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トリエステの異変に気づかないまま、ちょいと一休み

 嬉しいことに、蜂蜜は冷蔵庫のドアポケットの下の段にあった。

 立ち上がる必要がなかったのは、今の僕にとって非常にありがたかった。

 しかし、残念なことがあった。

 思っていたより瓶の口が小さかったのだ。

 ひょっとすると、僕の手が、すっと入るかもしれないと思っていた。

 そうなればエネルギーなんて面倒くさいことは考えなくていい。

 指先についた蜂蜜をそのまま舐めることができる。そう思っていたのだが、他の方法を考えるしかない。

 床の上に蜂蜜を置いた僕は、ひざまずいた状態で訊ねた。

「今僕には、どれくらいのエネルギーが残っているの?」

「片足を一歩踏み出した時点で、ゼロになると思うわ」

 質問してよかった。僕の判断だけで行動していたら、転倒するところだった。こんなときは、ちょっとした怪我でも命取りになるかもしれない。

「分かった。じゃあ、待つことにするよ」

 冷蔵庫の縁を掴みながら、ゆっくり床の上に寝転んだ僕は、改めて質問した。

「スプーンを取りに行く。体温で温める。どっちがいいんだろう?」

「そうねえ」トリエステは少し迷ったような口調で言った。「確実なのは、スプーンを取りに行くほうかもしれないわね。でも、それだけのエネルギーを貯めるには結構な時間がかかりそう」

 トリエステの言うとおりだ。

 スチール棚のスプーンを取るには、踏み台代わりのパイプ椅子を持ってこなければならない。

 つま先立って、思いっきり手を伸ばせば取れないこともない。でも、タイミングが狂って指先が引っかかった場合、棚そのものが外れる恐れがある。 

「なるほどね」と僕は言った。「だったら、自分の体で温めるよ。このまま寝ていればいいわけだからね」

 同意の返事を待ったが、トリエステは何も言わなかった。

「ねえ」僕は催促した。「何か問題があるの?」

「ある」しばらくしてからトリエステが言った。「危険、伴う、恐れ、あ、る」

もちろん僕は、トリエステの口調が変わったことに気づいていた。

 でも、新しいパターンの冗談が始まったぞ、ぐらいにしか受け取らなかった。

 冗談が言えるほどの余裕ができたということは、僕が危機的状況を乗り越えた証拠なんだ。勝手にそう思った。

 まさか、トリエステに深刻な事態が起きているなんて、考えてもみなかった。

「つまり、僕の体温が奪われてしまうってことだよね」

「そ、そう。そ、なると、元も、子もない」

 肯定の返事に安心した僕は「ありがとう」と言ってから、自分の意見を言った。

「君の冷静な分析力に感謝するよ。とりあえず蜂蜜は僕の横に置いておく。ここはけっこう暖かいんだ。隣のマンションに当たった太陽の反射熱を、有効に使う方法を考えてみるよ」

 トリエステは、反応らしきものは何も見せなかった。

「私、少し、黙る」

 と言っただけだった。

 いままで聞いたことがない言葉づかいがこうも続くと、さすがに違和感を覚えた。

 トリエステは一体、何を考えているのだろう。

 しばらく考えた末、僕が出した結論はこうだった。

『おしゃべりなんかどうでもいいから、このあとのことを考えなさい』

 自分でも納得のいく答えだった。

「分かった」と言った僕は、トリエステの口調を真似てつづけた。「スプーン、取れるだけのエネルギー、貯まるまで、僕、話、しない」

 いつまで待っても、返事はなかった。

 後どれくらい待てばいいのだろう。

 僕は、体をひねって壁時計を見上げた。

 午後三時十九分。

 僕は締め切った窓のカーテンに視線を移した。

 もしカーテンを開け放っていれば、このあたりまで午後の光が届いていたはず。

 カーテンが閉まっていなければ、瓶の底に結晶化してへばりついている蜂蜜は、あっというまに溶けていたのに。

 頭の片隅でそんなことを考えながら蜂蜜のラベルに目をやった僕は『直射日光のあたらない場所に保存してください』という文字に、苦笑いするしかなかった。


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