機嫌を直してお話ししましょ
風呂から上がり、着替えをする段になって迷ったことがある。
でも、大したことではない。
何を着るかだ。
どうしてそんなことで?
と言われそうだが、わけがあって、スーツにしようと思っていたのだ。
でも僕は考えを変えた。いつものようにパジャマに着替えることにした。
「ねえ、何をぐずぐずしているの? おぼれちゃったんじゃないでしょうね」
またしても、聞こえてきたからかうような声に、ムカッときたからだ。
と同時に、僕自身にも苛立ちを感じた。
相手は音声認識ソフト。分かっているのに、すぐ反応してしまった自分がたまらなく嫌だった。
苛立ちを抱えたまま洗面所を出た僕は、わざと勢いをつけてベッドの縁に腰を下ろした。
そのはずみにベッドが揺れ、毛布が少しだけ捲れた。
結果として、その分だけノートパソコンの露出度が増えた。
きゃっ、何をするの。
そんな声を想像した。でも、思い過ごしだった。
その代わり、予期せぬ言葉が耳に入った。
「風呂上がりは、いつもそんな顔なの?」
疑問符付きの言葉に、僕はあわてて洗面所に走った。
朝剃ったばかりだったが失礼があってはならない。わずかな剃り残しもないようにと、たっぷり使ったシェービングクリームが残っていたのかもしれない。
だが、鏡を見ても、何も付いていなかった。
またしてもパソコンの言葉に過剰反応した自分が情けなかった。
このまま引き返すと、また何か言われそうな気がした僕は、台所の窓の施錠を確かめるふりをしたあと、冷蔵庫を開けた。
先ほどと同じ位置にゆっくり腰を下ろした僕は、コーラのキャップをひねりながら訊ねた。
「僕の顔が、どうしたって言うの?」
「ずいぶん機嫌が悪そうに見えるの」
そう見えて当然だ。胸の中では怒りに似たものが渦巻いていた。
そんなことはないよ。再会を喜んでいるんだ。
と返すつもりだったが、勝手に口が動いた。
「実を言うと、僕はスーツを着るつもりだったんだ」
一旦口から出たものは、元に戻せない。僕はボトルに口をつけたままの恰好で、反応を待った。
しかし、僕の言おうとしたことがうまく伝わらなかったようだ。
数秒して、思案するような声が返ってきた。
「何のために?」
僕はコーラを口に含んだ。そしてゆっくり飲み込んでから、思っていたことをそのまま言葉にした。
「君を淑女として扱うためだよ」
しばしの沈黙。
「まったく意味が分からないんだけど」
たぶん人間でもそう言うだろう。僕はパソコンに登録してある単語を確かめるために訊ねた。
「君は、スーツという言葉も淑女という言葉も知っているよね」
「もちろん存じ上げておりますわ、おほほほほ」
そんなふうに切り替えされるとは、思ってもいなかった。
この音声認識ソフトを開発した人物に敬意を表して、僕はほんの少しだけ笑ってやった。
「実を言うとね、僕の場合、服装や履き物を変えると、言葉づかいや仕種まで、がらりと変わってしまうらしいんだ。だから淑女に対して……」
と言ったところで、パソコンが話を遮った。
「実を言うとね、というのは口癖なの?」
完全に話の腰を折られた恰好になったが、不快感はなかった。同じことを何度も指摘された経験があったからだ。
「実を言うと、そうなんだ」
と言う僕に、すかさずパソコンが突っ込んだ。
「ほら、また言った」
そのとき、僕の脳裏に浮かんできたのは、大口を開けて馬鹿笑いしているPの顔だった。
映像を学んでいた頃、僕とPとの取り決めに、口癖を一回言う毎に、その場で三十円支払うというものがあった。
僕の口癖は「実を言うとね」で、Pは「そんなことはないだろう」だった。
そんなわけで、僕とPは、いつでも支払えるように、財布の他に十円玉を詰め込んだ小銭入れを持ち歩いていた。
ある日、裏通りで罰金の三十円のやりとりをしているところを、巡回中の婦警に見つかってしまった。
「こんなところで何をしているの?」
今もそうだが、僕は警察の制服を見るとなぜか緊張してしまう。ましてや、まだ若かったし、東京にも慣れていなかった頃だった。声をかけられただけで、体が強ばってしまった。
言葉は優しかったが、二人連れの婦警の目は、どちらもきつかった。
片方の婦警がPに言った。
「ちょっと、手の中のものを見せてくれない?」
だが、Pはそれを拒んだ。何も言わずに、駄々っ子のように首を横に振りつづけた。こんなに狼狽えたような動作をするPは初めて見た。
「見せられない理由があるのかしら?」
Pはその言葉を無視するように、婦警に背を向けた。
「あらっ」
僕の手の中の小銭入れに気づいた婦警が、僕の顔をのぞきこむようにして訊ねた。
「お金を脅し取られたんじゃないの?」
ここで僕が黙っていると、応援のパトカーを呼ぶ可能性がある。都会では、いつなんどき大事件が起きるか分からない。ささやかな僕たちのゲームのために、無駄な出動をさせてはならない。
Pの代わりに、説明するはめになった僕は、頭を掻き掻き口を開いた。
「実を言うとですね」
ギャハハハハハ、
突然Pが大声で笑い出した。そして、唖然とする二人の婦警を無視して、僕に片手を伸ばした。
「はい、また言いましたね。三十円ちょうだい」
そのときのことを思い出した僕は、思わず声を出して笑ってしまった。
笑いは心を解きほぐしてくれるというが、本当だった。胸の中の硬いしこりのようなものはいつの間にか消滅していた。
「笑ってないで、ちゃんと説明してよ」
口を尖らせたようなパソコンの声を聞いた僕は、根本的なことを質問していないことに気がついた。
「その前に訊きたいことがあるんだけど」
僕は毛布から半分ほどはみ出しているパソコンを、しばらく見つめてから訊ねた。
「君の目は、どこにあるの?」
「目?」
「そう、できれば口の位置も教えて欲しいんだ」
「どうして?」
「君の目と口を見て話をしたいからだよ」
それは本当だった。僕は本気で付き合う相手にはそうする。
「ああ、そういうことなのね」
そこでパソコンは、クスッと笑った。
「目と口だけでいいのね。その他の器官が、どこにあるかは答えなくてもいいのね」
妙に念を押すような口調。
その言葉を頭の中で反芻した僕は、自分の顔が赤くなるのが分かった。
「バカなことを訊くなよ」
思わず高くなった僕の声。でも返ってきたのは、冷静な声だった。
「ということは、あなたは男として正常な精神の持ち主ってことよね」
僕はパソコンを睨みつけた。
「もしかして、君の得意技は精神鑑定?」
「違う。ただそう思っただけなの」
パソコンは、そこで話を変えた。
「見ての通り、私には目も口も耳も鼻もないの」
「確かにそうみたいだね」
「どうして、あなたと会話ができると思う?」
僕はそのことについて考えてみた。
音声認識ソフトのおかげだろう。と答えると、場がしらけてしまう。
「運命の糸で繋がっているからだよ」
もちろんジョーク。だが、否定の言葉はなかった。
「そうよ、私たち絶対に結ばれるようになっていたの」
それだけはっきり言われると、理由を訊ねないわけにはいかない。
「じゃあ、君と僕はどんな糸で結ばれているのか説明してくれる?」
「いいわよ」
快く受けてくれたパソコンは「その前に、私からもお願いがあるの」と言った。
「これから、私を呼ぶときは、名前を呼んで欲しいの」
「分かった。そうするよ、トリエステ」
すると、どこかで聞いたようなせりふが返ってきた。
「いいな、いいな。そうやって、すぐ実行するところがいいな」




