第十話
「えーと、あの、大丈夫です! 見苦しいモノをお見せしました…」
「顔色がひどく悪いわ。本当に大丈夫? こちらにいらっしゃいな…」
セデュの奥さんは、変装した僕には気づいていないみたいだ。心配そうな表情で僕を誘導し、廊下の隅にあったベンチに座らせる。
そのまま僕の隣に掛けて僕の手をとり、背中にそっと触れて、宥めるように撫でおろす。
「映画の内容が悪かったのね、すこし刺激が強い作品だったから…」
なんだかひどく繊細な女の子みたいな扱いをされてる。映画のせいで感が昂ぶって、飛び出してきちゃった子みたいな。いやまあ飛び出してきちゃったのは事実だけど。
「もう、平気、ですから、あの…ありがとう、ございました…」
蚊の鳴くような声で言う僕をじっと見つめて、彼女は僕の背中から手を離す。
それでも立ち去ったりはしない。見定めるようにじっとサングラス越しの僕の目を見つめている。鮮やかなブロンドと、綺麗な緑の瞳の理知的な美女が。
「…あなたも、映画を観に? …」
僕は彼女に話しかけていた。気を紛らわせたかったせいだろうか。それとも、彼女と、セデュの話がしたかったせい?
「…ええ。元旦那の映画ですから」
あっさりと彼女は白状する。どこか誇らしそうに、懐かしそうに目を細めて。
「旦那様って、セデュイールの…」
「そう。ヴァルモン子爵役の俳優よ。もう2年も前に別れちゃったけど」
「よく、観られるんですか。その、レヴォネ氏の映画は…」
「仕事柄ね。それに、べつに憎みあって別れたわけでもないですし」
悪戯っぽく笑いながら彼女は話す。ゆきずりの子に、内緒話をうちあけるみたいにして。
「お仕事、されてるんですか…」
「配給会社をやってます。フェリシア・ボアよ。どうぞよろしく」
彼女は胸ポケットから名刺を取り出し僕に差し出す。ピンク色のネイルが指先を綺麗に彩っている。ぼんやりと受け取る僕ににこりと笑って、彼女は赤い口紅をくっきりと塗った唇を開く。
「あのひとの仕事の役に立てるかもしれないと思って、始めたのよ。別れてもあのひとと繋がっていられるのは、嬉しいから」
「…まだ、好きなん、ですか…」
「…そうね、あのひと以上の男の人とは、今後も巡り合えないと思うわ」
どこか達観したように言う。そんなに好きなのに、このひとはセデュと別れたんだ。たぶんきっと、僕のせいで。
円満離婚だったって、セデュから聞いただけだから、彼女との間にどんな話し合いがあったのか、僕は知らない。彼女がセデュを恨んだり憎んだりしていないのは喜ばしいことだと思うけど、…同時に、またモヤモヤの種がひとつ増えた感じだ。
仕事で彼女とまだ付き合いがあるなんて、セデュは一言も言ってなかったぞ。なんだあいつ、隠してたのか? 僕がヤキモチ焼くと思って? モヤモヤイライラすると思って? なんだよ、後ろめたいことがないなら隠すなよなあ! 余計にモヤモヤイライラするっての!
「別れたことに、後悔、してますか…」
モヤイラついでに、余計なことを僕は彼女に聞いていた。こんなこと聞いたって彼女を困らせるだけだろうに。
「…仕方のない事だったから。あのひとは私によくしてくれたわ。5年間の結婚生活、とても誠実でいてくれた。最後はちょっと、ごたついちゃったけど」
「……」
「それも仕方のない事なんだって、今なら理解できるの。あのひとはずっと苦しんでいたのよね。それを私が、…。ひとを矯正できるなんて、思い上がっていたの。だからダメになっちゃったのよ。もっと、あのひとのために何かできるんじゃないかって、思ったこともあったけど…あのひとはそれを必要としなかった。それだけのことなのよ」
「矯、正…?」
「この話、あなたにはまだ早かったかしら。ごめんなさいね、忘れて」
彼女を眉尻を下げて困ったように笑う。その笑い方がなんだか、僕を宥めるときのセデュみたいだ。夫婦って似るって言うもんなア、5年も連れ添ったんだもんなアって思いが募る。
…ダイアナとはまた違う部分で、厳然たる事実がちくちく胸を刺す。
彼女は20代のセデュを知ってる。僕の離れていた間のセデュを。ボクがスクリーンでしか観たことのない、初々しくて瑞々しい、まっすぐな若木みたいなセデュを。
奥さんだったんだから当然だ。僕の見たことのないような表情も、たくさん見てきたことだろう。
…それならもういっそ、開き直って、いろいろ聞き出してみようかな。セデュがどんな風な日々を、奥さんと歩んできたのか、とか。僕の、セデュに会うまでの真っ黒の20代前半とは比べるべくもない、眩しい光輝を放っているはずの、セデュの青春時代を。
「レヴォネ氏とは、どんな生活、されてたんですか…」
「あら、あなた、あのひとのファンだった? 夢を壊すようなことを言ったわね、ごめんなさい」
「いいんです、それは、もう…スキャンダルも、出ちゃってますし」
例の話に水を向けると彼女の表情は少し硬くなる。やっぱり思うところがあるんだ。まだ好きだって言っていたんだから、当然か。
「アレね、わたしはちょっと違和感があるのよね。辻褄が合わないと言うか…」
「…辻褄?」
「ううん、これも多分嫉妬ね。変わってしまったあのひとを受け入れられない私のせい…ひとは変わるものだもの。付き合う相手によって、様々に」
「あなたといた頃のレヴォネ氏とは、変わったってことですか?」
「それは間違いないわね。あんまり、あのひとの事情は話せないのですけど…」
「わたしは、ただのファンなので! すぐに忘れますから! 気にしないで、言いたいこと言っちゃってください!」
まだなにか抱えている様子の彼女にそう促すと、驚いたように僕を見てから彼女は堪えきれない風に笑う。なんだろう、おかしなことを言ってしまっただろうか?
「言いたいこと、言いたいことかあ。なにかしらね。まああのひとが、…あまりよくない筋の子とお付き合いをし始めてから、変わってしまったのは確実だわ」
「良くないって言うと…」
「具体的にはちょっとね、とにかく、あのひとが相手に影響されるタイプだったっていうのは、見抜けなかった私のミスね。あのひとはもっと、…何というか、孤高の存在なんだって、思い込んでいたの」
「それは…」
「あのひとがあの子と別れたことを、私は祝福しないといけないわね。だってどう考えたって…あのひとの明るい未来のためには、今の彼女が相応しいのでしょうし」
振り切るように言って彼女は立ち上がる。たぶんまだセデュのことを好きなのに、ダイアナとの仲を祝福するなんて言う。それが相応しいんだって。セデュの明るい未来のためだって。
「悔しくないんですか、あのひとと、元に戻りたいとか、思いませんか…」
「思わないわね。私は私の道を歩いているから。またあのひとの道と交差することがあったらそのときは――逃すつもりはないけどね」
彼女はハッキリとそう言って、なんの憂いもないかのように、鮮やかに笑う。
「――気分がすぐれないなら病院に行ったほうがいいわね。行き方はわかる?」
「連れがいるので、大丈夫です…」
「そう。よかった。じゃあ私はこれで。席に戻るわ。元旦那の活躍を、見届けなくっちゃね」
ひらりと手を振って座席に戻っていく。本当に、ただ僕のことが心配で傍にいてくれただけなんだろう。なんていいひとだ、美人で、良い匂いがして、優しくて、思いやりがあって、…頭が良くて、自立していて、それで、セデュを心から愛している。
だから手を離したんだ。ぜんぶセデュのためだ。ただ彼の幸せを願っているんだ。愛するってそういうことだ。
――セデュの明るい未来かア。僕と一緒にいたんじゃ、それは望めないってことなんだろうな。うん、わかるよ。そんなの当然だよな。公にできない男の愛人なんて、それも汚い過去持ちの、男娼まがいなんて、何の価値があるかってことだよ。
――うるせえ、そんなの知ったことか。僕はセデュと別れない! セデュがダイアナとセフレだろーが、元奥さんと頻繁に会ってようが、どうだっていい! どうだっていいんだ! セデュが僕を拒絶するまで、別れてなんかやらないんだからなー!!
…こんなふうに考えるなんて、僕の想いはもう愛ってやつじゃないのかもしれない。ただの醜い、執着なのかもしれない、けど。




