トリエステの一言
しばらくすると、それまで聞こえていたざわめきがとつぜん消えた。
唐突に訪れた音のない世界。
だれかが僕の耳の中にもぐりこんで、神経回路の一部を遮断したんじゃないかと思ったほどだった。
しかし、十秒もしないうちに、体の芯がビクンビクンと振動しはじめた。
と同時にざわめきが戻ってきた。
今、蜂蜜がエネルギーに変化しようとしている。切れていた神経回路がつながった。
直感的にそう思った。
最初は調子の悪いエンジンのノッキングのような頼りない振動だった。
酸素が足りないのかもしれない。
僕はしずかに息を吸った。
胸の中の酸素の量が増えるにしたがって、ぎくしゃくした振動は滑らかになった。そして深呼吸を数回繰り返すうちに、体の中心部の振動と、僕の心音が同調するようになった。
つま先がぽかぽかしてきた。温泉に足を浸しているような感じだった。やがてその温もりは、背骨を伝って体の隅々まで広がりはじめた。
僕は思わず目を閉じた。
まるで砂蒸し温泉にいるような気分だった。しかし、いつまでもこの心地よさに浸っているわけにはいかない。
頭の中でカウントダウンを開始した僕は、三十数えたところで目を開けた。
体力はどれくらい快復したのだろう。
胸の前で両手を組んで、指に力を入れた。
握力は完璧に戻っていた。生卵なら握りつぶせるかもしれない。
次は足。
寝転んだままの恰好で足を伸ばした。腹筋に力をいれなくても、両足は軽く持ち上がった。腰を浮かしてブリッジの真似をしてみた。これも難なくクリアーできた。
蜂蜜の持っているポテンシャルの高さと、即効性に驚いた。
「よし、これで大丈夫」
声に出してそう言った。
しかし、こんなときこそ最悪の事態を想定して行動しなければならない。
トリエステのベッドまでなら、全速力で走っても、匍匐前進で行っても時間的に変わらない。それに急に起き上がると、立ちくらみを起こす恐れがある。
腹ばいになった僕は、蜂蜜の蓋を閉めたあと、その上に割り箸を置いた。
「ありがとう、君たち」
助けてもらった礼を言った僕は、体の向きをゆっくり変えた。
ベッドの上のタオルケットに手をかけたとき、罪悪感のようなものを感じた。
まだ僕の心のどこかに、トリエステを人間の女性として取り扱うと誓ったときの思いが残っているらしい。
でも今は充電を最優先に考えるべき。
トリエステのベッドと平行になるように体を横たえた僕は、タオルケットの真ん中を右手の指先でしっかり摘まんだ。
そして、心の中で、イチ、ニ、サンと号令をかけて、天井目がけて放りあげた。
僕の力がよっぽど強かったのか、タオルケットは天井まで飛んだ。そしてそこで一呼吸置くようにしばらくとどまったあと、舞い降りるようにして僕の胸元に落ちてきた。
光が電気エネルギーに変わるまでどれくらいの時間がかかるのだろう。
スリープモードになっているのなら、そろそろ起きろよトリエステ、といえばいいのだろうが、さっきの言葉からすると、眠っているわけではなさそうだ。
だとすれば、ここは待つしかない。
「電力が貯まったら、呼んでくれ。それまで寝ないで待っているから」
返事がくるなんて思ってもいなかった。なのにすぐ声が返ってきた。
「ど、ど、どうしてこんなところに、あなたがいるの?」
信じられないと言ったような口調だった。
「あのさあ」と僕は言った。「君がビックリしたのは分かるけど、できるなら、もう少し喜んだ声が聞きたかったな」
「だ、だ、だって」トリエステは取り乱したような声でつづけた。「こ、こ、ここをどこだと思っているの?」
何を寝ぼけたことを言っているんだ。ここは僕の部屋だろう。
と答えようとして思わず笑ってしまった。と言ってもトリエステに対してではない。正確無比を信条とするコンピューターに、寝ぼけるというソフトを組み込んだ担当者に対してだ。
今のトリエステの言葉にどう答えたら、会話に弾みがつくのだろう。
こ、こ、こ、ここは僕の部屋に、き、き、決まっているだろう。
なんて言ってみたって全然面白くもなさそうだ。
しばらく考えてみたが、気の利いたセリフは浮かんでこなかった。こうなると、しかたない。さっき言おうとした言葉を口にすることにした。
「何を寝ぼけたことを言っているんだ。ここは僕の部屋だろう」
「ち、違う」
「ねえ」と僕は言った。「さっきから君の言葉づかいは変だけど、それはわざとやっているの? それとも僕には理解できないような高等な冗談なの?」
「わ、わ、私、あなたに対して、じ、冗談を言ったことは、い、一度もないわ」
どんな理由があるのかしらない。でも、こんな言葉しか返ってこないのなら、これ以上の会話はお断り。
「あ、そう」僕は軽くいなして、肝心な点だけを質問した。「じゃあ、一体、ここはどこなんだ。グジャグジャ言わずに、一言で答えてくれ」
しばらくの沈黙のあと、トリエステが言った。
「人間世界で言う、死後の世界」




