土壇場で閃いたこと
しばらくすると、遠慮がちな声が聞こえてきた。
「今、何を考えているの?」
「何も」と僕は答えた、本当に何も考えていなかった。「どうして、そんなことを訊くの?」
「元の世界に戻りたいと思っているんじゃないかと……」
僕に気を使ったのか、トリエステは語尾を濁した。
今さら恰好をつけても始まらない。僕は正直に話した。
「さっきまでは、たしかにそう思っていた。でも、もう諦めた」
「あら」トリエステは少し驚いたような声を出した。「あなたって、諦めが早いタイプだったの?」
自分がどんな性格だったか考えてみた。
しかし、それを一言で言い表すような言葉が見つからなかった。というより、僕には個性なんてものは、なにひとつなかったような気がした。
「どっちつかずの性格かな。何も考えずに突っ走ったこともあるし、ぜんぜん動かないこともあった。かと思えば、一瞬で、それまでとは正反対の考えを持つようになったこともあった」
「どんなときに?」
「映像会社を立ち上げる約束が反故にされたときが、そうだった」
「あ、それ知っている。デスクトップパソコンの引き渡し日に、友達がアメリカに行っちゃった日のことね」
トリエステにこの話はしていない。どうやらこれも寝言でしゃべったらしい。
「そう、あのときも気持ちをスパッと切りかえた。予約していたビデオカメラは、違約金を払ってキャンセルしたし、刷り上がったばかりの名刺はゴミ箱に捨てた。会社設立なんて二度と考えないことにした」
「そんなに簡単に切りかえられるものなの? 映像会社は長年の夢だったんでしょう?」
トリエステは、呆れたような声で言った。
「努力しても報われないとき、神様が、こう言ったと思うようにしているんだ。『お前の道はこれじゃない。お前には別の道がある』ってね。映像会社はできなかったけど、三年ぐらい何もしないで食べていけるだけの預金が残った」
するとトリエステは、少しおどけたような声で、
「まさか、あなたの口から神様という言葉が出てくるとは思わなかったわ」と言ったあと、口調を皮肉めいたものに変えた。「あなたの知っている神様って、意地悪なのね」
「どこが?」
「だって、どの道を行けばいいかは教えてくれないんでしょう?」
確かに一理ある。
「でもそのほうがありがたいと思うよ。だって、神様の言うとおりの道を進んでも面白くも何ともないからね。自分の道は自分で探す。それが僕の人生」
するとトリエステは、深いため息をついた。
「でも、あなたの人生は、もう終わった」
その言葉が、僕の何かを引っ掻いた。
「終わっちゃいない」自分でも驚くほどの大きな声だった。「だって今、僕は、ある意味生きている。これから別の生き方が始まると思うんだ。輪廻転生というものがあるかもしれないし……」
裏付けのない話に、言葉が続かなかった。
「あらっ?」トリエステが何かに気づいたような声で言った。「急に静かになったみたい」
耳を澄ますと、辺りは静寂に包まれていた。
僕が葬儀に参列したのは一度だけ。幼稚園に上がる前の祖父の葬式。
そのときの記憶は、ほとんど残っていない。でもテレビや映画で何度か見たことがある。葬儀の流れは大体知っていた。
焼香は終わった。もうすぐ出棺。これから僕の亡骸は、火葬場に向かう。
そこで、ある閃きが浮かんだ。
「もしかすると」と僕は言った。「ここは待合室かもしれないね」
「どう言う意味?」
「もうすぐ僕たちの真下から、煙が上がってくると思うんだ」
「煙?」
「火葬場の煙突から立ちのぼる煙のことだよ。その煙に包まれて、あの世に向かうんだ。それは僕だけじゃなくって、亡くなったすべての人に当てはまると思うんだ」
言った後から、後悔した。
(冗談を言うのなら、もっと笑えるジョークを考えてよ)
そんな突っ込みがくると思った。
しかしトリエステは、思ってもいなかったことを口にした。
「面白い。今のは自分で考えたの?」
意外な言葉に戸惑いながら僕は言った。
「僕が考えつくくらいだから、誰でも思いつくことなんだよ、きっと」
謙遜でもなく本当にそう思った。だがトリエステは、嬉しそうな声で、
「ひょっとすると、学会でも取り上げられるような斬新な考えかもしれないわよ」
と言った。
もちろん僕は否定した。
「そんなことはないと思う。ネット検索すれば、同じような考えがぞろぞろ出てくるはずだよ」
「ネット検索ねぇ」
トリエステはつぶやくように言うと、なぜか黙り込んだ。そしてずいぶん時間が経ってから、明るい声で、
「じゃあ、調べてみればいいじゃない」
と言った。
僕はトリエステの言葉を、頭の中で数回繰り返したあと、ジョークに聞こえるように、声のトーンを上げて言った。
「君は知らないかもしれないけど、ここにはネット回線がないんだ。ざんねんだね、まったく」
するとトリエステは、小さく笑って、
「ワタクシ、ここで検索しろとは申しておりませんけど」
と言った。




