記憶の奥底から浮かび上がってきたもの
自転車屋からラーメン店まで、二十メートルそこそこ。
ゆっくり歩いても三十秒かからない距離だ。
夜とはいえ、商店街は明るい。人通りも多い。すぐ横の二車線道路には、信号待ちをしている色とりどりの車の列。
夜風が運んでくる横断歩道の通りゃんせのメロディ。食欲をそそるとんこつスープの匂い。
ある意味、実に平和的な風景だ。
その中を、ゆったりと歩く僕。
だが、こういうところで、事件や異変が起こることもある。
だから、幾度となくこういうセリフを耳にするのだろう。
「こんなところで、こんな事件が起きるなんて思ってもみませんでした」
しかし、その日起きたことは、停車中の車から黒服の集団が降りてきて、通行人に向けて銃を乱射したとか、空から正体不明の物体が降りてきたというような、テレビや新聞のネタになるようなものではなかった。
事件ではなく、異変と言ったほうがいいだろう。
でも、その異変に気づいた人は、誰もいなかったと思う。なにしろ、僕自身も、それに気づいていなかったからだ。
そう、その異変は僕に起きた。それも、僕の脳の中でだ。
そのとき僕の脳の中では、記憶の部屋の大掃除が行われていたはずだ。記憶という形で詰め込んだままになっていた様々な情報。それを分別するための最初の作業だ。
と、いうような解釈をするようになったのは、ずっと後になってからのことだが、その時点で、何かがおかしい、という感覚だけは、僕の頭の中にあったように思う。
ラーメン店が近づくにつれて、周囲のざわめきが消え、なぜか頭の中がすっきりしてきた。
一歩進むごとに、気分が晴れやかなものに変わっていった。
僕は満面の笑みを浮かべていたと思う。口笛でも吹きたくなるような気分。ラーメン店の横に差しかかったころには、意味もなく笑い出したくなった。
箸が転がってもおかしい年代があると聞くが、そのときの僕は、呼吸をするだけで笑いがこぼれ、胸の中は幸福感ではち切れそうになっていた。
どうして、そういう心持ちになるのか分からない。
人生を楽しく過ごすコツは、過去のことをすべて忘れること。
そんなメッセージだったのかもしれない。でも、言い方を変えれば、僕の記憶の部屋は空っぽに近かったということにもなる。
つまり、僕にとって、ラーメン店の前に並んでいたカップルは、初対面の相手にしか見えなかったのだ。
もし、そのとき母親が通りかかって「何がそんなに楽しいの?」と訊ねたとしても、僕は真顔で「どちらさまでしょうか」と言ったに違いない。
「お怪我は、ありませんでしたか?」
とつぜん女の子に、声をかけられた。
びくっとして立ち止まった拍子に、僕の気持ちは平常に戻った。
僕を見つめていたのは、とてもかわいい女の子。でも、初めて見る顔だった。
すぐ横に、同じような年頃の男の子がいた。二人とも心配そうな表情で僕を見ていた。
僕は、彼女の言葉を頭の中で繰り返した。そして、心の中で言ってみた。
怪我だって? この僕が? どこを見てそう思ったの。
彼女が、何か勘違いしていると思った。
しかし、二人とも真剣な目をしていた。ここでいい加減な対応をすると、逆に失礼になる。
僕は、二人を交互に見てから口を開いた。
「どうして、そう、思ったんですか?」
僕より一回りほど年下に見えたが、敬語を使った。
「どうしてと、言われましても」
女の子が、戸惑ったような表情を浮かべると、男の子が代わってつづけた。
「ここから見ていると、頭を打ったように見えたんです」
何を言っているのか、訳が分からなかった。
男の子は、僕の後ろを指差した。
「あの辺りです」
二十メートルぐらい離れたところに、一カ所だけ暗くなっている場所があった。
「あそこで、転ばれました」
僕は、二人に視線を戻した。
育ちの良さそうな感じだった。どう見ても、通りすがりの人間をからかうような人種には見えなかった。
二人の首には、お揃いのイヤホンがかかっていた。二人は音楽を聴いていたのかもしれない。それも 大音量で。
音楽を侮ってはいけない。脳に意外な影響を与えることもある。
地獄の黙示録で使われたワーグナーの「ワルキューレの騎行」をぶっ続けで聴いたことがある。しばらくの間、思考回路がおかしくなったことを覚えていた。
二人に悪意はなさそうだった。彼らには、何かが、転んだように見えたのだろう。だとしたら、彼らの勘違いを解いてやろう。
「心配してくれてありがとう」
と言って、僕は両手を広げて見せた。
「ご覧のように、どこにも怪我は……」
と言ったところで、勝手に言葉が途切れた。
右手の小指の付け根に、血が滲んでいた。
いつ、どこで?
覚えのない傷を、ぼんやり眺めている僕の目の前に、ポケットティッシュが差し出された。
「これをどうぞ」
唾を付けなくても治るほどの傷だったが「ありがとう」と言って受け取った。
痛みはなかったが、血はまだ乾いていなかった。ティッシュに、わずかに血の跡がついた。
僕は、さっき男の子が指差した方に目を移して、記憶を探った。
だが、何も思い浮かばなかった。
頭の中が真っ白になるという状況は、何回か経験したことがあった。だが、それとは、まったく次元の違う感じがした。
頭の中に、無限の空間が広がっている。そんな感じだった。
ふと、思った。
転んだ拍子に、頭をどこかにぶつけたのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
女の子が言った。たぶん彼女も、僕が頭を打って記憶が飛んだと思ったのだろう。僕は素直な気持ちを彼女に伝えた。
「ひょっとすると、大丈夫じゃないかもしれないな」
それから僕は腰を屈めて、二人に頭を向けた。
「悪いけど、どこかに、傷がないか調べて欲しいんだ」
いつの間にか、自分の言葉遣いが変わっていた。でも、そのままつづけた。
「最悪の場合、救急車を頼む」
あとから考えてみれば、自分の両手を使って調べたほうがはやかった。どこを打ったかも、正確に分かる。だが、そのときは、そんな簡単なことさえ思いつかないほどの精神状態だった。
「どこにも、傷はないようです」
二分ほどたって、男の子が申し訳なさそうな声で言った。
「ありがとう」
と言ったところで、僕が立っているのは、ラーメン店の前だということに気づいたが、もちろん、その時の僕には、初めて見るラーメン店でしかなかった。
「ここのラーメンは美味しいの?」
と訊くと、女の子が小さく笑った。
「さっき、聞いていらっしゃったかもしれませんが、私たちそのことでケンカをしたんです」
さっき、聞いていらっしゃったかもしれませんが、の言葉の意味は分からなかったが、その事に対して質問はしなかった。僕はまだ幼さの残る二人の顔を見ながら言った。
「ケンカなんて言葉は、君たちには似合わないように見えるけどね」
女の子が、ちらりと男の子を見て言った。
「それが、会うたびにケンカばかりしているんです」
頭の中で、何かが光ったような気がした。
二人によく似たカップルを、どこかで見たような気がしたのだ。でも、それ以上のことは何も思い出せなかった。
「僕から、お願いがあるんですけど」と男の子が遠慮がちな声で言った。「一緒に、ラーメンを食べていただけないでしょうか」
即答しても良かったのだが、僕は、ひとつだけ条件を付けた。
「僕が君たちに奢るってことなら、オーケーだよ」
「ありがとうございます」
二人は、素直に僕の気持ちを受けてくれた。
「私からも、お願いがあるんですが」と女の子が言った。「どれが一番美味しいか決めたいんです。協力をお願いします」
話を聞いてみると、このラーメン店には、三種類のとんこつ味があると言う。
女の子は絶対に醤油味が一番だと言い、男の子は、塩味だと言った。
他愛ないゲームでも、やり方ひとつで、エキサイティングなものにすることができる。
僕は、残った旨みそ味を選んだ。
と、頭の上から、声が降ってきたような気がした。ビルの窓から誰かが呼びかけたのかと思った。
僕は、空を見上げた。
そこには誰もいなかった。ラーメン店は平屋だった。屋根の上に薄汚れたように見える空間が広がっているだけだった。
顔を戻そうとして、ふと、思った。
何も見えないけど、僕の視線の彼方には無数の星が輝いている。
雨の日、風の日、曇りの日。朝昼晩を問わず、雲の上には星空が広がっている。
とつぜん僕の脳裏に、幼いころ母親と二人で眺めた夏の星座が浮かんできた。
天の川に羽を広げた、はくちょう座。
どうして、こんなときに、あの星座のことを思い出したんだろう。
視線を戻そうとした僕の耳に、また声が届いた。
はっきりした声ではなかった。でも「深呼吸」という言葉だけが耳に残った。
てっきり僕は、男の子が言ったと思った。
「深呼吸がどうしたの?」
男の子は困惑したような声で答えた。
「僕、何も言っていませんけど」
そういえば、彼の声ではなかった。
空耳かな?
と思ったとき、ラーメン店の自動ドアが開いて、白衣のお姉さんが出てきた。
「お待たせしました」お姉さんは丁寧なお辞儀をした。「あと、五分ぐらいで席が空きます」
そして僕たち三人の顔を見回した。
「もしよろしかったら、注文をお聞きしたいのですが」
彼女の手には、ラミネート加工された写真入りのメニューがあった。だが、それは僕たちには必要なかった。
「僕、塩味」
と男の子が言うと、女の子がつづいた。
「私は、醤油味でお願いします」
お姉さんは、白衣のポケットから小さな手帳と、ボールペンを取りだして、
「塩一枚、醤油一枚」
と声に出しながら書き入れた。
「じゃあ、僕は、旨みそ味で」
と、言ったつもりだった。だが、お姉さんは、えっ、というような表情を浮かべて、僕にメニューを差し出した。
「ごらんのように、当店には、トリエステというラーメンはありません。この三種類の中から選んでいただけますか?」
トリエステ。
それこそ、僕の記憶の奥底に沈んでいたノートパソコンの愛称だった。つまり、ノートパソコンの暗証番号でもあったのだ。
だが、そのとき、僕の記憶のほとんどがどこかに行っていた。
残念なことに、僕は自分が発した言葉の重大さに気がついていなかった。
「あ、すみません」
僕は頭を掻いて謝った。
「僕は、この、旨みそラーメンでお願いします」
僕にとってありがたかったのは、二人の若者が「トリエステ」という言葉の響きに興味を持ってくれたことだった。




