今までとは違う種類の音
そうだとすると、トリエステの第二章は、僕との別れを意味している可能性が高い。
僕は、思ったことを口にした。
「さっき君は第二章の始まりと言ったけど、あれは僕のことではなくて、君のことなんじゃないの?」
しかし、トリエステは、それには答えなかった。
「そんなことより、踏んづけている針を拾うほうが先でしょ」
つっけんどんな言い方だった。でも、声の中に優しさが戻っていることを発見した僕は、ほっと胸を撫で下ろした。
だが、疑問が浮かんだ。
さっきの突き放すような口調。あれは一体何だったのだろう。何かの前触れなのだろうか。
でも僕は、そこで考えを止めて、いつものパターンが戻ってきたことを喜ぶことにした。
「確かに、君の言うとおりだと思う」
例え話だというのは分かっていたが、僕は両足を持ち上げてみた。
足の裏に異常はなかった。もちろん針もない。トリエステのベッドを作ったあと、丁寧に掃除機をかけたから、ゴミ一つ落ちていなかった。
「教えて欲しいことがあるんだ」と僕は言った。「僕が踏んづけている針は、どんなふうに見えているの」
「そうねえ」とトリエステは言った。「茹ですぎたパスタを、ぬるま湯に三日間つけっぱなしにした状態と言えば分かってもらえるかしら」
「ひどいもんだね」僕は首を振った。「それじゃあ、パンパンに膨れた風船さえも破裂させられないね」
「で、どうするの?」
話の流れからいくと、森伊蔵の電話予約のことを訊いているに違いない。
僕はもう一度、携帯を手に取った。
「少し、気合いを入れて電話してみるよ。繋がらないのは、僕のせいだろうからね」
僕は携帯をじっと見つめた。
可能性はとても低い。でも、何ごともやってみなければ分からない。繋がる繋がらないは時の運。
僕の目的は、幻の焼酎を当てることではない。トリエステに一生懸命な姿を見せるだけ。でも、やるからには最善をつ尽くそう。
そう誓った僕は、小さな声で「どうか、繋がりますように」と言いながら、リダイヤルボタンを押した。
だが、聞こえてきたのは先ほどと同じアナウンス。でも、それは織り込み済み。電話が繋がるまで何度でもかけ直すつもりでいた。
しかし、二回目も、三回目も、四回目も、五回目も繋がる気配さえなかった。回数を数えたのは三十まで。その後は何も考えずに、ただひたすら同じ動作の繰り返し。
親指の付け根にこわばりを感じて、ふと時計に目をやると、リダイヤルし始めてから一時間以上経過していた。
この作業を何十年繰り返しても繋がらないかもしれない。
そう思った途端、全身に疲れを感じた。
「ちょっと、休憩」
僕はそう言って、トリエステのそばを離れた。
どうしたの、もう諦めたの。
そんな声が聞こえてくるかと思ったが、トリエステは何も言わなかった。
安心した。と同時に、パソコンソフトにいいように遊ばれている自分に情けなさを感じた。
しかし、ソファに寝転んだ僕は、天井を眺めながら再度誓った。
たとえ繋がらなくても、今夜の午前零時までは最善を尽くそう。
携帯を睨みつけるようにしてリダイヤルしていたせいか、目の奥に鈍い痛みを感じた。
瞼のマッサージをすれば、いいかもしれない。
携帯を胸の上に置いて、目を閉じたところで、ミスダツが言っていた腹式呼吸を思い出した。
目の疲れに効果があるのかどうかは分からない。でも、この呼吸法を何回か繰り返すことによって、自律神経が安定してくるらしい。
まず、丹田に意識を集中させる。
そして、口からゆっくりと息を吐く。
息は鼻から吸う。
吸ったときの、倍の時間をかけて息を吐く。
ミスダツの言葉を思い出しながら、二度目の深呼吸にとりかかろうとしたとき、トリエステの声が聞こえた。
「いま、何かした?」
妙に耳に残る声だった。僕は上半身だけを起こした。
「どうかしたの?」
「それがね」とトリエステは言った。「ふやけたパスタが、急に、焼き鳥の竹串みたいになったの」
いくら例え話だとしても、それはないだろうと思った。
トリエステは僕の気持ちを持続させようとして、気を使っているらしい。
それだったら、もう少し、がんばってみようかな。
と言っても良かったのだが、突っ込んだ方が、会話が広がりそうな気がした。
僕は、トリエステの心遣いに感謝しながらも、
「たぶん、それは君の目の錯覚だろうよ」
と言った。
「そうかしら?」
トリエステは納得がいかないといったような口調で言ったあと「でもね」とつづけた。「ほんの一瞬で形が変わったの。ほんとなの。あっという間もないくらい。あなたは何も感じなかった?」
「残念ながら、何も」と僕は言った。「だいいち僕には、その針がどこにあるのかさえも分からないんだ」
「あら、そう」がっかりしたような声で言ったトリエステが、何か思い出したように「ねえ」と言った。
「本当に何もしなかったの?」
僕は少し考えてから答えた。
「何もしていない。深呼吸をしただけ」
しばらくの沈黙の後、トリエステが言った。
「もう一度、深呼吸をしてみてよ」
対抗意識はなかったが、僕もトリエステと同じくらいの間を空けてから答えた。
「やっても無駄だと思うよ」
「どうして?」
「深呼吸でパスタが竹串に変わるんだったら、とうの昔に、ラジオ体操禁止令が出ているはずだからさ」
僕の冗談が通じたらしい。
「言われてみれば確かにそうね」 トリエステは小さく笑った。「でないと、イタリア料理店は全滅。そこいら中焼き鳥屋だらけになっちゃうわね」
そこで話を区切ったトリエステは、笑いながら付けくわえた。
「でも、ものは試しというでしょう」
改めて僕は思った。
トリエステと、こんな会話を交わしているときの自分が一番輝いているのかもしれない。
「了解致しました」と僕は笑いながら答えた。「さっそく仰せの通りにいたします」
僕はソファに寝転んで、先ほどと同じように腹式呼吸を始めた。
「ワワワワワ」
数秒もしないうちに、トリエステが大きな声で言った。
驚きを表しているらしいが、僕は昔から過剰反応は受け付けない。
わざとらしいトリエステの声を無視することにした僕は、丹田に意識を集中させながら深呼吸を繰り返した。
しばらくすると、部屋の中に奇妙な静けさが訪れた。耳の奥に違和感を感じた僕は、思わず上半身を起こした。
「何? この静けさ」
少ししてから、トリエステの声が返ってきた。
「今なら間違いなく繋がるわ」
小さかったが、確信に満ちた声だった。
どういう裏付けがあるのか訊ねたかった。でも、それは繋がったときに訊けばいい。
いま考えなければならないのは、繋がらなかったときのことだ。
(確率としては、こっちの方がはるかに高いと思う)
そのときは僕がすぐ謝る。
ボタンを押すタイミングが悪かった。ごめん。もう一度やってみる。
と言えば、トリエステのプライドを傷つけることはない。
僕はなにかする場合、たいてい秒針を基準にする。
「せっかくだから、秒針が、12にきた時点でボタンを押すよ」
壁時計に目をやってそう言うと、トリエステは、はっきりした声で、
「今のあなたなら、そんなことをする必要はないわ」
と言った。
「どうして、そんなことがわかるの?」
トリエステは、自信たっぷりな口調で答えた。
「あなたの運命の扉が大きく開いているからよ」
ここまで言われると、気を使う必要はない。
「はい、今、押しました」
僕はそう言って、携帯を耳に押し当てた。
数秒後、僕の鼓膜に届いたのは、今までとは違う種類の音だった。




