連想の先の『片目のジャック』
床に寝転んだ僕は天井を見上げながら、これからのことについて考えることにした。
まずは、現状認識。
僕は病人ではない。怪我をした訳でもない。僕は極めて健康。
動けないのは一時的にエネルギーが切れただけ。そのエネルギーは時間の経過と共に次第に満ちてくる。
となると、選択肢はひとつしかない。
何もしないこと。何もしないで、ただひたすら待ち続けること。
了解。
僕はそれを、即座に自分に命令した。
時間がくるまで一眠りしろ。目覚めたころには、蜂蜜は溶けている。カップラーメンを食って、歩けるようになったら、そのまま食べ放題の焼き肉屋に向かえ。そして、たっぷりタレをつけた焼き肉を、腹が破裂する寸前まで食え。
そんな結論に達した僕の脳裏に、余計な映像が浮かんできた。
舌をやけどしそうな脂の乗ったカルビ。しかも、ジュージューという音まで付いている。
反射的に腹がグググと鳴った。生つばが溢れそうになった。
ちょっと、やめてくれ。
僕は首を振った。
今の僕には、拷問にしかならないこの映像を、今すぐ消してくれ。
焼き肉の映像が消えた。
しばらくすると、漢字三文字が浮かんできた。
『遭難者』
これには頷かざるを得ない。
確かに今の僕は、リュックの食料を取りだすこともできないほどに衰弱しきった遭難者。
遭難者に睡眠は厳禁だと聞いたことがある。
そういった状況で眠ると、そのまま死に向かうことになるらしい。今の僕には、それが当てはまりそうだ。
ということは、目をつぶることさえ避けた方がいいかもしれない。
僕は、考えを180度変えた、
そして、眠気が来るのを防ぐために、何かに意識を集中することにした。
幼い頃、自分一人だけでしりとり遊びをやっていた時期がある。
母は言葉を多く覚えるからという理由で、それを黙って見ていた。でも僕が覚えたのは、ごく少数の動物の名前だけだった。
いくら時間つぶしとはいえ、この年になって、こぶた、たぬき、きつね、ねこの繰り返しはやりたくない。
色々考えた末、僕が選んだのは耳を澄ますことだった。
気持ちを集中してしばらくすると、台所の窓の向こうから道路を行き交う車の音が聞こえはじめた。
僕のアパートから交通量の多い幹線道路までは百メートル以上離れている。車のエンジン音が混ざり合って潮騒のように聞こえるのは、その間にいくつものマンションがそびえているからだろう。
しかし、中には車種を特定できる音も混じっていた。
原付バイクのエンジン音だ。
その甲高い音は、山奥で木を切り倒すチェーンソーのようでもあったし、昆虫採集の網を持った子供から逃げ出したセミの嘲り声のようにも聞こえた。
セミといえば、幼いころ僕の遊びの定番は、昆虫採集だった。
四季を通じて、色んな虫たちと出会った。
蝶、とんぼ、クワガタ、カブトムシ、セミ、カマキリ、テントウムシ。スズムシ、こおろぎ、ダンゴムシ。
いちばんたくさん掴まえたのは、クマゼミだったと思う。
祖母の家のちかくには、低木林が広がっていた。
そこで鳴くクマゼミの声は、ことさら大きく聞こえた。しかも体を激しく動かして鳴いていたから、声をたよりに近づいて網をかぶせるだけで、子供の僕でも面白いように捕れた。
一度だけ、玉虫を見たことがある。
幼稚園に入った年の夏休み。ミカン畑の土手に座って、ぼんやりと空を眺めていたときだ。
頭の後ろで羽音がした。
ミカン畑には害虫のカミキリムシがいくらでもいた。その日の虫かごにも十数匹入っていた。望んだわけではなかったが、僕が捕った昆虫のほとんどは、ニワトリの餌になっていた。
今日も大漁だったね。明日も美味しい卵が食べられるよ。
と言って、虫かごを覗きこむ祖母の笑顔が浮かんだ。
横に置いていた網を掴んで後ろを振り返った僕の体が、かちんと固まった。
そこにいたのは、図鑑でしか見たことのない昆虫だった。
通せんぼをするように広げた羽の縦じまが、虹のような輝きを放っていた。鮮やかな羽の色だけで、それが玉虫だというのが分かった。
僕は息を殺して、それを見つめた。
飛んでいるというより、浮いているといった感じだった。
おいでおいで、
玉虫は、僕をまねくように、近づいたり離れたりしていた。
「あっちへ行け」僕は声に出して言った。「きたら、ニワトリの餌にするからな」
羽音で思い出した。
このアパートに引っ越してきた最初の週だった。
夜中に目が覚めた。玉虫の羽音ではないのは分かっていたが、気になった。
隣のマンションの片隅に、一本だけミカンの木が植えてあったからだ。
どこからどうやって入ってきたのか分からないが、カミキリムシかもしれないと思った。
枕元の灯りを点けて、そのあたりを探してみたが、姿はなかった。
電気を消してしばらくすると、また聞こえた。
柔らかな羽音だった。
僕の足元から、窓に向かって飛び立ったのが分かった。
何回か聞いた音だった。
記憶を探っていくうちに、心当たりのある昆虫に行きついた。
カマキリだ。
足音を忍ばせてベッドから降りた僕は、部屋の灯りをぜんぶ点けた。
忍び込んできたカマキリを、捕まえようとしたわけではない。窓の外に放してやろうと思ったのだ。
三日ほど前に、大掃除のついでに大量のバルサンを焚いたばかりだった。
人間に害はない。でも、カマキリには致命的な打撃を与えるかもしれない。
見ると、カーテンの裾のあたりがかすかに揺れていた。
「さあ、こっちにおいで」
ムカデも蜘蛛もトカゲも怖くない僕だったからよかった。もしこれがPだったら、大きな叫び声を上げていたはず。夜の夜中に何ごとが起きたんだと、隣近所の住民を巻き込んだ大騒ぎになっていただろう。
僕の耳元をかすめるようにして飛び出したのは、大型のゴキブリだった。
ゲームセンターのモグラ叩きで高得点を出したことは一度もない。しかし、どういうわけか、ゴキブリに関しては、たいてい一発で仕留められる。
気がついたら、履いていたはずのスリッパが僕の右手にあった。
力一杯叩いたのに、数メートル先で絶命していたゴキブリは原型をとどめていた。
もしかすると僕には、ゴキブリハンターとしての素質が備わっているのかもしれない。
しかし、そんな僕でも取り逃がしてしまったゴキブリがいた。
僕が『片目のジャック』と命名したワモンゴキブリが、それだ。




