何かのはじまり
それからトリエステは、僕が予想していたとおりの言葉を口にした。
「だから、あの日と同じようにやってほしいの」
僕は、ふたつの答を用意しておいた。
イエスとノーだ。
どちらを選ぶかは、トリエステ次第。
確認したいことがあった僕は、単刀直入に切り出した。
「君は、どうなるの?」
不意を突かれたのか、トリエステは、すこし驚いたような声で言った。
「私が、ってどういうこと?」
「元の世界に戻れるのは、僕だけじゃないよね」
はっきり聞こえているはずなのに、はぐらかすような声が返ってきた。
「ちょっと、聞き取りにくいんだけど……」
やっぱりそうか。
僕は、思っていたことを言った。
「君と離ればなれになるのなら、何もやらない。何もしないで天命を待つ」
本気だった。
「どうしてそんなことを言うの? 私たち、永遠に一緒だって言ったでしょ」
トリエステは、ちょっとあわてたような声で、そう答えた。
「もし君が犠牲になって、僕を助けようと思っているのなら、君のアイデアには乗らないよ」
念を押すと、トリエステは、クスッと笑った。
「その逆だったら、いいの?」
トリエステらしい言葉に、僕は笑いながら答えた。
「もちろん」
僕はそっと目を閉じた。
そして、肺の中の空気をすべて吐き出してから、ゆっくりと息を吸った。
深呼吸を数回繰り返すうちに、あることに気がついた。
空間をふわふわ漂っていると思っていたが、僕の体は宙の一点にガシッと固定されているようだった。
でも、そんなことはどうでもいい。心の中を空っぽにしよう。
丹田に気を集中させよとしたとき、トリエステの声が聞こえてきた。
「どう?」
僕の手が動くかどうかを訊いてきたらしい。
僕は薄目を開けた。
何も変わらなかった。何も見えなかった。
「できることなら」と僕は言った。「すこしのあいだ黙っていて欲しいんだ。意識を集中させたいんだよ」
「でもね」トリエステは甘えたような声で言った。「急にあなたとの距離が縮まったような気がしたの」
たぶん僕に気を使って、そんなことを言ったのだろう。励ます意味もあったのかもしれない。
でも、いまの僕にとって、君の声は逆効果なんだ。
と心の中でつぶやいてから、話を合わせることにした。
「実を言うと、僕もそう思っていたところなんだ。もうすこしで手が動き出すはずだよ」
そして再び目を閉じて何回か深呼吸をしたところで、トリエステが言った。
「いま、触れたわ」
つぶやくような声は、もちろん聞こえた。
でも、僕は目を開かなかった。聞き流すことにした。
マグロは泳ぐのをやめると死ぬらしい。トリエステの場合、音声を発するのをやめると、電子回路に異常が発生するのかもしれない。
と思うことで、苛立ちを抑えた。
僕に残された時間は、ほとんどない。
深呼吸をつづけようとすると、またしても邪魔が入った。
「不思議なものね」
これまで聞いたことがないような感慨深げな声だった。でも、芝居がかったものではなさそうだった。
完全にやる気が失せた僕は、自分の心境を素直に伝えることにした。
「まったく、もう」
わざと声に出して、そう言ったあと、思いっきり不機嫌な声で質問した。
「何が不思議なの?」
「いまあなたが触っているところよ。最初のあの日と、まったく同じところなの」




