視界からすべてのものが消えた理由
唖然として声も出ない僕の耳に届いたのは、独り言のような声。
「私が、おかしいのかしら、何も見えないんだけど」
同情も憐れみも感じられなかった。はっきり言えば、勝利を確信したような響きが隠れていた。
しかし、考え方を変えると、まだゲーム続行中ともとれる。
死後の世界を認めたくなかった僕は、くどいと言われるのを覚悟で訊ねた。
「ほんとうに、ここは死後の世界なんだよね?」
トリエステは、しんみりとした口調で答えた。
「信じたくない気持ちは分からないでもないわ。私としても、ウソだと言いたいの。でもね、ほんとうのことなの」
気のせいか、わざとらしさが漂っているように聞こえた。
一体ここはどこなんだ。
心の切り替えができなかった僕は、ここは絶対自分の部屋。と心の中で言って、目の前に広がる空間に視線を巡らせた。
しかし、どうみても、僕の部屋ではなかった。いくら目を見開いても、何も見えなかった。
高校生の頃、山中で足元が見えないくらいの深い霧に包まれた経験がある。
しかし、そのときとは次元がまったく違っていた。
無限の彼方まで見通せるような空間に、シミひとつなかった。
光の三原色を混ぜると、白になると聞いたことがある。そのときの白が、こんなふうに見えるのかもしれない。
「ね、何も見えないでしょう。ほんとうに最初から何もなかったの」
同意を求めるような声に、意地でも、そうだねと言いたくなかった。しかし、無視して黙ると、それを認めたことになる。僕は質問を重ねることにした。
「でも、ついさっきまで色んなものが見えていたんだ。僕がここに来てからずいぶん時間が経っていると思うんだけど、どうしてあのタイミングで消えたんだろうね?」
しかしトリエステは困惑気味に、
「どうしてと、言われても……」
と答えただけだった。
確かに今は何もない。それは認める。でも、さっきまではあった。これには何か仕掛けがある。
「いや、間違いなく見えていた」
と言ったところで、カマをかけてやろうと思った。大声で言えば、何かが変わるかもしれない。
「はえとり蜘蛛も動いていたし、蛍光灯のヒモも揺れていた。でも、それが一瞬で消えたんだ。君が何かしたんじゃないの。僕の顔に、何かかぶせたんじゃないの」
僕につられたのか、トリエステも語気を強めた。
「バカなことを言わないでよ。どうして私にそんなことが……」
しかし、そこでなぜか話をやめた。
ラッキーと思った。
出任せで言ったことが、まぐれ当たり。僕の言葉に動揺している。
ということは、白い空間なんてものはない。僕の顔の上に、窓から外したレースカーテンか何かがかかっているだけ。
しかし、よく考えてみると、それはあり得ない。トリエステは動けない。ものを動かすこともできない。
となると、残るのはひとつ。
「やっぱり、催眠術だったんだね」
「違う」トリエステは即座に否定したが、急に口ごもった。「見えていたのは、も、元の世界に、未練が、あるからよ。それが見えなくなったのは、あ、あれよ、あれのせい」
言い逃れの言葉を、必死で探しているとしか考えられなかった。だとしたら、ここで追求の手を緩めるわけにはいかない。
「あれ、って何? 見えなくなった理由が分かっているのなら、はやく教えてよ」
と急かせると、トリエステはしどろもどろになった。
「あれを、な、なんて言うのか、よく、分からないの」
簡単に追い詰めることに成功したと思った僕は、わざと明るい声で、
「よかったら、協力してあげるよ」
と言った。
「ありがとう。でも自分で考える。あれ、の正式名が分からないだけなんだから」
苦し紛れに、あれ、を連発するトリエステがすこし可哀相になった。でも、ゲームとは言え、勝負に情けは無用。
「具体的に言ってもらえば、何とかなるんだけどね。あれだけじゃ、どうしようもない」
親切を装ってさらに追い込みをかけると、トリエステは急に落ちついた声で、
「あの布の正式名は、何と言うのかしら」
と言った。
「布?」
「そう、白い布。お葬式の時、遺体の顔にかぶせるあの布」
裏付けを取る必要はなかった。
今まで気づかなかったが、耳をすますと、かすかな読経の声が聞こえていた。
トリエステの言ったことは、どうやら本当らしい。
声は葬儀場からに決まっている。
不思議なことに戸惑いはなかった。読経のおかげなのか、心が落ち着いてきた。
僕の視界からすべてのものが消えた理由が、なんとなく分かった。
さっき、僕の亡骸に白い布がかけられたのだろう。
納得したからなのか、母親の実家の仏壇が脳裏に浮かんできた。
宗派までは知らないが、うちは代々仏教徒。僕にはどんな戒名が付いたのだろう。
「教えて欲しいんだけど」と僕は言った。「自分の葬式を見ることはできないの?」
「そんなこと、私に分かるはずがないでしょ」
突き放すように言ったトリエステは、すこし反省したような口調で付けくわえた。「見てどうするの?」
「どんな奴が集まっているのか知りたいんだ」
「あのね」トリエステは不機嫌な声で言った。「わざわざ来てくれた人に向かって、どんな奴って言葉は失礼なんじゃないの」
「確かにそうだね」僕は素直に謝った。「でも、僕の葬儀に集まってくる連中は、そんなことぐらいじゃ怒らないと思うよ」
と言ったところで疑問が起きた。
「今こうして君と話をしているけど、火葬の後も会話ができるんだよね」
「さあ、どうでしょう」トリエステは投げ出すような口調で言った。「実を言うと、死後の世界は私も初めてなの。正直言うと、ここがどこかも分からないの」
思ってもいない告白。
目の前が暗くなったような気がした。
「ちょっと、まってくれ」と僕は言った。「どうして死後の世界だと言ったの?」
「悪気はなかったの」トリエステは珍しく可愛い声で言った。「あなたを安心させようと思ったの。でも逆効果だったみたい。ごめんなさい」
「じゃあ」と言ったところで、体の力がいっぺんに抜けた。でも僕はつづけた。
「さっき、元の世界に戻れる可能性の話をしていたけど、あれもそうなの?」
「ピンポーン」
さすがにこれには腹が立った。ここで冗談を言う心理が分からなかった。
「もういい」と僕は言った。「君とは二度と話をしない」
しかしトリエステは、しれっとした口調で返した。
「絶体絶命のときこそ、心に余裕を持つべきよ」
と言われれば「分かった」と言うしかない。




