トリエステが確認したかったこと
そのジョークに対する怒りはなかった。
ああ、これでもう、自分の人生は終わったと思っただけだった。
世の中には、誰にも看取られずにあの世に旅立つ人間もいる。
でも僕の傍には、出来損ないの会話機能を持ったパソコンがいる。
平均寿命よりはるかに短い人生だった。体は動かなくなったが、最後の最後まで喜怒哀楽を言葉で表すことができた。それだけでも僕は幸せ者。
そう思ったからなのか、心が軽くなった。
「じゃあ、よろしく頼む。で、僕はどうすればいいの?」
と明るい声で訊いた。
「何もしなくていいの」トリエステは歌うような口調で答えた。「そのままでいいの。そのままで」
「了解」
短く答えた僕は、何もない白い空間に視線を向けた。
しばらくすると、つぶやくような声が聞こえてきた。でも、あまりにも小さくて、よく聞き取れなかった。
視線はそのままにして、耳を澄ませた。
「ウゴク、ウゴク、テガウゴク。ウゴク、ウゴク、ボクノテガ。ホーラ、ホーラ、コンナニウゴク、ホーラ、ホーラ」
なんだよ、これは。
幼稚園の生活発表会のオペレッタでも聞いているような感じがした僕は、思わずちいさく笑ってしまった。
まったく同じ言葉を三回繰り返したところでトリエステが、
「今動いたでしょう」
と言った。
「何が?」
「あなたの手に決まっているじゃない」
そんなわけあるはずない。と思いながらも、視線を自分の胸のあたりに向けた。
僕の鼻先が見えていただけだった。でも、頭に浮かんだウソを口にすることにした。
「まだみたい。でも、なんだか、体の中が熱くなったような気がする」
「分かったわ。もう少しってことね」
口調からすると、僕の言葉を信じたらしい。僕もトリエステに調子を合わせることにした。
「そうだね。あと一踏ん張りかもしれないね」
そのあとも、トリエステは同じ言葉を同じトーンで何度か繰り返した。
もちろん、何ごとも起こらなかった。
でもそれは最初から分かっていたこと。僕はトリエステの声を聞きながら、透きとおるような空間をぼんやりと眺めつづけた。
「ウゴク、ウゴク、テガウゴク。ウゴク、ウゴク、ボクノテガ。ホーラ、ホーラ、コンナニウゴク、ホーラ、ホーラ」
気がついたら、トリエステの声に合わせて口ずさんでいた。
「ねえ、覚えている?」突然トリエステが言った。「ふやけたパスタが、焼き鳥の竹串みたいになったときのことを」
パスタ?
焼き鳥の竹串?
頭の中に何もなかった僕は記憶を辿った。
しばらくして思い出した。
僕がつまらない例え話をしたときのことを言っているらしい。しかし、あのときは思いつきを口にしただけだったから、細かいところまでは覚えていなかった。
「幻の焼酎の予約電話が、ぜんぜん繋がらないときだったよね」と僕は言った。「サハラ砂漠の上空から落とした針が、どうのこうのと言ったとき、そんな話がでたよね」
「そうよ、そう」トリエステは嬉しそうな声で言った。「じゃあ、私が『今なら電話が繋がる』って言ったのも覚えているわよね」
その言葉で、あの時の会話のすべてがよみがえってきた。
「もちろん覚えているよ。そのあと君は、今僕の運命の扉が大きく開いているとも言った。リダイヤルボタンを押したら、ほんとに電話が繋がった」
「よかった」トリエステは、ほっとしたようなため息をついた。それからすこしゆっくりとした口調でつづけた。
「確認したいのは、その少し前のことなの。私が『いま何をしたの?』って訊いたとき、何と答えたか覚えているかどうかなの」
トリエステがこのあと、どんなことをいうつもりなのか分かった。でも僕は、それには触れずに質問にだけ答えた。
「確か僕はこう答えたと思う。『何もしていない。深呼吸をしただけ』ってね」
トリエステはしばらく間を置いてから「実をいうとね」と言った。
「あのとき、ふと思ったの。あなたの運命の扉が開いたのは、深呼吸のおかげなのかもしれないって」




