携帯コロリン、コーロコロ
触ってみると、体はびっくりするほど冷えていた。
いつの間に、こんなになってしまったのだろう。
小刻みに震えている自分の体を、服の上から何度もこすって体温を上げようとした。
しかし、何の役にも立たなかった。それどころか、逆にゾクゾクッとした寒気が襲いかかってきた。
たちまち大粒の鳥肌で覆い尽くされた僕の両腕。まるでガマガエルの皮膚を移植されたように見えた。
恐怖と気色悪さで吐き気を感じ、一瞬体がふらついた。
まさかこれは『ダラダラ坂の消え女』と関係があるんじゃないだろうな。
あの話のバージョン2と、3はどんな内容だったのだろう。
こんなことなら、お婆さんに全部聞いてくればよかった。
思わず、弱気な思いが浮かんできた。
おいおい、あれは民話の世界の話だぞ。落ち着け、落ち着け。まずは、呼吸を整えろ。
僕は自分に言い聞かせた。
深呼吸を数回くりかえしているうちに、震えは止まり、喉の奥と胃の辺りに、微かな痛みのようなものを感じはじめた。そして、しばらくすると、もうれつな食欲がわいてきた。
なんだよ、と思った。
腹が減っていただけだったんだ。
トリエステが言った孤独死の意味が、やっとわかった。
たしかに空腹の延長線上に「死」はあり得る。道に迷った登山者が、食料が切れて死亡したニュースは珍しくはない。
それにしても。
僕はさっき作ったばかりの、トリエステのベッドに目をやった。
たったこれだけの作業で、こんなにも腹が減るものだろうか。これほど体力を消耗するものだろうか。
材料は巾9㎝、厚さ2㎝のパイン材。
それを45㎝6枚。32㎝2枚に、カットしてもらった。
組み立てたと言っても、電動ドライバーを使って、コースレッドでキュッ、キュッ、キュッとビス留めしただけ。
力仕事でも何でもないのに、朝から晩までぶっ通しで重労働をした直後のような疲労感。
「さっきの質問だけど」とトリエステが言った。「今のあなたにとって、何が一番大事なものなのか分かったの?」
タイミングをはかったみたいに、僕の腹がキューッと鳴った。
「今の音が答だよ。僕にとって一番大事なことは、今すぐ、何か食べること」
笑いながら、そう言った直後、僕の体がぐらりと揺れた。
あっと言う間も、体勢を整える間もなかった。気がついたとき、僕は床の上に倒れていた。
反射的に顔の前で腕を組んでいなければ、顔面を強打するところだった。
「忠告するわけじゃないんだけど」抑揚のない声でトリエステが言った。「物事に熱中するのもいいけど、何ごとにも程度というものがあることを忘れないでね」
むかしから僕には、そういうところがある。
気がつけば昼。気がつけば夜。気がつけば朝。
数え切れないほど経験してきた。
でも、トリエステのベッド造りにかかった時間は三十分程度だった。
押し入れから取りだした電動ドリルの刃を、ドライバー用に変えてから、元の場所に戻すまでの時間を加えても一時間はかからなかったと思う。
しかし、そのことを言い出しても、実りある会話は望めそうもなかった。
「言われてみれば確かにそうだね。これからは気をつけるようにするよ」
と言って、起き上がろうとしたのだが、なぜか、体はぴくりとも動かなかった。
金縛りは、眠っているときの現象だったはず。
もう一度腕を突っ張って起き上がろうとした。しかし、状況は何も変わらなかった。指一本動かすことさえできなかった。
「大丈夫?」
トリエステが心配したような声で言った。
「大丈夫じゃないかもしれない」僕は床に顔を押しつけたままの状態で答えた。「動くのは口と目だけみたいなんだ」
パソコン相手に、のんきな会話をしている場合じゃないのは分かっていた。
だが、この時間アパートにいるのは、僕一人。大声を出しても、誰も気づかない。誰も助けにきてくれない。
無駄なことをするより、とりあえずは、冗談で気分を紛らわせた方がいいかもしれない。
「まるで、ごきぶりホイホイに捕まったゴキブリの気分だよ」
ちょっとした期待感はあった。でも、トリエステは笑ってはくれなかった。
「ずっと、ゴキブリのままでいたいわけね」
ブラックジョークは、当事者にとっては面白くも何ともないということを、トリエステは知らないらしい。
「あのさあ」と僕は言った。「できるなら、ここから脱出する方法を考えてほしいんだけど」
「分かったわ」トリエステは明るい声で言った。「で、脱出したら、どうするの?」
「カップラーメンを食べるよ。腹がぺこぺこで力が出ないみたいなんだ」
「よかったわね、買い置きがあって」とトリエステは言った。「で、お湯はどうするの?」
どうして、どうでも良いようなことを訊いてきたのか分からなかった。でも、いつものことだ。僕は素直に答えることにした。
「ガスコンロで沸かすよ。電気ポットよりそっちの方がはやいからね」
「お箸は使うの?」
「もちろん」
「どこで食べるの? テレビを見ながら? それとも台所で立ったまま?」
「ねえ」と僕は言った。「それと脱出法とどんな関係があるの?」
「これは、とても大事なことなの」トリエステは勿体ぶったように言った。「立ち上がったあなたが、台所に行って水道の栓をひねってから、食事をすませるまでに必要な全エネルギー量を計算するためなの」
トリエステは、病的なことは心配しなくてもいいと言った。
ただし、今、僕の体内エネルギーは、ゼロにちかいらしい。
「車で言えば、燃料タンクが空っぽ。数メートル先に、ガソリンスタンドがあるのに動けない状態が、今のあなたなの」
しかし、人間には、いざという時に働く機能があるらしい。
「ほんの少しずつだけど、細胞膜の間からエネルギーの元が、しみ出してくるの。鍾乳洞の天井から水滴が、ぽたりぽたりと落ちてくるように。それが貯まるまでの時間も計算しなければならないの」
「僕がテレビの前でカップラーメンを食べられるようになるには、どれぐらい待てば良いの?」
「そうねえ」十秒ほどで計算結果が出た。「そのままの姿勢で、十八時間二十四分三十七秒待てば、それが可能になるわ」
冗談だろうと思ったが、僕は真面目な声で「とても待てないね」と言った。「じゃあ、カップラーメン以外のものを考えてみるよ」
こんなとき、チョコレートや菓子類があれば良いのだろうが、僕はその手のものを買い置きすることはない。
頭の中で、冷蔵庫の中身と、ストックしてある食料品のリストをチェックしていた僕は、今の状態から簡単に抜け出す方法を思いついた。というより、どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのだろうと思った。
玄関のドアの鍵はかかっている。でも、大家さんはマスターキーを持っている。大家さんの電話番号は登録済み。
僕は喜びを隠して訊いた。
「携帯のボタンを一個押すだけだったら、どれくらい待てば良いの?」
「三分六秒」
具体的な数字がぱっと返ってきた。
信じたわけではなかったが、僕は笑いながら「ありがとう」と言ってから付けくわえた。「うちの大家さんに、案内人は必要ないみたいなんだ」
僕が言いたいことは、すぐに伝わったらしい。
「ひょっとして」とトリエステが言った。「携帯から大家さんに電話するつもり?」
最後の疑問符が、耳に引っかかった。
「ああ、そうだけど」と言ってから僕はつづけた。「こんなとき、携帯を使っちゃいけないという決まりでもあるの?」
「そんなことないわよ」とトリエステは言った。「私も最初はそれを勧めるつもりだったの。でもね。その携帯はあなたがさっき倒れたとき、ベッドの奥の方に転がっていったみたいよ」




