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止まらない連想

 片目のジャックとの出会いは、二年ほど前の金曜日の夜だった。

 レンタルDVDを見終わって、ベッドに向かおうとした僕は、部屋の空気がいつもと違うことに気づいた。

 といっても、異臭がしたわけではない。空気感だ。

 部屋の中に奇妙な緊張感が漂っていた。

 天井の蛍光灯が明々と灯っていたのにもかかわらず、自分が暗闇の中に佇んでいるような錯覚を覚えた。

 なぜそのような心持ちになったのか、見当はついた。

 今見た映画の影響だ。

確かに今日は13日の金曜日。でもここは日本。僕の部屋にチェーンソーをもったジェイソンが隠れているはずがない。

 僕は首をゆっくり回しながら、部屋の中を見回した。

 もちろん、誰もいなかった。

 灯りを消そうとして、ふと思った。 

 もし僕が、ジェイソンだったどうする。

 簡単に発見されるようなところには絶対に隠れない。身を潜めるとしたら、台所の隅。

 いったん頭に浮かんだことは、確かめなければ気がすまない。

 このまま寝たら夢の中にジェイソンが出てくる。僕の体はチェーンソーで切り刻まれて、バラバラにされる。

 僕は、わざとスリッパの音を立てて歩いた。

「そこにいるのは分かっているんだ。出てこい、ジェイソン」

 震える声で言って、流し台の前で首を左右に振った。

 あたりまえだが、ジェイソンはいなかった。

 やれやれ、

 ほっと胸を撫で下ろしたとたん、喉の渇きを覚えた。

(そんなに怖いのなら、ホラー映画なんて借りるなよ。お前にはディズニーのアニメがお似合いだよ)

 自分に突っ込みを入れて、冷蔵庫のドアに手をかけた僕の心臓が、異様な音を立てた。

 冷蔵庫の上にいたのは、今見た映画に出てきた主人公と同じマスクをかぶったゴキブリだった。

 と言えば、大抵の人が笑い出すだろう。

 いくらなんでも、ゴキブリがマスクをかぶることはないだろう。

 たまたまゴキブリにくっついたとしても、どこに売っているんだ、そんなマスクが。

 でも僕には、ホッケーのマスクをかぶっているようにしか見えなかった。

 そんなバカなと思った方は、ワモンゴキブリで検索してほしい。

 28,900件のサイトにヒットする。

 開くのはウエブではなく、画像。

 そうすれば、ワモンゴキブリの画像がわんさと出てくる。

名前の由来は、前胸背板にある黄褐色の紋からきたらしい。それが、僕にはジェイソンのトレードマークのホッケーマスクに見えたのだ。

 残念なのは、ネット上の写真の中に、ワモンゴキブリの顔を、斜め前方からドアップで捉えたものが一枚もないことだ。

 想像力豊かな方は、思い浮かべて欲しい。

 世界的に大ヒットしたホラー映画を見た直後、目の高さにある冷蔵庫の上から、映画の主人公と同じマスクをかぶったゴキブリが、いきなり顔を持ち上げた場面を。

 体感サイズで言えば、そのゴキブリの頭は、人間の生首ほどに見えたのだ。


 ヒッ、

 ひきつった声を上げた僕は、思わず後ろに飛び退いた。

 その正体が分かったのは、十数秒してからだった。

 なんだよ、おい。ワモンゴキブリじゃないか。

 ゴキブリは人を襲わないことを、友人のPに説明するために、日本に住んでいるゴキブリの種類を調べたことがあったのだ。

 落ち着きを取り戻した僕は、冷蔵庫の上からこっちを見ている大型の茶色いゴキブリに呼びかけた。

「お前も運が悪いやつだな」

 ゴキブリは、そのままの恰好で長い触角を揺らしているだけだった。

 僕は相手を見据えたまま、スリッパを脱いで右手に構えた。

「お前がカマキリなら逃がしてやるところだが、そうはいかない」

 ゴキブリの羽が破れ、右目が潰れていることに気づいたのは、右手を振りかぶったときだった。

 ゴキブリの一生。

 脳裏に、そんな文字が浮かんできた。

 体全体がすり切れたこのゴキブリは、オスだろうか、メスだろうか。どんな人生を送ってきたのだろう。ゴキブリにとっての幸せとは、どんなことなんだろう。このゴキブリにも、帰りを待っている家族がいるのだろうか。

 僕の右肩から、力が向けるのが分かった。

「じゃあ、こうしよう」と僕は言った。「お前を見なかったことにする。だから、黙って窓から出て行け」

 僕はパソコンデスクの横の窓を開けた。生ぬるい夜風が僕の顔をなでた。

 振り返ると、やつはまだ同じ場所にいた。よっぽど弱っているらしい。

「そんなからだで、どこから入ってきたんだよ、まったくもう」

 と言いながら僕は、冷蔵庫の横をスリッパの裏で軽く叩いた。

 しかし、恐怖に足がすくんでいるのか、ぴくりとも動かなかった。

 やれやれ、

 僕はその日二回目のため息をついた。

 このゴキブリから見ると、僕はむやみに生き物を殺す殺人鬼。幼い頃、僕に捕まった昆虫たちも、そんな目で僕を見ていたのだろうか。

「じゃあ、こうしよう」

 僕は再び交渉を持ちかけた。

「今夜は何もしない。僕はこのまま寝る。あとはお前の自由に任せる。窓から逃げてもいいし、この部屋にいてもいい。でも、明日の朝一番にバルサンを焚く」

 不思議なことが起きた。

 ゴキブリが、僕に向かってお辞儀をしたのだ。とても威厳に満ちたお辞儀に見えた。

「お前と呼んで、申し訳ありませんでした」

と思わず僕が言ったのは、目の前にいるゴキブリが、ゴキブリ界の最高齢者のような気がしたからだ。

 すると、ゴキブリは羽を小刻みに動かした。

 僕にはそれが、

(固いことは、お互いに抜きにしましょう)

 という意思表示に見えた。

 でも、僕の中には、いまさらお前とは呼べない雰囲気ができ上がっていた。

「わかりました。じゃあ、君と呼ばせていただきます」

 心を切りかえた僕は、ある映画を思い出した。

「君は知らないと思うけど」と僕は言った。「昔見た古い映画で『片目のジャック』というのがあったんだ。内容は忘れたけど、ラストシーンだけは覚えている。愛する女性を残したまま、主人公は後ろを振り向きもせずに砂丘の彼方に去って行くんだ。行く手に何が待っているかも分からないままにね。僕の言う意味が分かるよね、片目のジャック君」

 僕の言葉が分かったのか、ゴキブリはゆっくりと動き始めた。

 冷蔵庫の壁をそろそろと伝って降りた片目のジャックは、僕の足元で、ほんのしばらく停止したあと、冷蔵庫のキャスターの後ろに消えた。

 翌朝、僕はドラッグストアでバルサンを買った。

「自分が言ったことは守るタイプなんだ」僕は冷蔵庫の下を覗きながら言った。「君がここに隠れていないことを祈るよ、片目のジャック君」

 図書館と映画で時間をつぶして、帰ってきたのは夜の八時過ぎ。

 部屋の灯りを点けたあと、懐中電灯で部屋の中を徹底的に点検してみた。

 しかし、どこを探しても、ワモンゴキブリの死骸を発見することはできなかった。

 

 そこまで思い出したところで、時間つぶしにはじめた連想が変な方向に向かいだした。

 もし、今、ゴキブリが現れたら、この僕は一体どうなるのだろう。


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