片目のジャックが消えた冷蔵庫の横で
なるほど、それなら納得ができる。
トリエステに充電用のソーラーシステムが内蔵されているとすれば、充電の必要はない。
電源コードも電池も要らない電子機器はいくらでもある。
僕が使っている計算機も、引き出しに入れっぱなしにしている腕時計もそうだ。おもちゃの中にも、ソーラーエネルギーを使っているものはたくさんある。
強い光は必要ない。室内のあかりで十分だ。
でも、トリエステには受光部のようなものはどこにもなかった。見た目は二つ折りにした金属製の黒い箱。どうやって光を感知しているのだろう。
まてよ。
閃きに似たものを感じた。
本体そのものが受光部だとしたら、どうなる。
発電機能を持った新合金のボディ。あるいは、そのような機能を持った塗料が本体に塗ってあるとしたら。
トリエステの本体は、スマホでいうタッチパネルなのかもしれない。
けっして、荒唐無稽な考えではない。
一昔前まで液晶画面といえば、テレビやパソコンの映像を映しだすだけのものだった。
しかし、今は違う。
スマホは、すべての操作を液晶画面上で行う。
デジカメやビデオカメラの中にも、タッチパネルでピントや露出を調整する機種がある。銀行のATMだってそうだ。
トリエステは、やはり特殊な環境下で作業を行うプロフェッショナルのために開発されたノートパソコンだったのかもしれない。
ロック解除のキーワードに、地球表面で最も深い地点に潜った潜水艇の名前が設定してあるところを見ると、海底での作業も視野に入れてあったのだろう。
海底といえば、水圧。水圧に耐えるのは、やはり金属が一番だろう。
スピーカーはない。なのに、トリエステの声は聞こえる。マイクもない。でも、僕の声を判別する。つまり、これはボディそのものが、スピーカーにもマイクにもなっているという証拠。
だとすると、本体そのものが、ソーラーシステムも兼ねた金属製のタッチパネルというのはあり得る。
と、そこまでは、事件の糸口を掴んだ探偵気分だった。
しかし、トリエステが急に口調を乱した理由を考えようとした瞬間、僕は唖然となった。
そこでやっと、僕は気づいた。
トリエステが、僕以上の危機的状況に陥っていることに。
知らぬこととはいいながら、僕は受光部のほとんどを毛布やタオルケットで覆っていた。
それでもトリエステは、僕との会話をつづけた。
トリエステは、自分のバッテリー残量がほとんどないことに気づいていないのだ。このままだと、トリエステのバッテリーは完璧に空になる。そうなると、再充電できない状態になってしまう恐れがある。
何はともあれ、トリエステを助け出せるのは自分しかいない。
飛び起きようとして、あやうく思いとどまった。
今の僕は、二、三歩歩いたところで倒れてしまう。それから後は一歩も動けない。気持ちだけで、トリエステを助けることはできない。落ち着け落ち着け。
電源のことに気づかなかったことを悔やみながら、僕は少しだけ首を持ち上げて、大声で謝った。
「君の具合が悪くなったのは、タオルケットで君を包んだ僕のせいだ。許してくれ」
しばらく待ったが、何の反応もなかった。
時計に目をやると、さきほどよりぼやけて見えた。
待つ以外に、何か方法はないだろうか。
僕は必死で考えた。
これといったアイデアは何も浮かんでこなかった。
こういう場合、神様に祈るという方法もあるのかもしれない。でも、それは最後の最後までとっておくことにして、ミスダツから聞いたぼやきの効能を試すことにした。
ぼやくことで、問題点がどこにあるのか分かるようになり、解決法が浮かぶことがあるらしい。
誰にどうぼやけばいいのか分からなかったが、やぶれかぶれの僕は天井に向かって言った。
「僕のことを覚えているかな、ワモンゴキブリの片目のジャック君」
返事はないのは分かっていたが、しばらく待った。
「僕は、君がどこに隠れているのか、知っているんだけどね」
バカなことを言っていることは、分かっていた。でも、ここでやめると、虚しさが募りそうだった。
「どれぐらいの子分を従えているんだろうね、今の君は」
そこで僕は、一人の戦国武将の名前を思い出した。
「君は上杉謙信って知っているかい」
十秒ほど待ってからつづけた。
「戦いに強かっただけじゃないんだ。人間味に溢れた人物だったらしい。敵に塩を送った武将として今でも語り継がれている人物なんだ。もし君がゴキブリ界の上杉謙信になりたいのなら、良い方法があるんだけどね」
と言ったところで、僕はあわてて口をつぐんだ。
塩を送る代わりに、ここにある蜂蜜のような栄養価の高い食べ物を僕に送ったらどうだいと言うところだった。
もし、片目のジャックが、お前たち全員蜂蜜を集めてこいと号令をかけたら、僕は無数のゴキブリから口移しで蜂蜜を舐めさせられてしまう。
あぶないあぶない。
こうなれば、時間が来るまで待つしかない。と諦めかけたとき、ある考えが浮かんだ。
蜂蜜の瓶を素手で触らなければ、体温を奪われることはない。
逆さまにした瓶を口元にもってくればいい。体温ではなく、僕が吐く息の温かさで蜂蜜は溶ける。瓶が倒れそうなときは爪の先で支えてやればいい。寝たままでいい。エネルギーはほとんど使わない。
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
僕は体をねじって蜂蜜の瓶を両手で掴んだ。そしてそっとフタをひねった。予想通り簡単に外れた。蜂蜜の甘い香りが部屋中に広がった。
顔を真上に向けて蜂蜜の瓶を口にもっていこうとして、ふと思った。
あのあと片目のジャックは、僕に感謝しながら死んだのかもしれない。
だとすれば、このアイデアは、あのワモンゴキブリが授けてくれた可能性がある。
ゴキブリの世界に天国や地獄があるのかどうか分からないが、さんざん痛めつけられた人間を助けるくらいだから、たぶん天国にいったのだろう。
「ありがとう」僕は天井を見上げたままで言った。「君を思い出したおかげで良い方法を思いついたよ。今僕は、ある事情があって君が消えた冷蔵庫の横にいるんだ。元気になったら、君が消えた場所に供え物をしてあげるよ。毎日は無理だけど、年に何回かは約束する」
明るい声でそう言って、首を横に向けた僕の心臓が停まりそうになった。
うす暗い冷蔵庫の下。片目のジャックが消えたキャスターの裏側から、なにやら光るものが僕を見つめていた。




