ガラガラ、ドシャーンで消えたもの
急に視線の集中砲火を浴びる格好になったミスダツは、びくっとしたように体をねじって僕たちを見た。
「な、何だよ、おい」
慌てたような声。彼の頬は、赤みを帯びているように見えた。
すかさずマドンナの親友の一人が、数年前に還暦を迎えたミスダツをからかうような口調で言った。
「好きになるのは勝手ですけど、年を考えてくださいね。六十過ぎは、四捨五入すると百歳ですよ」
ピューッ、
誰かが口笛を吹くと、いっせいに笑い声が起きた。
生徒の間では、マドンナを見るミスダツの目は、いつもいやらしいという定説がまかり通っていた。どうやらそのことは、本人の耳にも届いていたらしい。
「俺も君たちに、言いたいことがある」
ミスダツは、開き直ったような口調で反撃に出た。
「俺が好きなのは、君たち全員だ。男も女も関係ない。特定の人間をひいきすることもない」
ミスダツは、そこで一息入れると講師の顔に戻った。そして、間合いを取るように、咳払いをひとつしてからつづけた。
「でも、特に好きなタイプの生徒は、と訊かれれば、俺はこう答える」
ミスダツは、自然な笑顔を浮かべた。
「たとえば、いつもバトル形式で授業を盛り立ててくれる、そこの二人のような」
と言ったところで、言葉を切った。
彼の視線の先に誰がいるかは、見なくても分かっていた。僕たちは、ミスダツに顔を向けたまま、次の言葉を待った。
だが、ミスダツは何もしゃべらなかった。呆れたような、感心したような、複雑な表情を浮かべて一点を見つめているだけだった。
そうなると、当然、生徒の目は、ミスダツの視線の先に向かう。
と、そこまで思い出したところで、異変が起きた。
ガラガラ、ドシャーン。
雷が落ちたかと思った。何かが崩れ落ちたような音。アニメ番組で聞くような大音響が、すぐ横で鳴り響いた。
耳を塞ごうとした拍子に、バランスを崩して尻餅をついてしまった。
何ごとが起きたのか、まったく分からなかった。気がつくと、辺りは暗くなっていた。
膝をついて立ち上がろうとした僕の背筋を、冷たいものが走った。
目の前の薄闇に、しろい物体がふわりと浮かんでいた。
しかも、それは、僕のほうに近づいてくる。
宇宙人?
それとも、ここは異次元の世界?
すぐ、そんなことを想像してしまうところが、僕の幼いところだ。
「だ、誰?」
僕は首をすくめながら問いかけた。
白い物体から、声が聞こえてきた。
「誰と言われても、なあ」少し間があって「自転車屋のおっちゃんや」とつづいた。
不自然な関西訛り。
僕は、そっと顔を上げた。
僕を見下ろしていたのは、初老のおっちゃん。白いつなぎ服を着た、みごとなスキンヘッド。
「大丈夫かいな、ほら、つかまりや」
おっちゃんは、手を差し出した。
「結構です」
明るい声で答えた僕は、弾みをつけて立ち上がると、両手でジーパンの尻を叩きながら、周りの様子をうかがった。
音の正体が分かった。
さびの浮いたシャッターが閉まる音だった。開いたままの、もう片方のガラス戸の向こうに、組立中の自転車が見えた。
「怪我せえへんかったか?」
「大丈夫です。心配かけてすみませんでした」
おっちゃんは、不思議そうな目で僕を見た。
「何してたんや、こんなとこで」
そんな質問がくるとは思ってもいなかった。でも、今の状況下で、見れば分かるでしょう、なんてセリフは言えない。
「ラーメンを食べようと思って、並んでいるところです」
「そやろと、思たんやけどな」おっちゃんは、腕組みをして、すこし首を傾げた。「それやったら、ここやのうて、も少し前に並んだほうがええんと違うか」
そこで僕は気がついた。
言葉づかいはやわらかいが、暗に、商売の邪魔をするなと言っている。毎日毎日、自分の店の前に並ぶラーメン目当ての客に、不満を持っているのだろう。
それだったら、僕に言わないで、ラーメン店のオーナーに言って下さいよ。
心の中でそう言った僕は、あることに気づいた。
僕の前にカップルの姿がなかった。いや、それだけではない。行列そのものが消滅していた。
一瞬、頭がくらっとした。
やっぱり、ここは、どこか違う世界。
観察するような目で、僕を見ていたおっちゃんが「ほら」と左手の親指を横に向けた。「ラーメンやったら、はよういかな、閉まってまうで」
おっちゃんが指し示した方に見えていたのは、さっきのカップルの後ろ姿だった。二人はラーメン店の、入り口の横にいた。
そこでようやく事態がのみ込めた。
なんだよ、もう。
僕の早とちり。勘違い。考え事をしている間に、行列が進んだだけらしい。
「ほな、わしは店を閉めるよって」
にこっと笑って、背を向けたおっちゃんに、僕は「ご迷惑をお掛けしました」と一礼して、ラーメン店に向かった。
風にのって漂ってくるとんこつスープの匂い。
その時点で、僕の五感の第一位の座を仕留めていたのは、間違いなく嗅覚。
脇の下に挟んでおいたDVD入りの袋が、どこかに消えてしまっていることに気づかなかったとしても、しかたない。




