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たどり着いて一安心

 ところが、それから数秒もしないうちに、トリエステが「そろそろ、いいんじゃないかしら」と言った。

「何が?」

 僕は目を閉じたままで訊いた。

「冷蔵庫までだったら、行けそうよ」

 どう考えてみても、トリエステが何か勘違いをしているとしか思えなかった。

 元々眠る気はなかった。無駄なエネルギーを使いたくなかっただけだ。

 僕はそっと目を開けた。

 台所の窓のむこうの明るさは、何も変わらなかった。

 ここからは壁時計は見えない。はっきりしたことは言えないが、僕が目を閉じていた時間は、まばたき数回分だったはず。

 どんな反応が返ってくるのか予想できなかったが、確認のために一応言ってみた。

「それって、冷蔵庫まで行けるだけのエネルギーが、僕の中に貯まったってことなんだよね」

「それ以外に何があるというの」

 トリエステは素っ気ない声で答えたが、おかしいと思った。

 台所まで行って湯を沸かし、作ったカップラーメンを食べ終わるまでに必要なエネルギーを確保するのに、十八時間二十四分三十七秒。

携帯電話のボタンを一回押すには、三分六秒待たなければならないらしい。

 それを元に考えてみると、だれでも気づくことがある。

「ねえ」と僕は言った。「どうして、たった数秒で冷蔵庫まで行けるだけのエネルギーが貯まったの? それとも僕が気づかないうちに、ちょうど二十四時間経過してしまったというわけ?」

「なによ、その言い方」トリエステは怒ったような口調で言った。「じゃあ、いつまでもその恰好で寝ていなさいよ」

 疑問を口にしただけなのに、うまく伝わらなかったようだ。

 でも、そんなことを言っても始まらない。無駄だと分かっていても、試すしかない。

 僕は体をひねりながら、顔を上げてみた。

 ほっぺたが少しだけ浮いた。

 しかし、思うように持ち上げることはできなかった。頭の上に透明な布団が、何枚も何枚も被せてあるような感じがした。

 動きを妨げているのは、理科の時間に習った重力なのかもしれない。もし僕にニュートンのような頭脳が備わっていたとしたら、万有引力と時空のゆがみを結びつける法則を発見していたかもしれないのにな。

 そんなことを考えながら、やっとの思いでトリエステのベッドにあごをのせた。

「君が言った通りだったようだね」と僕は言った。「なんとか体を動かせるようになったよ。ありがとう」

「私、何もしていないわ。時間がきただけのことよ」トリエステは感情のない声で言った。「そんなことより、急いだ方がいいんじゃないの」

 たしかにそうだ。無駄話をしている場合ではない。

 トリエステの話から推測すると、僕はずいぶん長い間食事も水もとっていないらしい。

 人間は水さえあれば一週間くらいは生きていられるが、水が飲めないとなると、三日か四日であの世にいく、と聞いたことがあった。

「じゃあ、行ってくるよ」

 床の上に腹ばいになった僕は、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。

 そして映画でみた地べたを這う兵士の姿をイメージしながら、右肘を前に出した。


 冷蔵庫までは、思ったよりはやくたどり着いた。

「報告したいことがあるんだ」僕は冷蔵庫にもたれた状態で言った。「僕の体内時計と、実際の時間との間には、三日ほどの差があるらしい」

「つまり三日分の記憶が消えているってことなの?」

 トリエステは驚いたような声で言った。

「たぶんね」と僕は答えた。「玄関に落ちていた新聞の部数を、何度も数え直したから間違いないと思う」

 大丈夫。心配する必要はないわ。あなたにはくじ運だけじゃなくて、強い生命力も備わっているのよ。

 僕としては、そんな励ましの言葉を期待していた。でも「あら、そうなの」という声が聞こえてきただけだった。

 どうやらトリエステには、人間が生きていく上で必要な情報といったようなものはプログラムされていないらしい。

「それからね」と僕は言った。「ソファの下に、コースレッドが一本落ちていたんだ」

「何? その、コースレッドって」

「先端部分が尖っていてピッチが荒いネジなんだ。下穴がいらないから、手間をかけずにネジ止めができるんだ。たぶん、そのベッドを作ったときに、一本だけ落ちたんだと思うよ」

「余計なお節介かもしれないけど」とトリエステは言った。「それは、コースレッドじゃなくって、正しくは、コーススレッドというらしいわよ」

 せっかく貯まったエネルギーが、漏れてしまったような気がした。

 そんな話だったら後からしてくれ。仮に僕が間違っていたとしても、誰にも迷惑をかけちゃいない。「ス」が一文字抜けているぐらいはスルーしろ。

心の中で、そう毒づいてから、僕は「ありがとう」と言った。「体力が戻ったら、イの一番にそれを確認してみるよ」

「で、そのコーススレッドがどうしたの?」

 コーススレッドなんて、もうどうでもいいと思った。でも、言わなければ話が変な方にいきそうな気がした。

「蜂蜜をなめるのに使えないかと思っただけだよ」

「長さは?」

「よく考えてみると、話にならない。32ミリしかないんだ」

「でも、どんなものでも利用しようとする気持ちは大切よ」

 相手がパソコンとはいえ、褒められたのは久しぶりだった。そのせいなのか、つい口が滑らかになった。

「匍匐前進の合間にふと浮かんできたのが『アポロ13号』という映画のストーリーだったんだ。簡単に言えば、絶体絶命の状況に追い込まれても最後まで諦めない3人のクルーと、それを支えた管制センターのスタッフたちの物語なんだけどね」

「そんなことより」トリエステが話を遮った。「蜂蜜はどうなったの?」

 映画の話になると、時間を忘れる僕のくせは、今も昔も変わらないようだ。

「ごめん」僕はそう言って、体の向きを変えた。


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