匍匐前進(ほふくぜんしん)のその前に
自分の思惑が外れたショックで何も言えない僕に、トリエステが、
「そこから、携帯電話が見えるの?」
と訊いた。残念ながら、見えているのは逆方向だった。
「台所なら見えているんだけど」
と僕は答えた。
「あら、そう」トリエステは感情のこもらない声で言った。「で、あなたは今どんな恰好をしているの?」
こんなとき、恰好なんか訊いてどうするんだ。でも、ここでじたばたしても始まらない。だったら、気分を紛らわせるためにも、明るくふるまってやろう。
「一言で言えば無様な恰好かな」と僕は言った。「地べたに這いつくばっているよ。九回裏ツーアウト三塁から、勝手にホームスチールを敢行して失敗に終わった野球選手みたいにね」
「チームメイトはカンカンに怒っているんでしょうね」トリエステは、そこでクスッと笑った。「でも、相手チームから感謝状がもらえるかもしれないわよ」
ギャグとしてはあまり面白くないが、トリエステにはスポーツに関する情報もインプットされているらしい。
「そうだったら、いいんだけどね」と僕は言った。「試合が終わったというのに、誰ひとりとして僕を起こしにきてくれないんだ。観衆もいなければ警備員もいない」
「だとしたら、自分で立ち上がるしかないわね」トリエステは、そこで話を変えた。「家の中にあるもので、簡単に食べられるものってどんなものがあるの?」
僕は頭の中に整理しておいた食品リストの中から、最適だと思うものを言った。
「蜂蜜は、どうだろう」
「いいわね、それ」トリエステは満足そうな声で言った。「栄養価も高いし、加工しなくてもいいし、咀嚼する必要もない。まるで今日のために用意してあったみたいね」
「でも、少し問題がある」と僕は言った。「蜂蜜の瓶があるのは冷蔵庫の中なんだ。蝋のように固まっているし、底の方に少ししか残っていない。柄の長いスプーンは、台所の棚の一番上、それも奥の方」
十数秒ほどしてトリエステが言った。
「蜂蜜のフタは、きついの、それともすぐ開くの?」
そんな細かい質問がくるとは思ってもみなかった。
しかし、考えてみればとても重要なことだ。
蜂蜜は広口の大瓶。両手でなければ開けられない。
フタを一回転させるだけでも結構なエネルギーがいる。携帯のボタンを一回押す動作とは比べものにならないほどのエネルギーを必要とする。
でも、容器を傾けて蜂蜜を出したことは一度もない。
「軽く回るよ」と僕は言った。
「了解」トリエステは元気な声で言った。「これからシュミレーションをしてみるわ」
腕や足を使いながら、腹ばいで前進することを匍匐前進というらしい。実際に見たことはないが、戦争映画の中で、そんなシーンを見たことがある。
でも、それを僕が(それも自分の部屋で)やるはめになるとは思ってもいなかった。
トリエステが立案した僕のとるべき行動と、その理由は次のようなものだった。
立ち上がるだけでも膨大なエネルギーを消費する。冷蔵庫までは匍匐前進。
冷凍室と野菜室の引き出しを交互に掴みながら、ゆっくりと立ち上がる。
冷蔵庫のドアは、そっと開ける。
蜂蜜の瓶を掴んだら、両手でしっかり抱きかかえて膝を折る。
たとえ転んでも、絶対に蜂蜜を離さない。
スプーンを取りに行くか、体温を使って溶かすかは、蜂蜜の容器を床に置いた時点で考える。
「で、僕が冷蔵庫に向かえるのは、あとどれくらいしてからなの」
「そうねえ」トリエステは三十秒ほどしてから言った。「あなたががっかりするといけないから、それは言わないことにするわ」
ずいぶん時間がかかりそうな言い方だった。でも、他に方法がないとしたら待つしかない。
「大丈夫だよ、時間ならいくらでもある」と言ってから、僕は気になることを質問した。「君との会話もやめた方がいいんだよね」
「どうして?」
「エネルギーを消費しないためだよ。少しでもはやく動けるようになりたいからね」
ウフフフ、
なぜかトリエステは、含み笑いをした。
「そんなことは心配しなくてもいいの。どうしてだか分かる?」
僕にだって、少々の学習能力はある。
ここ数日の会話相手といえば、ほとんどトリエステひとりだった。
トリエステが喜ぶのは、言葉を使わなくても、お互いの心と心が通じ合うという『以心伝心』のような言葉なのだろう。
だが、それを口にすればトリエステが次々に質問を投げかけてくる。感想を求めてくる。
となると、僕としては何かしゃべらなければならなくなる。
人間の行動でエネルギーを使わないものは、何ひとつない。息をするだけでもエネルギーが要る。
無言は無理だろうから、短く答えよう。できることなら相づちだけですませたい。
僕はしばらく考えるふりをしてから「全然分からない」と言った。「もし、よかったらエネルギーが要らない理由を説明して欲しいんだ」
機嫌が悪くなると思ったが、意外に弾んだ声が返ってきた。
「分かったわ。じゃあ、よおーく、聞いていてね」
もしかすると、トリエステは自分でそのことを話したかったのかもしれない。だとすると、話に勢いをつけてやろう。
僕は、トリエステの口調を真似て言った。
「よおーく、聞くことにするよ」
コホン、
わざとらしい咳払いだった。でもはじめて聞いたせいか、とても新鮮な感じがした。
「じゃあ、はじめるわよ」とトリエステは言った。「以心伝心って言葉を知っている?」
あやうく、僕も、そう言おうとしたんだ、と言いそうになった。
その言葉をあわてて飲み込んだのは、ほらね、私たちが昔から繋がっているっていう証拠が、今のそれなの。と続きそうな気がしたからだ。
「以心伝心なんて言葉を聞いたのは初めてだよ」
僕はそんなふうに逃げて反応を待った。
「ふーん」トリエステは、気のない声で言った。「だったら、この話はもうしない」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかった。
「どうしたの、急に」
拍子抜けした僕としては、そう言うしかなかった。
「理由は何もないの。しゃべりたくなくなっただけ」と答えたトリエステは、言葉を選ぶようにしてつづけた。「以心伝心の意味は、あなた自身で、考えなければならないことなのかもしれないわね」
そこで口を噤んだトリエステは、自分から話そうとはせず、沈黙を紛らわすために僕がした質問に答えただけだった。
「僕は何日ぐらい食事をとらなかったの?」
「冷蔵庫までいく間に、玄関が見えると思うの。そこに貯まっている新聞を数えれば分かるでしょ」
「小さなベッドひとつ作るのに、何日もかかるはずはないと思うんだけどね」
「私の話が信用できないのなら、質問しないでほしいの」
確かにその通り。
トリエステはただのパソコン。
自分のことは、自分の目で確かめるのが一番。
「分かった。そうするよ」
僕は、自分の体の細胞膜からしみ出てくるというエネルギーの元が、少しでもはやく貯まることを念じて目を閉じた。




