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視界から消えたもの

 でもここは死後の世界ではない。

 ここは間違いなく僕の部屋。

 蛍光灯のカバーには、相変わらずはえとり蜘蛛が張り付いている。

 でも、今トリエステとの間で行われているのは言葉遊び。

 はえとり蜘蛛を口にするのは、ルール違反。

 僕は頭の中の設定を死後の世界に切りかえて、天井を見上げたまま質問した。

「ここから脱出できる可能性は、何パーセントぐらいなの?」

 だが、トリエステはそれを無視するように言った。

「つまり、元の世界に戻りたいってことなのね」

 とても不機嫌な声。それから、さらに念を押すように付けくわえた。「私と二人っきりは嫌だ、ってことなのね」

 どうしてこんなふうに受け取るのだろう。

 僕は慌てて言った。

「そういうわけじゃない。ただ聞いただけなんだ」

「あ、そう」

 トリエステは、気のない声で言うと、何か考えるように黙った。そしてしばらくすると、

「出ていく行かないは、あなた次第」

 と言った。

 ここでへたなことを言えば、また突っ込みが来る。でも、黙っているわけにはいかない。

 僕は少し考えてから、脱出という言葉を使わないことにした。

「つまり、僕が望めば、君と二人で、ずっとここにいられるわけだね」

 これで機嫌が直った。と思った。しかし、トリエステは意味ありげに言葉を区切って、「ち、が、う」

 と言った。

 どうして? と言おうとしたところで、答えるのが面倒くさくなってきた。

 だって、ここは自分の部屋。二ヶ月分の前家賃は払ってある。言葉遊びをやめたとしても、部屋から追い出される心配はない。

 体が動かないのは解せない。でもそれは時間が解決してくれるはず。

 そんなことを考えている視界の中で、さきほどのはえとり蜘蛛が餌を探すような動作を繰り返していた。

 あの蜘蛛は、何を食べて生きているのだろう。

 ふと、そんなことを思った。

 そういえば、最近ハエを見ていない。この部屋はもちろん、ファミレス、コンビニ、スーパー、ハエがたかりそうな家庭ごみの収集所でも見かけない。

 一月ほど前、報道番組で絶滅危惧種を取り上げていた。嫌われ者の代表選手のハエにも、絶滅の危機が迫っているのかもしれない。ハエが絶滅したら、はえとり蜘蛛は名前を変えなければならないのだろうか。

「ねえ」とトリエステが言った。「何を考えているの?」

 待ちくたびれたような声だった。

 僕はどれぐらい黙っていたのだろう。見ても無駄。時計の針は、三時十九分六秒で止まっている。

 分かっていたが、目玉の運動のつもりで壁時計に目をやった。

 アッ、思わず声が出た。

「どうしたの?」

「と、時計の、文字盤が、ないんだけど……」

 声が震えているのが分かったが、どうしようもなかった。

「時計?」トリエステは感情をおさえたような声で言った。「ここは死後の世界よ。そんなものがあるはずがないでしょ」

「もう、その話はやめようよ」僕は声の震えを隠すために大声でつづけた。「そんなことより、僕の体のことを心配してくれよ」

 言い終わったところで、ある閃きが走った。

 トリエステは、彼女のいない若者のメンタルトレーニングを目的に開発されたパソコン。

 精神の奥底に眠っている潜在能力を引き出すという意味合いを込めて、トリエステという潜水艇の名前をつけた。

 でもソフトは未完成。バグが発生してソフトが暴走。または、誤ったショック療法が入力されている。

 だとすると、すべてのことが納得できる。

 しかし、僕の体が動かないことと、時計の文字盤だけが見えない理由は分からない。

 やはり、トリエステとの会話の中で、気づかないうちに催眠術にかかってしまったのだろうか。

 もしそうだとしたら、僕自身で催眠術を解くしかない。

 会話の中でかけられたのなら、会話の中で解けるはず。こうなればルール違反なんて関係ない。

 僕は文字盤の消えた壁時計を見つめながら言った。

「ここは死後の世界らしいけど、どうして、はえとり蜘蛛が住んでいるんだろうね」

「はえとり蜘蛛?」

 トリエステのひっくり返りそうな声に、あやうく笑い出すところだった。

 痛いところを突かれると、音声が急変する設定になっているのなら、そこを徹底的に攻めてやろう。

 心に余裕ができた僕は、ゆったりとした口調で言った。

「もし蜘蛛が怖いんなら、退治してやってもいいんだけどね。でも、ざんねんながら、僕の体は動かないんだ」

 体を動かせるようになるヒントが出てくるとしたら、ここだ。と思った。

 しかし、その考えは甘すぎた。

「どこにいるの? はえとり蜘蛛は」

 なぜか、落ち着き払った声になっていた。

 僕も負けないように、すこし声を低くした。

「蛍光灯の角に動いているのが、君からも見えているはずだけどね」

 するとトリエステは、不思議そうな声で

「その蛍光灯は、どこにあるのかしら?」

 と言った。

 どうしてこんな往生際の悪い設定になっているのだろう。こんな性格の人間がいたとしたら、旅費を払ってでも見に行きたい。

 僕は、どんな言葉を返せばいいのか考えてみた。

 白を黒。しらを切る。知らんぷり。

 そんな性格の相手を、とっちめる方法があるのだろうか。

 頭をひねっていた僕は、ひょっとすると、すでに勝負はついているのかもしれないと思った。

 やけっぱちになっているんだ。匙を投げたんだ。これはギブアップの言葉。 

 動かぬ証拠を突きつけられて、身動きが取れなくなったトリエステは、とどめの言葉を待っている。

 だとしたら、タイミングを逃してはならない。

 僕は敗者を傷つけない言葉を探しながら目を動かした。

「僕たちの上で光っているのが、それだよ」

 と言おうとして見上げた視線の先には、何もなかった。

 僕がいたのは、白い空間の中だった。


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