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トリエステの目覚め

 身体をリラックスさせるには、湯船に浸かった方が効果があるらしい。

 でも毎回となると、一人暮らしにはお湯が勿体ない。残り湯を洗濯に使うという手もあるようだが、それは面倒だし、所帯じみている。

 お湯の止め忘れの他にも、そのような理由があってシャワーだけにしたわけだが、それとは別の理由もある。

 アパートの湯船が狭すぎるのだ。

 湯船というより四角い箱。手足をゆっくり伸ばすこともできない。だから、月に一度の割合で、近くの温泉施設に出かけるようにしている。

 でも、その習慣が始まったのは、ここ数ヶ月前から。僕が無職になってからのことだ。

 その施設はバイクで十分ほど走ったところにあって、うたい文句は源泉掛け流し。

 でも、ジャグジー、低周波風呂、サウナ、冷水風呂も揃っているし、手打ちそばコーナーもある。

 天井が高く、天気の良い午前中は大浴場の半分あたりまで太陽の光が差し込む。

 テレビやラジオでも宣伝していて結構繁盛しているらしいが、僕が行く時間帯は、ほとんど貸し切り状態。

 広々とした湯船で身体を思いっきり伸ばして、温泉と太陽を独り占め。身も心もリラックスできて三百九十円。温泉県に生まれた幸せを感じる今日この頃でもある。

 ま、それはともかくとして、アパートの湯船に浸かるのは数年ぶりだった。

 僕は手のひらをいっぱいに伸ばして、湯船の深さを測った。

 手のひら三つ分。約六十センチ。

 僕は、後頭部を湯船の縁に付けて、天井に顔を向けた。

 それから静かに目を閉じて、以前テレビでみた場面を思い浮かべた。

 マリアナ海溝の深さは、どれくらいだったっけ。

 しばらくすると、そのときの司会者の顔を思い出した。

 司会者は、マリアナ海溝の底にエベレストを置いたイラストを示しながら説明していた。

「この図で分かると思いますが、エベレストの頂上は海面より、千数百メートル下に位置することになります」

 そうだ、深さは約一万メートルだと言っていた。

 僕は目を閉じたまま、今度は湯船に顔を向けた。

 この湯船の深さは六十センチ。マリアナ海溝の最深部は、これの一万五千倍以上も深いところにある。

 僕は、その海底に横たわるトリエステという文字を想像してみた。

 最初に脳裏に浮かんできたのは、生きた化石と言われる奇妙な姿をした深海魚たちだった。そして、熱水を吹き出すチムニー。熱水の周りを取り囲む色素を持たない蟹の群。海底に泥のように積もったプランクトンの死骸とつづいた。

 でもそれらは全部、テレビ番組で見た映像ばかりだった。

 僕が見たかったのは、他人が撮った映像ではない。

 僕は何回か深呼吸を繰り返した。

 やがて、それらの映像は脳裏から消えていき、それに代わって暗黒の世界が浮かび上がってきた。

 当然、何も見えない。生物の気配すら感じさせない無の世界。

 しかし、それこそが、僕が待ち望んでいた映像だった。

 しばらくすると、闇が急に濃くなった。誰かが浴室の灯りを消したような感じがした。

 心細さに似たものが、僕の全身を覆い始めた。

 どれくらい経った頃だろう。僕の脳裏に、ゆらゆら揺れる薄緑色の発光体のようなものが浮かんできた。

 これが僕の記憶の奥底で眠っていたトリエステに違いない。

 そう思った瞬間、なぜか胸の奥がきゅんとなった。

 僕は小さな声でつぶやいた。

「君には、ずいぶん寂しい思いをさせたみたいだね。ごめんね、トリエステ」

 と、空から声が降ってきた。

「そんなことないわよ」

 驚いた拍子に、湯船の中で足を滑らせてしまった僕は、危うく風呂の湯を飲むところだった。

 誰? と訊かなくても分かるノートパソコンの声に腹が立った。

「スリーピングモードだったんじゃなかったの?」僕は天井をキッと睨んだ。「僕をからかっていたわけ?」

「バカなことを言わないでよ」ノートパソコンは、怒ったような声で言った。「今、あなたが起こしたでしょ」

「僕が?」

 と言ったところで、気づいた。

 さっきの僕のつぶやきが目覚めさせたらしい。

 やはり、トリエステという音の響きが、暗証番号の代わりだった。

 しかし、府に落ちないことがあった。

 どうして、あんな小さな声がノートパソコンまで届いたのだろう。どうして天井から声が聞こえてくるのだろう。

 そんなことはないと思いながらも、訊かないわけにはいかなかった。

「天井に隠れているんじゃないよね?」

「まさかでしょ」

 そこで言葉を句切ったパソコンは、くすくす笑い出した。

「もし質問があったら、こっちに来てからにしたらどう? そんな恰好じゃ風邪引くわよ」

 僕は慌てて湯船に身体を隠した。

「やっぱり、見えているんだね。天井にいるんだね」

「その発想が分からない」

 ノートパソコンは、呆れたような声で言い、笑いを含んだ声でつづけた。

「私にも、湯船の音ぐらいは聞き分けられるわよ」


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