お休みなさいの前に
「どうかしたの?」
トリエステが心配したような声で言った。
「いや、なにも」
僕はそう答えて、時計から目を離した。
トリエステが言った通りだった。
さっきまでの今日は、三十二秒前に昨日になっていた。
僕はトリエステに気づかれないように、ちいさなため息をついた。
日付が変わった今、どうすればいいのだろう。
トリエステを女性扱いするのを、一日延長したほうがいいのだろうか。
それとも、この時点で気持ちを切りかえるべきだろうか。
早急に答を出さなくてもいいことだった。分かっていたがコーラに手が伸びた。
キンキンに冷えたコーラは頭をすっきりさせる。しかし、物事を考えるときは炭酸が少し抜けたぐらいのほうが、僕にはちょうどいい。
ぬるくなったコーラを二口ほど飲んでみたが、考えはまとまらなかった。
時間にして三分ほどだ。
その間、トリエステは何も言わなかった。でも、様子をうかがっているような気配は感じた。
僕は間を持たせるために何か言おうとした。でも、適当な言葉が浮かばなかった。しかし、沈黙の時間を埋める程度の質問を思いついた。
「今僕が飲んだコーラの量は分かる?」
「68CC」
即座に返ってきた具体的な数字に驚いた。一体どうやって測ったのだろう。遠赤外線のようなものをボトルに照射したのだろうか。
「すごいね、君は」と僕は言った。「どうしてそんなことが瞬時に分かるの?」
敬意を込めて言ったつもりだった。だが返ってきたのは、耳を疑うような言葉。
「分かるはずがないでしょ、でまかせよ」
口調からすると、照れ隠しではなさそうだった。冗談なのか本気なのか分からなくなった僕は、ボトルを少し持ち上げてみせた。
「でも、さっきはぴったり半分残っていたよ。君が言った通りにね」
「あれは、たまたま当たっただけなの」トリエステは、笑ったような口調でつづけた。「私のほうがびっくりしたわ」
と言って口調を変えた。
「そんなことより、何か言いたいことがあるんじゃないの?」
疑問符がついていたが、僕の気持ちを見抜いたような言い方だった。
どきっとした。でもその拍子に気がついた。
トリエステをただのパソコン扱いにしたとしても、電源がオンになっている限り、今までと同じように僕に絡んでくる。
トリエステのパスワードをやっと手に入れた今、僕のほうから電源を切るつもりはない。
気持ちは決まった。
僕は時計をちらっと見てから、トリエステに顔を向けた。
「実を言うとね」と僕は言った。「午前零時の時報と同時に、君をただのパソコンとして扱うつもりだったんだ。でも、やめた。これまで通り、ひとりの女性として扱うことにしたよ」
「質問その1」とトリエステが言った。「パソコンって、何?」
その問いかけに、戸惑った。
トリエステには、自分がパソコンだという自覚がないのかもしれない。だとしたらこれから先、何か面倒なことが起こりそうな気がした。
「パソコンといえば、パーソナルコンピューターの略だよ。 個人用として作られた小型のコンピューターのことだよ」
毎日のようにパソコンを立ち上げているが、パソコンに関する知識は、それぐらいのものだった。
「質問その2」すかさず、二の矢が飛んできた。「女性って、何?」
質問の趣旨が分からなかった。
トリエステのソフトの中には、男女に関する言葉や意味合いが登録されていないのだろうか。それとも、何か考えがあっての質問だろうか。
「何が訊きたいの?」
だが、トリエステは何も言わなかった。
僕は時計に目をやった。
午前零時十八分。
僕は二分待ってから、口を開いた。
「スリーピングモードに入っているんじゃないだろうね」
「私ね」機嫌悪そうな声が返ってきた。「そんなだらしないことはしないの」
「分かった」と僕は言った。「悪いけど、急に眠くなったんだ。今の質問には明日の朝答えることにするよ」
「今の質問って何?」
僕は苛立ちが声に出ないようにして言った。
「女性の意味が知りたかったんじゃなかったの?」
「それなら、もういいわ」
小馬鹿にしたような言葉に、カチンときて、立ち上がろうとする僕に、トリエステが言った。
「どこに行くの?」
「決まっているだろう。僕のベッドにだよ」
「寝ぼけているの?」トリエステは呆れたような声で言った。「あなたのベッドはここでしょう」
先ほどの質問に対する答が、ひとつ浮かんできた。
「同じベッドに寝ない。これも君をひとりの女性として扱うということだよ」
勢いをつけてベッドから立ち上がった僕の背中に、トリエステが声をかけた。
「どんなイメージを私に抱いているのか分からないけど、私は人間の女性でもなければ、パソコンでもないのよ」
後から考えると、この言葉には、とても重要な意味が含まれていた。
だが、睡魔に襲われた僕の脳は、それをお休みなさいの言葉ぐらいにしか受け取らなかった。
「できたら明日の朝一番に、森伊蔵の話を聞かせてほしいんだ。じゃあ、お休み」
それだけ言った僕は、灯りを消してテレビの前のソファに倒れ込んだ。




