トリエステ浮上
店内には、揃いのTシャツを着たスタッフの活気溢れる声が飛び交っていた。
「いらっしゃいませ」
「お待たせいたしました」
「塩味は、どちらさまでしょうか」
「おつりは三百五十円です」
「またのお越しをおまちしております」
僕たちが案内されたのは、レジ横の四人がけのテーブルだった。テーブルには、氷水が入ったガラスのポットと、コップが置いてあった。
どっちが水を注ぐのだろう。
二人の前に腰を下ろした僕は、何も言わずに様子をうかがった。
コップに手を伸ばしたのは、予想通り男の子だった。
だが、女の子が、それを遮った。
「何をしているの?」
苛立ったような声に、男の子は、ぽかんとしたような表情を浮かべた。
「何をって、水を注ごうとしているんだ。君の分も含めてだよ」
すると、女の子は「そんなこと、見ればわかるわよ」と言って、彼を睨んだ。
「私が言いたいのは、今、しなくちゃいけないことから先にしなさいってことなの」
「今?」
男の子はコップを持ったまま、思案する顔になった。
「空気が読めない人は、これだから嫌なの」
と言った女の子は、バッグからスマホを取り出した。
「それだったら、食事のあとでと思っていたんだ」
男の子が、慌てたような声で言ったが、遅かった。
「すぐ、調べてみますね」
彼女は僕にだけ笑顔を向けると、スマホに口を近づけて、
「トリエステ」
と言った。
その声で、不思議な現象が起きた。
僕の頭の中に、軟らかい光りが灯ったような感じを覚えたのだ。
でも僕は、そのことは言わなかった。
しばらくスマホを見つめていた彼女が、顔をあげて僕を見た。
「イタリアに行かれたことはありますか?」
意外な質問に戸惑った。イタリアに関する僕の知識は、幼稚園生レベルだった。
「イタリアって、あの、パスタの本場の、長靴の形をした国のことですか?」
彼女は、にこっと笑って「そうです」と言った。
僕は海外旅行の経験はなかった。
「いや」
と言ってから、僕は彼女に質問した。
「どうして、そんなことを訊いたの?」
彼女は、スマホを僕に向けて見せた。
「今、グーグルで検索してみたんです。ウィキペディアによると、トリエステというのは、イタリアのヴェネツィア・ジュリア州にある都市らしいんです」
そこまで言うと彼女は、画面を何度かスクロールさせたあと、最初の画面にもどした。そして、小さなため息をついた。
たぶん、僕が何の反応も示さなかったからだろう。
「聞き間違えたのかしら」
気落ちしたような口調で言うと、スマホをテーブルに置いた。でも、彼女の顔は僕に向いたままだった。何か言いたそうな表情に見えた。
「何をですか?」
と僕は訊いた。
「さっき、言われたあの言葉です」
その時点において、自分で言った「トリエステ」という言葉は、僕の記憶の中に、残ってはいなかった。
「さっきの言葉って、何ですか?」
と僕は言った。
彼女は、何かを思い出そうとするように首をひねった。
「私には、間違いなくトリエステって聞こえたんです」
トリエステという言葉に、僕の中の、何かが反応しているのが分かった、
僕は、からだを乗り出して彼女に頼んだ。
「イタリアの他に、何か載っていないか調べてもらえませんか?」
彼女は笑みを浮かべて、再びスマホを手にした。
「でも、これは、ないと思います」
そして気乗りしないような声で、記載事項を読みはじめた。
「トリエステ号は、スイスで設計された二人乗りのバチスカーフである。マリアナ海溝における……」
ぱちん、
僕の頭の中で、何かがはじけた。




