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時の流れは、一瞬にして

 次の指摘もコーラに関するものだった。

「こんなことを訊くと怒るかもしれないけど、確認のためなの。そこは分かってね」

 とトリエステは言った。

「今日あなたが飲んだコーラは、全部で何本だったか覚えている?」

 僕の家系は、先祖代々数学が苦手。

 僕の体にもそのDNAがたっぷり詰まっているからだろう。僕は幼稚園に入る前から、数字を数字として見ることができなかった。

 1は初めてナイフを使った日につけた小さな傷。

 2は白鳥。

 3は横向きのお尻。

 4は出来損ないの相合い傘。

 5はちょんまげ侍の耳。

 6は丸まった象の鼻。

 7は地上の北斗七星。

 8は横に飛ぶ蝶。

 9は片方の芽を摘まれた朝顔の新芽。

0は卵。

 20は白鳥が産んだ卵になり、36は、おしりの臭いを嗅ぐのが大好きな象。

 98は、体の半分を失った朝顔の新芽を励ます蝶で、33333は、ガラスでできた公衆トイレ。

 そんな具合だったから、足し算引き算あたりで、もうお手上げ状態だった。

でも、生活していくうちに、最低限の計算はできるようになり、今では計算機さえあれば、定価の半値八掛け二割引の計算も大丈夫。

 しかし、ときどき位取りや、式そのものを間違えることがある。

 現れたとんでもない数字に、自分でもびっくりすることもあるが、今トリエステが言った程度のことなら即答できる。

「三本と二分の一」

 僕は、はっきりとした声で言った。

 また、ピンポーンと言うのかなと思っていると、返ってきたのは、素っ気ない声だった。

「もう一度、言ってみて」

経験から言うと、こういった口調の場合、僕の答は100パーセント間違っている。

 でもいくら考えても、それ以外の答はでてこなかった。

 どこが間違っているの?

 と言おうとして、ふと、思った。

 これは、算数ではない。ナゾナゾだ。

 だとすれば慎重に考える必要がある。

 僕は何回か、その手のナゾナゾに引っかかったことがあるのだ。


「子供向けの問題なんだけどな」

 とPは言った。

 風邪で幼稚園を休んだ太郎に、花子が訊くんだ。

『どうして幼稚園を休んだの?』

 でも、太郎は答えない。何度訊いても答えないんだ。

 すると、花子の横を一匹の牛が通った。

 牛は、大きな声で、モーと鳴いた。すると、どこからか、チョウチョがひらひらと飛んできて牛のあとをついていった。

 それを見ていた花子は、なるほどそうかと思った。

 はいここで問題です。太郎の病名は何でしょう」

 話を冷静に聞いていれば、病名は分かる。

 だが、子供向けの問題、という言葉に安心した僕の耳は、風邪で幼稚園を休んだ太郎という、肝心な部分を聞き逃してしまった。

 こんなナゾナゾのどこが面白いのだろう。なんでこんなつまらない問題を出してきたのだろう。

 そんなことを考えながら、僕は答えた。

「盲腸」

 ギヒヒヒ、

 と笑ったあと、Pが訊いた。

「どうして、そう思ったんだ」

「だって、モーの後に、チョウチョとくれば盲腸しかないだろう」

「自信は?」

「もちろん百パーセント。なんなら一万円賭けてもいい」

 ほぉーっ、

 ため息に似た声を出したPは、珍しいものでも見るような目で僕を見ながら言った。

「お前みたいな人間ばかりだったら、詐欺師は楽だろうな。何の心配もなく、のびのびと仕事ができるわけだからさ」


「ねえ」とトリエステが言った。「本当に三本と二分の一だと思っているの?」

 口調からすると、ナゾナゾではなかったようだ。

 僕はしばらく考えた。

 僕の言い方が悪かったのかもしれない。トリエステは、何本かと訊いた。三本と二分の一、と答えたのがまずかったようだ。

「3・5本と言えばよかったんだね」

 今度は間違いないと思った。

 だが、トリエステは、長い長いため息をつくと、独り言のような声で、ぽつりと言った。

「可哀相に」

 その言葉にカチンときた。

 小学生時代、何人もの同級生から言われたセリフだった。

 僕は自分が数字に弱いのを知っている。

 8+8=

 というテスト問題に「この蝶々はモンシロチョウですか、アゲハチョウですか」と訊いたことがある。

 僕のことをよく知っていた先生は、優しい声で説明してくれた。

「それは蝶々じゃないのよ。数字の8なの」

 ますます分からなくなった。

「蝶々が大きくなると蜂になるんですか? その蜂は、僕を射すんですか?」

 作り話だと思われるかもしれないが、本当のことなのだ。

 一人の生徒が笑い出すと、堰を切ったように全員が笑い出した。担任までもが涙を流して笑った。隣のクラスの担任が様子を見に来たぐらいの大爆笑だった。

 でも僕に嫌な思いはなかった。

 自分がお笑い芸人になったような気がしたのだ。笑われているのではない。笑わせている。そんな感じだった。

 だが、同情されたとなると、黙ってはいられない。

「僕のどこが可哀相なんだ」

 思った以上に大きな声が出た。自分の頬が引きつるのが分かった。

 ところが意外なことに、冷静な声が返ってきた。

「なにか勘違いしているんじゃないの? 私が言ったのは、あの子のことよ」

 カッとなっている僕には、あの子が、誰なのか分からなかった。

「あの子って誰なんだ」

「あああ、ますます、あの子が可哀相」

 今度はがっかりした声だった。しかしそのあと、急に声が明るくなった。

「あ、そうか」トリエステは嬉しそうな声でつづけた。「あなたとは、もう縁が切れたわけよね、あの子」

 そこでやっと、トリエステが言っているのはコンビニの女の子だということに気づいた。「切れたわけじゃない」僕は早口で言った。「まだ繋がっているんだ。声だけオンナのせいで変な具合になっているだけなんだ」

 自分でも口が滑ったのが分かった。

「ちょっと、待って」

 思った通り、話を遮ったトリエステが皮肉たっぷりの口調で言った。

「声だけオンナって誰のことかしら。声だけオンナ様は、どこにいらっしゃるんでしょうか」

 そう来られると、何も言えない。

「いや、あの、その……」

 典型的なしどろもどろ状態に陥ってしまった僕に、トリエステが言った。

「声だけオンナは、あなたの妄想が作り出した女でしょ」

 そして、念を押すように付けくわえた。

「違う?」

「その通り」

 と言うしかない。

 これから、トリエステの追求が始まると思った。

 あの子との縁が切れたのは、私のことを忘れていたからよ。天罰だったのよ。

 そんな言葉を連想した。

 だが、予想は良い方に裏切られた。

「でも、そんなことはどうでもいいの」

 トリエステは落ち着いた声で言った。

「私が言いたいのは、あなたにとって一番大切なコーラを、どうして忘れていたのかっていうことなの」

 その言葉で、コンビニのあの子と出会ったのは、昨日だったことを思い出した。

 でも、なぜか、昨日のことが、ずっとずっと昔のことのように思えた。

 しかし、製材所跡地に行ったのも、

 自動販売機が故障していたのも、

 コンビニでコーラを買ったのも、

 パソピアを紹介してもらったのも、

 お婆さんから古いノートパソコンをもらったのも、

 昨日のことだったことに間違いない。

「時の流れは速いと言うけど」と僕は言った。「場合によっては、ずいぶんスピードが変化するみたいだね」

「どういうこと?」

「昼からのことは、ついさっきのことだと分かるんだ。でも、夜中のこととか、昨日のことになると、遠い遠い昔の出来事のような気がするんだ。まるで記憶の順番が入れ替わったみたい」

「私と出会った日のことはどうなの?」

 とトリエステが言った。僕は確認のために訊ねた。

「十年前のあの日のこと?」

「そう、あなたが私に触れたあの日のことよ」

 僕は、十年前の記憶を呼び起こした。

 とても鮮明な映像が浮かんできた。

 同時にあの日、僕の指先から電流に似たようなものが流れ込んできたことを思い出した。 そのことをトリエステに言おうとしたが、思いとどまった。言わない方が良さそうな気がしたのだ。

「君のおかげで、思い出したよ」

 と言ったところで、強引に話題を変えた。

「確かに僕は夜中にコーラを一本飲んだ。コンビニで買った奴だ。君に見せつけるようにして飲んだよね」

 トリエステが出会いの日に話を戻すんじゃないかと思ったが、杞憂におわった。

 僕の話に合わせるような質問をしてきた。

「じゃあ、改めて訊くけど。あなたが今日飲んだコーラは何本?」

 僕は笑顔を浮かべて答えた。

「四本と二分の一、もしくは4・5本」

 今度こそ間違いないと思った。

 だが、トリエステは不思議な反応を見せた。

 三秒ほど間合いを空けてから、

「二つとも間違いよ」

 と言うと、くすくす笑い出したのだ。

「何がおかしいの?」

「だってぇ」

 トリエステは、笑いをこらるようにして答えた。

「時の流れが、一瞬で言葉の意味を変えることがあるからよ」

 意味が分からなかった。

「ヒントはないの?」

「あるわよ」トリエステは即答した。「今日のあなたは、一滴のコーラも飲んでいないはずよ」

 ヒントの中で、トーンの違うところが一カ所だけあった。

 今日?

 閃いた。

 僕はゆっくりと体をねじって、壁時計に視線を向けた。

 時計の針は、午前零時を少し回ったところを指していた。


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