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勘違いは、だれ?

 言葉どおりだとすると、僕の人差し指の先端はトリエステに触れているらしい。

 しかし、僕の指先からそんな感触は伝わってこなかった。

 一体何を考えているんだ。どうしてすぐバレるウソをつくんだ。

 だが、一連の声の調子からすると、事実をそのまま伝えているようにも聞こえた。

 言葉の裏に何か隠されているのだろうか。

 考えようとしたところで、やめた。時間がもったいない。

「ほんとに、僕の手なの?」

 思ったことを口にした。

 すると、僕でも知っていることわざが返ってきた。

「百聞は一見にしかず」

「なるほどね。たしかに、そっちのほうがはやいし、間違いない」

 僕はゆっくりと目を開けた。

 別に期待していたわけではない。でも、がっかりした。

 そこにあったのは、さきほどと同じ世界だったからだ。

 僕は言葉を選んでから言った。

「僕の手は、動いていないような気がするんだけどね」

 なぜか、ヒステリックな声が返ってきた。

「これがあなたの指でないというのなら、何なの、これは」

 と言われても、僕に自覚がない以上、トリエステの勘違いと思うしかない。

 相手を傷つけずに納得させる言葉がないか考えてみた。

「もしそうだとしたら」僕はやわらかい声で言った。「どうして僕の手が見えないんだろうね」そのあと、反応をみるために訊ねた。「僕の視界の中に自分の手がないという状態が何を意味するかは、理解できるよね」

 しばらくしてトリエステが慎重な口調で、反対意見を言った。

「こういうふうには考えられないかしら。体が動かなくなっただけではない。他のいろんな機能も失われている」

 僕にとってそれは残酷な言葉だった。しかし冷静に考えてみると、その可能性は高い。 読経はとっくの昔に終わっている。視界が白く見えるのは、たぶん白い布のせい。

「そうだね、君の言うとおりかもしれないね」

 とりあえず、そう答えてから、もう一度視界の中を見回した。

 しかし、いくら目を凝らしても、何も見えなかった。

 僕はそこで考え方を変えることにした。

 僕の指は、間違いなくトリエステに届いている。

 とすれば、ごく僅かな確率かもしれないが、元の世界に戻れる可能性がある。

 ある言葉を思い出した。

 死ぬ気でやれば、人生に不可能はない。

 そこで僕は、自分に問いかけた。

 やり残したことはないか。

 自分の可能性について考えたことはあったか。

 元の世界に戻ることができれば、どんなことをやりたいか。

 結論はすぐ出た。

 このまま深呼吸を続ければいいの?

 いつ、君の名前を呼べばいいの?

 大声の方が良いの?

 質問を浴びせかけようとしたところで、思いとどまった。

 パソコンソフトが出した裏付けのない言葉に必死でしがみつこうとしている哀れな男の姿が、脳裏をかすめたような気がしたからだ。

 人生の最後を、そんなかたちで迎えたくはない。

 気になることがあった僕は、十年前の記憶を呼び出すことにした。

 トリエステを触った指を確認するためだ。

 数秒ほどで、その場面が映像として脳裏によみがえってきた。


 プロトタイプのパソコンにかかわる質問をしようとしたとき、店のスタッフが「店長、本社から電話が入っています」と言った。

「ちょっと失礼します」

 店長は、片手を上げてレジの奥へ消えた。

 僕は腰をかがめて、机の上にあごをのせた。

 僕の目の前には、まだ名前も知らない頃のトリエステ。

「数千万円なんだってね。残念ながら、そんなふうには見えないよ」

 そんなことをつぶやきながら、僕は右手の人差し指で、ノートパソコンを触った。


 そこで僕は、トリエステの言葉の中に重大な矛盾点があるのに気づいた。

 いま僕は真上を向いている。僕は体を動かすことができない。もちろん顔も。

 僕の視界の中にトリエステはいない。しかし、どこにいるかは分かる。僕の左側。耳から数十センチ離れたところ。 

 僕は質問の趣旨を悟られないように、軽い口調で訊ねた。

「君に触れているのは、僕の右手の人差し指だったよね」

「もちろんよ」

 トリエステは嬉しそうな声で答えた。

 となると、くどいようだが、さっきの言葉を繰り返さなければならない。

「だとすると、自分の右手が、見えていなければならないんだけどね……」

 トリエステが自分の勘違いに気づくことを願って、わざと語尾を濁して言った。

 しかしトリエステは、本当に分からないというような甲高い声で「どうして?」と言った。

 位置関係を理解するプログラムが入っていないのかもしれない。そんな感じがした僕は、幼児に説明するような気持ちで答えた。

「君がいるのは僕の左側。仮に腕が動いたとしても、僕の右手は君まで届かない。せいぜい自分の耳を摘まむぐらい。だって、僕の肩が上がらないわけだからね」

 じゃあ、私の勘違いなのね。あなたの指だと思ったのは、気のせいだったのね。

 そんな言葉を予想した。

 きっと、僕を思ってくれる気持ちがそうさせたんだよ。ありがとう。

 と言うつもりでいた。

 しかし、返ってきたのは思ってもいない言葉。

「なあんだ」トリエステは、ほっとしたような声で言った。「だから、会話が噛み合わなかったのね。私、あなたの真正面にいるわよ。さっきからずーっと」

 真正面?

 思わずトリエステの言葉を繰り返した。

 意味が分からなかった僕は、目を見開いた。そして、目玉がうごく範囲をじっくり確認してから口を開いた。

「僕の目の前にあるのは、白い空間だけなんだ」と言ってから、とどめのセリフを吐いた。「つまり、君は間違っている。その証拠に、君の声は左側から聞こえてくる」

 だが、またしても予想外の言葉が返ってきた。

「ずいぶん思い込みの強い性格なのね、あなたって人は」

 からかっている声ではなかった。心配そうな口調だった。僕を気遣っているのなら嬉しい。感謝の言葉を言いたい。でも、トリエステの勘違いを正す方が先。

 そのことを言おうとする僕を制するように、トリエステが言った。

「いま、何が見えているの? 教えて」

 勢いに押された恰好になった僕は即答した。

「ああいいよ。見えているのは、僕の鼻先、そんなに高くはないんだけどね……」

 と言ったところで、愕然となった。

 さきほどまで見えていた自分の鼻先が消えていた。

「どうしたの? だいじょうぶなの?」

 僕を気遣うその声は、目の前の空間から聞こえていた。 


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