(2)
昼とも夜ともつかない時刻。薄暗い部屋の中で、目が覚めた。
昨日の出来事が、まだよく頭に入っていない。
俺は一度死んで、女の体で生き返った。
鏡で確かめてみたが、記憶にある自分の姿とは似ても似つかない、少女の姿だった。
これが自分の姿などとは、到底信じられなかった。
記憶もまだ不完全で、自分が何者であったのかも、まだあまりよく思い出せない。
体もまだ思うようには動かせない。
昨日何度も練習して、なんとかベッドから上半身を起こすことは出来るようになった。
だが起き上がったところで、何からすればいいのかよくわからない。
自分は一体誰なのか? どうしてこんなところにいるのか?
これからいったい、何をすればいいのか……
途方にくれていると、部屋の明かりが点けられ、医者が入ってきた。
「もう、起きていたのですか? 早起きですね」
そう言いながら、医者は俺の頭を撫でた。
イラスト:もりや あこ さま
「先生、止めて下さい。俺は子供じゃありません」
「ああ、すみません。泣いているように見えたので」
「泣いてなんかいません」
「そうですか? まぁそれはおいておいて、記録によれば赤ちゃんには、こうしてスキンシップをすることで、早く成長するのだそうです」
「俺は赤ちゃんでは、ありません」
「そうですね。でもその体はまだ生まれたばかりの、赤ちゃんと同じなんですよ。なにしろ蘇生したばかりですからね」
確かに先生の言うとおり、今朝も起きて顔でも洗おうかと思ったのだが、ベッドから上半身を起こすのが精一杯で、それ以上となると体が思うように動かず、また平衡感覚もおかしいらしくて、ベッドから降りるのが怖かったのだ。ナースコールでもしようと思ったところに、先生がやってきて、頭を撫でられたのだった。
「あの、先生? 俺の体、そんなに酷い状態だったんでしょうか?」
「聞きたいですか? でも言ったら多分、気絶しちゃうと思いますよ。女の子の場合はね。記録ではそういう例が多いようですから」
「俺は女の子ではないし、大抵のことは経験がありますから」
EVA作業で、仲間の死を経験することは珍しくも無い。俺の親父だって、宇宙塵にやられて……あれは酷い有様だった。
それが思い出せたということは、少しずつ記憶も回復しつつあるのだろう。
だが、医者は思わせぶりな笑顔をしたかと思うと、急にまじめな顔になって言った。
「イヴさんは、精神的に大きなストレスを感じている筈です。医者としてはお聞かせするには躊躇われます。それに、そのことを知ったからといって、イヴさんの今後に何かしらの違いがあるということは無いでしょう? 知らないほうが良い事もあるというものです」
「その“イヴさん”って言うの、止めて下さい。俺にはちゃんと……」
言いかけて俺は重大なことに気がついた。俺の、俺の名前はなんだっけ……?
混乱してパニックになりかけた俺を、医者は慌てたように、ベッドに寝かしつけた。
「あまり急に過去を思い出そうとしないほうがいいですよ。まだ目覚めてから一日も経っていないことになります。今朝もまだ起きたばかりでしょう?」
「せ、先生……。俺……」
「気を落ち着けて、ゆっくり横になって。あなたは長い間眠り続けていたのです。記憶がかなり欠落しているか、思い出せなくなっているものと思われます。無理に思い出そうとすると、パニックを起こしますから。僕はずっとここにいます。安心して、何も思い出そうとせずに、今と、これからの話だけをしましょう」
先生はそう言いながら、乱れた診察衣の胸元を直して、毛布をかけられた。
「先生、俺は……」
「あなたは、イヴ。仮に私がそう名づけました。スペースコロニー“エデン”のイヴ。名前が気に入らなければ、後でゆっくり考えましょう。もちろん思い出した名前でもかまいません。今のあなたは、14歳から17歳位の少女の体です。残念なことに、あなたはオリジナルの体と、多分記憶の殆どを失っています。僕の希望としては、あなたは生まれ変わったのだと思って、新しい体と環境に、早く慣れていただきたいと思っています」
そういいながら、医者は俺の頭を優しく撫でながら、囁くように言った。
それを聞いているうちに、なんだかとても悲しくなって、俺は不覚にも泣き出してしまった。体の方もさることながら、感情もうまくコントロールできないようだった。
頭を撫でられ、囁くような口調で言葉を掛けられているうちに、俺はわんわんと泣き出し始め、そして泣き疲れて眠ってしまった。
☆彡
「あ、起きましたか? お腹空いていませんか?」
ふと目覚めると、医者の顔が目の前にあって、そんなことを言った。
言われてみれば、少し空いたような……。
「じゃあ、体をゆっくりと起こして、これを口に含んでください」
背中を支えられながら、ベッドから体を起こすと、医者は持ってきたトレイの上の皿から、銀色の柄のスプーンを使って、クリーム色のものをすくった。
そして差し出されるままにスプーンを咥えると、柔らかくて少ししょっぱい味がした。
流動食のようなものだろうか?
「まだ、普通の食事は無理です。なにしろ、これはあなたの体にとっては、初めての食事なんですから。消化器官が慣れてきたら、普通の食事も摂れるようになります。それまではこれで我慢してください」
何度か口にスプーンを運ばれながら、俺はうなずいた。
「あの、もう自分でやりますから……」
まるで、赤ん坊みたいに餌付けされているのが、恥ずかしくなって俺はそういった。
「そうですか? でも、まだスプーンを使うのは難しいと思いますが、やってみます?」
俺は医者からトレイの上の皿に盛られた、柔らかいペースト状の食事と、スプーンを受け取った。
だが医者が言うように、スプーンの柄を弱弱しく握るのが精一杯で、皿の上のものを丁寧にすくうなんて事は、かなり難しかった。
「まだ、リハビリも始めていませんから、気にすることはありませんよ。そうだ、多分ストローなら使えるでしょう。とってきますから、ちょっと待っていてください」
俺はペースト食を膝の上に置いたまま、一人部屋に残された。
他人のいない部屋とは、本当にそっけなく冷たい感じがする。
一人暮らしにも、何も無い真っ暗闇の宇宙空間にだって慣れていたはずなのに、今この部屋に一人でいることが、不安で寂しくて仕方が無い。
視界が滲みかけてきたと思ったら、ドアが開き、先生が入ってきた。
「すみません。お待たせしました。在庫が無かったので、作っていたら時間が……寂しくて泣いちゃいました?」
「な、泣いてなんかいません! 先生、俺を赤ん坊扱いするのは止めて下さい」
「すみません。でも、先ほども言ったように、あなたの体は、まだ赤ちゃんと同じなんです。記録によれば、人間の記憶や感情は、脳からだけ生み出されているわけではなく、体全体もその一部を担っているそうです。だからあなたの扱いを赤ちゃんと同じ様にすることは、理にかなっています。恥ずかしがったりせずに、今は受け入れてください。今までもその方が、うまく行く事が多かったですから」
医者が言うとおり、相手は専門家だ。早く自分の思うとおりに動けるようになるには、言うとおりにするしかないだろう。
「先生は、今までにも俺みたいな患者を?」
「そうですね、何人も見てきました。でも、あなたはかなり良いほうです。目覚めてから直ぐに、こうして会話も出来るし、食事も出来る。覚醒してもほとんど無反応で、本当に意識があるのかすら、わからないようなケースも、何度もありましたから」
そういって、ものすごく寂しそうな顔をした。
「せ、先生。早くストローをください。お腹が空いちゃいました」
「あ、そうですね。ごめんなさい、どうぞ。コップも持ってきました、お皿からよりはその方が飲みやすいでしょう。お湯を少し足したほうがいいかな」
医者は俺の膝の上のトレイからペーストをとり、コップに移し換えると、湯を少し足してかき混ぜ、ストローを刺して手渡してくれた。
「コップ、しっかり持てますか?」
「大丈夫です。哺乳瓶にママのおっぱいなんてのじゃなくて、良かったです」
俺は努めて明るく言うと、医者も『あいにくと哺乳瓶も母乳も在庫が無くて』などと、笑いながら言った。




