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速すぎる効果

 アパートに帰り着いた僕は、まっすぐベッドに向かった。

「待たせてごめんね」

 それから財布の中に入れておいた紙片を取りだして、毛布からすこしだけ顔をだしているノートパソコンの上で、ひらひらさせた。

「ほら、ここに書いてあるのが、マリアナ海溝の海底から引き上げた君のコードネームだよ。これさえあれば、また君と話ができるんだよね、トリ、」

 あやうく、トリエステと言いそうになった僕は、あわてて紙片を財布に戻した。

 自分では冷静さを保っていたつもりだった。だが心の中には、すぐにでもパソコンと会話がしたいという気持ちが隠れていたようだ。

 本心を、ノートパソコンに気づかれたような気がした僕は、自分に突っ込んだ。

「なにが、待たせてごめんねだ。今もこのノートパソコンを、若い女の子だと思い込んでいるんじゃないだろうな」

 言葉に出したからだろう。パソコンの見え方が違ってきた。

 確かにそうだ。これは、変なお婆さんからもらった中古パソコン。音声認識ソフトがなければ、ただの箱。

 自分の太ももをパチンと叩いてベッドに背を向けた僕は、久しぶりに湯船に浸かって気持ちを切りかえることにした。

 僕はこれまで数回、風呂の湯を溢れさせた経験がある。

 階下に迷惑をかけることはなかったが、無駄な水道代と光熱費を支払うはめになった。それ以来、どんなに寒くてもシャワーだけで済ますようにしていた。

 念のために、携帯のアラームをセットしてから、お湯の蛇口をひねった。

 お湯がたまるまで、ソファに寝転んで待つことにしよう。

 携帯を耳元に置いて、目を閉じた。何回か呼吸をしたところで、いきなり目の前にコンビニの女の子の笑顔が現れた。

 ひっ、

 思わず、僕の口から悲鳴のようなものが漏れた。

 気がついたら、飛び起きて前後左右に視線を走らせていた。

 胸が、どきどき鳴っていた。

 もちろん、彼女はいなかった。

 前も言ったが、僕にとって人の顔や風景が映像として脳裏に蘇ることは、珍しいことではない。

 だが、今見えたのは、そんなレベルではなかった。

 生身の彼女がそこにいた、という感じだった。

 そのとき見えたのが、恐ろしい妖怪のような顔だったら、僕は目を閉じるという日常的な行為に、恐怖心を抱くようになったはずだ。

 僕にとって幸運だったのは、それが、コンビニのあの子の笑顔だったことだ。

 動悸は、いつしか治まっていた。

 彼女の顔が見えたのは天井だった。僕は、そっと天井に顔を向けた。

 天井には雨漏りのようなシミがあった。でも、人の顔に見えるようなものはなかった。

 かすかに揺れる蛍光灯の紐を見ながら、思い出した。

 そうだ、さっきは目を閉じていた。

 僕は、そっと目を閉じた。

 三十秒ぐらい待ってみたが、何も見えなかった。映像らしきものも、浮かんでこなかった。視界の中が暗くなっただけだった。

 おかしい。

 見えたのは確かだった。その証拠に、瞼の裏に残像のようなものが残っていた。

 僕は頭の上で両手を組んだ。そして、映像が現れるまでにどのようなことがあったかを思い出してみた。

 ある考えが浮かんだ。

 今の映像は、脳サーチと関係があるのかもしれない。

 目を閉じると潜在意識の中にあるものが、映像として浮かんでくるような仕組みが、僕の脳のどこかに出来上がったのかもしれない。

 でもPは、そんなことはひと言も言っていなかった。それどころか、彼は、脳サーチの効果が表れるまでには、とても時間がかかると言っていた。

 疑問が湧いた。

 考えてみると、僕の場合、最初の脳サーチを試してから数時間しか経っていない。

 効果だとすると、あまりにも速すぎる。

何度も脳サーチを繰り返したことがあるPが、岩下志麻の名前を思い出したのは四日後だった。

 だとすると、プチ記憶喪失の最中に僕が口走ったトリエステという言葉も、今の映像も、脳サーチとは無関係。

 と、そんな結論を出したものの、僕の気持ちは大きく揺れ動いた。

 そうかもしれない。いや、そんなはずはない。

 そうこうするうちに、さっきの笑顔は妄想だったのかもしれないと思うようになり、最後には、彼女の後ろに、大勢の人の笑顔があったような気さえしてきた。

 となれば、結論はこうなる。

 あの子の笑顔に見えたのは、僕の目の錯覚。

 そう思うことで、自分を納得させた僕は、アラームが鳴りはじめる前に、風呂に向かった。


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