連想から妄想へ
僕は毎日のように部屋を掃除する。
ゴミはためない。ゴミ収集日に必ず出す。
年に二回、部屋中の戸棚や引き出しを開けた状態でバルサンを焚く。
しかし、それでもゴキブリは出てくる。
アパートは古いモルタル造り。寒い季節になると、どこからともなく冷たい風が吹き込んでくる。ゴキブリは部屋の天井や、壁の隙間を伝って入ってくるのだろう。
ほとんどはチャバネゴキブリだが、他のゴキブリも見かける。でも、片目のジャック以外のワモンゴキブリを見かけたことはない。
見つけたゴキブリは、その場で退治するようにしている。
小型のゴキブリには、数枚重ねたティッシュを使う。
どういうわけか、僕が睨みつけると、チャバネゴキブリは動きを止める。
そっと近づいてティッシュを軽くかぶせる。くるくる巻きにして、ゴミかごにポイ。
ゴミ収集車に揺られて着いたところは清掃工場。何が起こったのか分からないまま焼却炉の炎に焼かれて、ゴキブリはあの世に直行。
これまで、どれぐらい退治してきたか分からない。
小学校を卒業するまでに捕まえたクマゼミまではいかないとしても、結構な数字になると思う。
僕は間違いなくゴキブリから嫌われている。恨まれている。とても高い濃度で。
僕が睨みつけた瞬間、自分の運命を悟って、
「俺の恨みを、必ず晴らしてくれ!」
と叫んだゴキブリや、スリッパの一撃に吹っ飛ばされた仲間を見て、歯ぎしりしたゴキブリたちもいたかもしれない。
「あいつは親の仇。一族の仇。いつか仇をとってやろうじゃないか。いいか、みんな。力を合わせるんだ。分かったな」
でも、ここしばらくゴキブリの姿を見ていない。
僕が全員返り討ちにしたのだろうか。
歯向かっても無駄と諦めてくれたのならいい。でも、機会がくるのをじっとうかがっているのだとしたら、ヤバい。実にヤバい。
今の僕には、スリッパを握る握力がない。ティッシュを取りに行くエネルギーすらない。
もし彼らが攻めてくるとしたら、どんな攻撃を仕掛けてくるのだろう。
予想はつかないが、考えてみるとゴキブリは昆虫の仲間。僕は基本的に昆虫は怖くない。つまり、どんな攻撃にも耐えられる。
基本的に、と念を押したのは、一匹なら怖くないということだ。部屋を埋め尽くすほどの大軍が攻めてきたら、一目散に逃げる。
しかし、そんなことは起こらない。出てきても数匹。いざとなれば、体を転がしてつぶしてやる。
だが相手が僕の弱点を知っていた場合は、一匹のチャバネゴキブリにさえ負けてしまう。
僕は、くすぐりにめっぽう弱い。
脇の下をくすぐられて、スイッチが入ると、もうダメだ。
3メートルほど離れたところから、くすぐる恰好をされただけで、もだえてしまう。
そうなると、体の力が抜けて、畳の上だろうが土の上だろうが、関係なしに倒れ込んで、息ができないほどに笑い転げてしまうのだ。
首のうしろに、息を吹きかけられても似たような症状を起こす。
一番弱いのは、太ももの内側。
ズボンの裾から忍び込んだ一匹のコオロギに、痛い目にあわされたことがある。
原っぱに寝転んで流れる雲を眺めていたとき、太ももの付け根あたりに違和感を感じた。 気がついたら、ギャーと叫んで飛び上がっていた。たぶん髪の毛は逆立ち、目の玉は飛び出していたはず。
片足でケンケンをしながら、あわててズボンを脱ごうとして、何度も転んで足をすりむいた。
その日以来、野山に出かけるときは、裾の締まったジャージを着るようになった。
しかし、今僕がはいているのは、裾の広いズボン。上は半袖。首にタオルも巻いていない。まったくの無防備。
ゴキブリがその気になれば、首筋、脇の下、太ももの内側のやわらかい部分。僕の体のあらゆる部分を自由に這い回ることができる。
ギャーと叫んだ瞬間、僕のエネルギーは空っぽになる。
体を動かすことも笑うこともできないまま、僕の命は消える。
どうか、今日だけは遭遇しませんように。
そっと部屋の中を見回す僕の脳裏に、片目のジャックの映像が浮かんできた。
深々と頭を下げたときの映像だ。
しばらくその映像を眺めているうちに、ある疑問が湧いてきた。
もし、あれが、見逃すと言った僕へのお礼じゃなかったとしたら、どうなる。
僕にガンを飛ばしていたとすれば、どうなる。
俺に指図をするとは良い度胸をしているじゃないか。でもよぉ、俺を誰だと思ってんだ。お前の顔は絶対に忘れないからな。今に見ていやがれ。十倍返しじゃすまねぇぞ。
怒りで羽が震えていたのかもしれない。
ワモンゴキブリの中には、三年も生きる個体がいるらしい。片目のジャックが、その手のDNAを受け継いでいた可能性は否定できない。
ゴキブリはなんでも食べる。汚水や汚泥を餌にして生き延びることができる。そんな記事を見たことがある。
背筋がゾクッとした。
あのワモンゴキブリが、今でもこの部屋にいるとしたら、一体どこに隠れているのだろう。




