だったら早く教えてよ、トリエステさん
言葉に重みを持たせようと考えた僕は、丹田に力をいれて静かな声で言った。
「君は、女性でもないし、パソコンでもない」
このあと、どういうふうに話を展開すればいいのか分からなかったが、そう言って相手の反応を待つしかなかった。いわば捨て身の攻撃。
「あら、そうきたの」
トリエステは、すこし驚いたような声で言った。しかし、すぐに余裕を取り戻したらしく、ゆっくりとした口調で、
「その裏付けを教えてほしいんだけど」
と付けくわえた。
万事休す。
僕の考えていることは、すっかり見透かされているようだ。となれば、ここはあっさり降参するしかない。
それが、分からないんだ、
と言おうとした僕の口が、勝手に動いた。
「裏付けなんて堅苦しいものは、僕たちの間には必要ないと思うよ。だって君と僕は、遠い昔から繋がっていたわけだからね。君自身が、私は女性でもなければ、パソコンでもないと言うんだったら、それに間違いがあるはずがないからね」
言いながら、何でこんな言葉がすらすら出てくるのだろうと思った。
サハラ砂漠のあとに言った思いつきの言葉が、頭の中に残っていたのだろうか。
でも、あのときは、僕たちは遠い昔から繋がっていたのかもしれないだった。それが、繋がっていた、になっている。
どうして心にもないことが、言葉となってこぼれ出てくるのだろう。
僕はトリエステに、少しでも気に入ってもらいたいと願っているのだろうか。
それとも、怯えのようなものを感じているのだろうか。
ま、いずれにしても、このあと徹底的に突っ込まれることは間違いない。と覚悟したのだが、トリエステは、僕の言葉をそっくりそのまま受け入れてくれた。
「つまり、私のことを信じてくれているわけね」
嬉しそうな声だった。話の落ち着き先が見つからない僕にとって渡りに船。これに乗らない手はない。
「もちろんそうさ。君が僕を信じてくれるようにね」
話の流れで、つい、きざなセリフを言ってしまった。
「ということは……」トリエステは探るような声で言った。「私の正体には、まだ気づいていないということになるのかしら?」
「ま、今のところはね」
とりあえずそう答えた僕は、日常会話でほとんど使うことのない「正体」の意味について考えてみた。
別に難しい言葉ではなさそうだったが、小学生のころから国語辞典を引く習慣のなかった僕には、こんな簡単な言葉の意味さえよく分からなかった。
頭の中から「正体」の文字を払いのけた僕は、口の中で『トリエステはパソコンでもなければ、人間の女性でもない』と三回繰り返してから言った。
「つまり本当の君の姿は、僕が君に抱いているイメージとはずいぶんかけ離れているってことなんだね」
「そうねえ」トリエステは、思わせぶりな口調でつづけた。「でも驚くようなことじゃないかもしれないわよ。分かったしまえば、拍子抜けするようなことだったりして」
そこまで言うと、トリエステは、突然話を変えた。
「あなたにとって、一番大事なものは何?」
話題が変わって戸惑ったが、もしかすると、と思った。
僕の捨て身の攻撃で、次の一手が見つからなくなったのかもしれない。
僕は急いで頭を切りかえた。
これが映画かテレビドラマだと『それは、君に決まっているだろう』という定番のセリフが出てくる場面だ。でも、僕にはそんなセリフはない。
「僕にとって一番大事なものはね……」
と言ったところで、言葉に詰まった。
僕にとって、一番大事なものって何だろう。
「そうだなあ」
と言って、考えてみた。二、三分(もしかすると、もっと長かったのかもしれない)真剣に考えてみたが、何も思い浮かばなかった。
「ねえ」と僕は言った。「どうして、急にそんな質問をしてきたの?」
だが、トリエステはそれには答えなかった。その代わりに時刻を訊いてきた。
「今何時?」
時計に目をやると、いつの間にか、三時を過ぎていた。
なんだ、そうか。
僕は思わず笑った。
ベッド作りに専念していた僕が、昼飯を取るのを忘れていることを知らせたかったらしい。
そう思った僕は「ありがとう」と言った。「君に言われて、急に腹が空いてきたよ。でも中途半端な時間だから、夜まで我慢するよ」
すると、トリエステは呆れたような声で「ほらね」と言った。「たぶん、そんなことだろうと思っていたわ」
「何が?」
今度はすこし怒ったような声が返ってきた。
「あなたは一食だと思っているらしいけど、そうじゃないのよ」
意味が分からなかった僕は、その言葉を頭の中で繰り返した。
ある可能性が閃いた。
トリエステがきてから、窓の遮光カーテンは閉めたまま。だから昼間も蛍光灯をつけている。
まさか、今は夜中の三時なの?
僕は慌てて後ろを振り向いた。
だが台所の窓辺には、先ほどと同じ明るい午後の光りがあった。
「なんだよ、もう」
僕はベッドごとトリエステを抱き上げた。そして思いっきり顔を近づけた。
「こんなつまらない冗談の、どこが面白いの?」
「あのね」とトリエステは言った。「私としては、面白さを求めているわけじゃないの。その逆。心配しているの。あなたの体を」
朝から晩まで野原を駆け回っていた幼い頃、それに似たことをよく言われた。
「母親の口癖を教えてあげるよ」と僕は言った。「どんなに健康な人でも、食事と睡眠を取らなければ、たちまち命がなくなるのよ。っていうんだ。何度言われたかわからない」
「だったら、その通りにしなきゃだめなんじゃないの?」
「大丈夫、一食抜くぐらいは健康にはなにも関係ないよ。それに昨日の昼、食べ過ぎたみたいだったから、ちょうどいいのかもしれない」
しばらくの沈黙のあと、トリエステはまた意味不明のことを言った。
「あと二日くらいすると家主さんが、警察官を連れてくるかもしれないわよ」
「まさか、君が呼ぶんじゃないだろうね。私、この人に誘拐されました、って言うつもり?」
冗談半分、本気半分だった。
すると、トリエステはクスクス笑った。
「私をこの部屋に連れてきた夜も、そんなことを言っていたわよね」
二日前の話を、昔話のように言うトリエステに腹が立った。理由は分からないが、完全に僕をからかっているらしい。
僕は、ふて腐れた声で言った。
「ああ、確かに言ったよ。君を『ダラダラ坂の消え女』か『声だけオンナ』だと思っていた遠い昔にね」
このあと『ダラダラ坂の消え女』の話になったら、ゲームを打ち切ってやろうと思ったが、トリエステは、また話を変えた。
「孤独死って、知っている?」
言葉も意味も知っている。だが、どうして、このタイミングで出てくるのか分からない。
僕と『ダラダラ坂の消え女』の話を無理やり結びつけようと考えているのだろうか。
それにしても今日のトリエステは、どこかおかしい。あまりにも話が、あっちこっちに飛びすぎる。
待てよ。
僕はそこで、思考の視点を変えてみた。
トリエステは、今、パニック状態に陥っている。
さっきの捨て身の攻撃は、トリエステにとって、将棋で言う『王手飛車取り』だった。
トリエステのソフトが混乱しているから、意味不明の言葉が次々に出てくる。
頭に浮かんだことを自分に言い聞かせているうちに、理屈が通っているような気がしてきた。
だとすると、あと数手で、僕に勝利が転がってくる可能性がある。
よし、それなら、どこまでもついて行ってやる。
「孤独死が、どうかしたの?」
はっきりした声で僕は訊いた。
「孤独死を最初に発見する確率が高いのは、新聞配達をする人らしいの」
暗い話なのに、まるで明日の天気予報でもするような口調だった。
どうしてそんな話をするの?
孤独死と僕は、どんな関係があるの?
と言おうとしたとき、急にベッドが重くなった。まるで鉄のかたまりを抱えているような感じがしてきた。
「ごめん」と僕は言った。「ちょっと、下ろすからね」
そっと置いたつもりだったが、最後は手が滑ってコトンと音がした。
「大丈夫?」
心配そうな声でトリエステが訊いた。
「それは僕が言わなきゃいけないセリフだろ。僕のことは心配しなくてもいいよ」
と言ったところで気がついた。
僕は肩で息をしていた。
僕の衣服は、身体からしたたり落ちた冷たい汗で、ぐっしょり濡れていた。




