空から舞い降りてきたもの
僕の記憶が戻ってきたのは、その直後だった。
すべての音が消えたと思ったら、頭上に何かの気配を感じた。見上げると、きらきら光る無数のものが空中を漂っていた。
本能的に、それが何であるかが分かった。
「お帰り」
僕の呼びかけに、漂っていたものが、ゆっくりと下降し始めた。
僕は視線を宙の一点に固定して、これから起こることを観察することにした。
形はどれも違っていた。
丸、三角、四角、八角、ダイヤモンドのブリリアントカットを思わせるものまで、ありとあらゆる形が振ってきた。
紙切れのようなもの、細い紐のようなもの。大きなもの、小さなもの。
まん丸に見えるものでも、よく見ると、それぞれ特徴をもっていた。
米粒、ひょうたん、梅干し、涙のしずく、金平糖。
雪の結晶、星の瞬き、タンポポの綿帽子を想像させるものもあった。
基調の色は白。でも中には、かすかな色彩を含んだものも混じっていた。
空から降ってきたものは、脳に触れた瞬間、映像となって蘇った。いくつもの映像が重なると、ただのまぶしい光りのかたまりにしか見えなかった。
最後の最後に、ひらひらと舞うように降りてきたのは、桜の花びらのような一枚。
その映像は、脳裏いっぱいに広がった。
僕が自転車屋の前で尻餅をついてから、このラーメン店の天井に向かって「お帰り」と呼びかけるまでのシーンだった。
すべての記憶が戻ってくるまで、何時間もかかったような感じがした。
店内のざわめきが、徐々に大きくなった。
「あのぉー」
遠慮がちな声が聞こえた。
女の子が、不思議そうな目で僕を見つめていた。
僕には、これから彼女が、何を言おうとしているのか分かった。でも、僕は笑顔をつくって「なに?」と言った。
「今、お帰りって言われましたよね?」
すると男の子が、彼女を肘でかるくつついた。
「余計なことを訊いちゃだめだよ」
女の子が口を尖らせて彼を見た。
「なにが、余計なことなの?」
「まあまあ、君たち、ちょっとまってくれ」
僕は二人の前に両手を広げて言った。
「その前に、君たちに質問があるんだ」
二人の視線が僕にきた。僕は彼らを交互に見ながら訊ねた。
「僕が、お帰りと言ったのは、どれくらい前だった?」
「えっ?」
二人は同時に、びっくりしたような声を出した。
「たった今です」
と男の子が答えた。
「私が声をかけるまで、三秒も経っていませんでした」
と女の子が、つづけて言った。
二人の言葉は、僕の心の中にすんなりとおさまった。
「ありがとう」
僕は二人に訊いた。
「誰に、お帰りと呼びかけたのか知りたくないかい」
「お願いします」
二人は同時にうなずいた。
それからあとは、僕のプチ記憶喪失の体験談になった。
二人は、ラーメンの味比べのことなどすっかり忘れて、僕の話に聞き入ってしまったから、せっかく用意してもらった三人分の取り皿とレンゲは、使われずじまいだった。
店を出たところで、二人は奢ってもらった礼を言った。でも、お礼を言いたいのは僕のほうだった。
僕が体験したことを聞いてもらったおかげで、自分の脳の内部で起きた現象が、現実の世界の中で起きていたことが確認できたからだ。
僕たちは名刺交換はしなかった。
三人とも名刺を持っていなかったこともあったが、女の子が「縁があったら、また会えるかも知れませんね」と言ったからだ。
「じゃあ、また会える日を楽しみにしているよ」
手を振る僕に、男の子が「あ、ちょっと待って下さい」と言った。
彼がズボンの後ろポケットから取りだしたのは、手帳だった。使い込んだ革の表紙がついていた。彼はその中の一枚を破いて僕に差し出した。
彼はすこし照れたような声で言った。
「忘れるといけないと思って、書き留めておいたんです」
紙片にあった文字は、トリエステ。
「ありがとう」
と言って受け取った僕は、五文字のカタカナに思わず見とれてしまった。
ボールペンで書き殴ったような感じだったが、目に訴えるものがあった。
僕は文字と、彼の顔を見比べた。
「これは、君が書いたの?」
「この子はですね」横から女の子が口を挟んだ。「気は利かないけど、字に関しては、けっこうすごいんです」
「もしかして、有名な書道家?」
思わずそう言いたくなるほどの筆跡だった。
「いえ」
男の子は首を振った。
「でも、それを目指しています。僕の夢は、世界に通じる書道家になることです」
紙片の文字を見つめる僕に、女の子が言った。
「私の夢も、訊いてほしいんだけどなあ」
急に甘えたような声になった女の子に、思わず笑ってしまった。
僕は、彼女の目をちゃんと見て訊ねた。
「君は将来、何になりたいの?」
彼女はにこっと笑った。
「世界中にラーメンを広めたいんです。キャビアラーメン、シシカバブーラーメン。シュールストレミングラーメン。どんな具にも合うベース味を作り出したいんです」
「君にだったらできるよ」
僕としては、単なる挨拶言葉だった。だが、彼女は「嬉しい」と言って飛び上がった。
「今まで、できると言ってくれた人は、誰もいなかったんです」
それから女の子は、僕をじっと見つめて言った。
「どうして、私にできると思われたんですか」
僕の脳裏に、ミスダツから聞いた言葉が浮かんできた。
「夢は絶対実現するようになっているんだ。ライト兄弟が初めて空を飛んでから、たった六十六年で、人類は月に着陸したんだからね。要は、途中で諦めないこと」
「ありがとうございます」
二人は揃って頭を下げた。
これほど気持ちのこもったお辞儀をされたのは初めてだった。
「でも、これは僕が考えたんじゃないんだ。受け売りなんだよ」
と慌てて付け足した僕に、女の子が「もし、よろしければ……」と言った。
「僕の夢?」
と訊くと、彼女はうなずいた。
僕は空を見上げた。相変わらず何も見えなかった。僕はそのままの恰好で頭に浮かんだ言葉を声にした。
「今の僕の夢は、自分が何をしたいのか、それを探し出すことかな」




