショーウインドウをひやかしたり、夕暮れ時まであてどなく徘徊し、モンマルトルまで足を延ばす。ムーランルージュの電灯がともりバーの開く時刻になると僕はそそくさと扉を開いて人込みに紛れる。

セデュと再会した思い出深いあの場所じゃない。ごく一般的な音楽喫茶だ。カウンターに寄ってモーツァルトリキュールを注文する。バーテンダーは黒髪の若者だ。にこりと笑って慣れた手つきでシェイカーを振る。

 店内は男女が半々くらい。壁際のピアノには白服の演奏者が座って歌手を待っている。やがて赤毛の小柄な青年が舞台に上がり、コツコツとマイクを叩く。キーンと耳鳴りのような音がして、マイクを調整した彼は少し咳払い、演奏者と目を合わせて拍子をとって、歌い始める。曲目はジャック・ブレルの『La Fanette』、情緒的な伴奏に合わせてガラスのように澄んだ声が歌う。僕はカウンターに頬杖ついて聞き惚れる。ここしばらくの鬱憤が拭き払われるように心地いい。波のようなピアノの音が僕の足元を濡らして過ぎる。夏の浜辺にいるみたいだ。歌詞は失恋した男の歌だけど。去っていく好きな子を見送る男の歌、だけど。

 曲が終わってばらばらの拍手が起こる。僕はバーテンダーに差し出されたグラスを傾けながらそれを聞く。チョコレートを溶かしたモーツァルトリキュールはひどく甘く、喉に蕩けていくみたい。セデュの好きそうな味だ。今度あいつを誘ってもいいかもな。

 曲は『Madeleine』に移っている。軽快な演奏に跳ねるようなクリスタルボイスだ。なかなかいい喉をしてる。僕好みだ。素人には難解な箇所も難なく歌いこなしてる。歌い終わってさっきよりも大きな拍手が湧く。僕は次はストレートのカルヴァドスを頼んで、差し出されるグラス片手に席を立つ。もうちょっと間近で聴きたいと思ったからだ。薄暗い照明で足元はよく見えないけど、舞台の上はスポットライトで輝いている。ああ、いいな、やっぱり音楽はいい。気持ちがリセットされて、シャワーを浴びた後みたいに、清潔になった気分になる。あれ、また間違えた。演奏者は素人なのか、さっきからちょいちょい間違えてる。ノリで胡麻化してるけど、半音ズレた音が鳴る度、歌手がちょっと戸惑ったように奏者に目線を遣る。やりづらいだろうなア、伴奏は完璧じゃないと。せっかくいい声なのに、もったいない――

 奏者が8回目に間違えてとうとう演奏をやめてしまっても、歌手はひとりで歌い続けていた。すばらしい歌手魂だ。覚悟決めたプロって感じだ。すごい。すごいなあ。ぐっとくる。

 近づいてみると、演奏者は怪我でもしているのか、指を抑えて顔を顰めている。これがグダグダな伴奏の理由か。代理を出すほどの余裕もこの店にはないのかな。かわいそう。そんな指でピアノを弾いたら、よけい怪我が悪化するだけだろう。

 考える間に、僕は舞台に上がっていた。ざわざわとどよめく声が遠くでしている。演奏者が驚愕したような顔でこちらを見る。歌手はまだ歌い続けている。ならきちんとした伴奏が、なくっちゃだめだろう!

「ちょっと失礼、」

 ぐっと酒を飲み干してひょいと演奏者の隣に掛けた僕は、歌に合わせて鍵盤に指を躍らせる。さっきまでの伴奏を聴いていたから、だいたいこんな感じだろう。久しぶりのピアノだ。ああ、清々しい。調律もばっちり、音響も申し分なし。歌手の歌声が華やかさを増す。だんだん即興のセッションめいてくる。演奏者ががたりと立ちあがり、慌てたように舞台から降りる。観客のどよめきはもう聞こえない。それどころか、話し声も、グラスの触れ合う音も聞こえない。音楽、音楽だ。 瑞々しい音が次から次へと跳ねて遊ぶ。楽しいなア、やっぱりこれが僕は好きだ。ちゃんと息ができる。もう苦しくない、苦しみなんて何にもない。痛みなんてどこかへいっちゃった。ララ、ラララ…

 ぱっと手を上げるとぽたりと汗が鍵盤に落ちる。夢中になって、どれだけ弾いていたのか定かじゃない。歌手の歌声も同時にぴたりと止まり、一瞬の沈黙の後、割れるような拍手が巻き起こる。耳がキーンとして痛くなるくらいだ。顔を上げるとつかつか近づいてきた歌手が、がっしりと僕の手を握りしめた。


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