門前の虎 後門の狼
「そんなこと言ったっけ?」
と言いながら、どんな言葉が返ってくるか予想した。
(信じられない。どうしてこんな大事なことを、覚えていないの)
(自分の言ったことに責任を持てない人って、最低)
いずれにしても、きつい言葉が返ってくるはず。
だが、予想に反して、トリエステはあっさりとした声で「あら、そうなの。だったら、しかたないわね」と言っただけだった。
しかし、ここで安心してはいけない。問題はこのあと。油断をさせておいて、ずばっと攻めてくるのが、いつものパターンだ。
「質問があるんだけど、答えてくれる?」
トリエステが静かな口調で言ったとき、話題が変わったと思った。
とすれば、僕のくじ運の強さか、森伊蔵の話のどちらかだろう。くどい話を聞かされそうな気がしたが、どちらかというと、そっちのほうが良かった。
僕は、軽い気持ちで、
「ああ、いいよ」
と言った。
だが、次の言葉を聞いた途端、やられたと思った。
「いま私が寝ているこれは、ベッドよね」
まさか、ベッドから攻めてくるとは考えてもいなかった。
トリエステの学習機能は、思っていた以上に高品質らしい。一時間単位でバージョンアップされるようになっているのかもしれない。
開発費が数千万円もするパソコンソフトを任されるような技術者と闘うつもりはないが、ベッド、という言葉を聞いた時点で、トリエステがどのような手順を踏んで攻めてくるか、大体の予想がついた。
こうなれば、どこまでやれるか試してやろう。
よし!
拳を握って気合いを入れた僕は、力みが声に出ないように、深呼吸をして体の力をぬいた。
「そう、僕としては、ベッドのつもりで作ったんだ。気に入ってもらえたかな?」
「気に入る入らないは別にして」とトリエステは言った。「今の時点で、私は女性なの? それとも、ただのパソコン?」
予想通りの言葉だったが、返す言葉は見つかりそうもなかった。これと比べると連立方程式のほうがずっと簡単だろう。
絶体絶命の状態を表すことわざに『門前の虎 後門の狼』というのがある。
今のトリエステの一言は、僕にとって、まさにそれだった。
逃げ道なんて、どこにもなさそうだった。僕の周りは断崖絶壁。千尋の谷。
君を女性だと思っているよ、と答えれば、
『あなたは、この私をベッドの中に一生閉じ込めておくつもりなの?』
と言われる。
パソコンだと答えても、結局は同じ。
『パソコンって、タオルケットで包んでベッドに寝かせるものなのかしら』
と言われるに決まっている。
そのうちに、あなたは変態なの。とか、コンビニの女の子より私のほうが好きなんじゃないの、とか言ってくるに違いない。
もちろん僕は、トリエステに恋愛感情なんかもっていない。
パソコンソフトでゲームを楽しんでいるだけ。
だがこのゲームが、モニター画面上ではなく、現実の世界の中で行われていることが、話をややこしくさせているのだ。
トリエステが言い出さなければ、幻の焼酎の予約電話なんかしなかった。
ナフコで買った木材で、ベッドなんか作る必要もなかった。
こうなれば、本体のどこかにあるはずのリセットボタンを押して、ゲームを強制終了させてやろうか。
だが、ここを乗り切れば次のステージが待っているかもしれない。
僕は、もうしばらくトリエステと付き合うことにした。
(そう、僕はこの時点で、トリエステのことを新しい形式のパソコンゲームの主人公だと思い込んでいたのだ)
うまく働かない頭で、あれこれかんがえているうちに『四面楚歌』という文字が浮かんできた。
おいおい、いまの状況は、もっと差し迫ったものだろう。
その文字を『四面を猛獣に囲まれた男の運命やいかに』と訂正している途中で良いアイデアを思いついた。
『私は人間の女性でもなければ、パソコンでもないのよ』
例のトリエステの言葉だ。
意味は分からない。でも、僕をぎゃふんと言わせるための言葉のような気がした。
だとしたら、いつかはそれを言われる。どうせなら、それを僕が利用してやろう。
ひょっとすると、敗戦濃厚のこの状況を逆転できるかもしれない。




