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真実編

 壁が完成してからいくつ季節が変わったでしょうか。白の雪景色からまた花畑へ変わり、夏の緑になり、秋の赤になり、また白になり……。


 まるで、閉じ切った円状の城壁をなぞるかのように何度も繰り返しました。


 ここには必要なものが全て揃っていました。逆に不必要な不快の一切が排除されていました。カタツムリくんは幸せでした。なめちゃんがいつも傍にいてくれたからです。


 そしてもう一匹、大切な存在ができました。


「パパー、えほんよんでー」


「いいよ。何が読みたい?」


 大きなベッドで、なめちゃんとカタツムリくんの間に挟まっているのは二匹の子供、“こころ”です。

心だけは健やかに育ってほしいという願いを込めました。


「これ」

 こころが突き出したのは“裸の王様”でした。


「こころはこれ好きだね」


「うん! このえほんだいすき!」

 ベッドでこころが跳ねました。この絵本はもう何度も読み聞かせているのですが全く飽きる様子がなく、まるで最初に聞く絵本のように喜んでくれます。


「よし、じゃあ読むよ。“むかしむかし、とある国のある城に――」


 とはいえ、さすがにもう飽きてしまったのか、絵本を最後まで読み終える前に途中でスヤスヤと眠りに落ちてしまいました。


 カタツムリくんは半分ほどしか覆っていなかった布団の裾を引っ張って、こころに掛けてあげます。


「おやすみ、こころ、なめ」


「おやすみ、あなた。わたし今、とっても幸せだよ」


「うん、ぼくもだよ」


 カタツムリくんは明かりをイメージで消して布団にもぐりました。天井を見つめます。


 そうです。幸せなのです。カタツムリくんが真に恐れていることは、この幸せが崩壊することでした。まだ、試練は到来していません。壁も壊されていませんが、いつ敵がやってくるかわからないのです。守るべきものが増えました。自分を犠牲にしてでも守りたい家族です。守るだけの力があるか、自身に問いかけます。


 ある、絶対にある、と自分に言い聞かせるように答えました。能力の行使も最初の頃より段違いで向上しています。今も鍛錬は欠かしていません。たとえ何匹のなめくじが襲い掛かろうともはねのけられます。


 カタツムリくんに勝てる者は自分の知り得る中では誰もいませんでした。だからといって、油断はできません。明日も鍛錬を続けてこの幸せを守るのです。


 ただ、なにか根本的なことを忘れているような気がします。それを思い出さなければ本当の強さを手に入れることができない予感がありました。


 カタツムリくんは考えても結論が出なかったので眠ることにしました。



◆◆



「パパー、おそといこ」


「いいよ、いこうか」


 カタツムリくんは読んでいた資料から目を離して椅子から降ります。最近は能力開発の方もスランプに陥っていたので、たまにはたっぷりと遊んであげたいと思いました。


 こころと寄り添うように玄関を出ると一面の花畑に迎えられます。カタツムリくんは目の前に、ブランコ、シーソー、ジャングルジムをいっぺんに出現させました。


「今日はどれで遊ぶ?」


「うーん、こころ、すなあそびがいい」


「じゃあパパと砂でお城でも作ろうか」


 カタツムリくんは円形状の砂場を出現させました。


「ちがうの」


「もっと大きいのがいいの?」

 そう聞くと、こころは首を横に振ります。自身の欲求を言葉にできないもどかしさが表情に現れていました。


 少しして、こころは角を地面に向けて揺らしました。


「ああ、地面を掘るのか」


「うん!」

 こころは勢いよく頷きました。


 カタツムリくんは小さなスコップを出現させてこころに渡しました。不器用ながら角で受け取ると花畑の地面を掘り進めていきます。


「パパはあっち」

 こころはスコップを持っていない角で左側を指します。


「わかったよ」


 何度も地面から壁を生やしたことはあっても、直接地面を掘ったことはなかったなとカタツムリくんは思いました。


 自分用のスコップを新たに生み出し地面を掘り起こします。想像したよりも柔らかく、サクサクとテンポよく掘り進められました。花畑の下のチョコレート色の土がむき出しです。掘った穴から懐かしいにおいがしました。


 嗅いだことのあるにおいです。カタツムリくんは本能的に嫌なにおいだと感じました。今すぐ掘った土を戻してしまいたくなる衝動にかられます。


 穴掘りを止めよう、とこころに告げようとした瞬間、こころの甲高い声が遮りました。


「パパー、なにかあるよ!」


 カタツムリくんはこころの掘っていた穴を見ます。土でほとんど覆われていますが、確かに青い何かが埋まっていました。


「なんだろう、これ」

 カタツムリくんは動悸が止まりませんでした。嫌な汗が、たらり、と粘液となって体を伝います。


「こころ、もっとほってみるね」


 カタツムリくんは思わず「やめろ!」と言いかけました。こころはスコップで青の周りを削っていきます。


 出てきたのは蝶々結びの青いリボンでした。


 全てを洗い流す晴天のような青。青空の太陽の元に何もかもを溶かされ、美しさも醜さもむき出しにされてしまいそうな恐怖をカタツムリくんは覚えました。


「これ、なあに?」


「あ、ああ。これはリボンだよ。なめ……ママのリボンだ。ずっと前に失くしたって言ってたから返してあげないとな」


「わかった。じゃあママにあげるね」

 こころはそう言うと、スコップを放り出して家へ戻っていきました。


 カタツムリくんはなぜ自分がこれほどまでに恐怖を感じているのかわかりませんでした。なめちゃんが探していたリボンが見つかったのだからよいことのはずなのにです。


 腑に落ちないまま、こころを追ってカタツムリくんも家に戻りました。


「ただいま」


「おかえりなさい、あなた。大事な話があるの」


「大事な話?」

 いつにない真剣な顔つきに、ごくりと唾を飲み込みます。


「ええ、こっちにきて」


 カタツムリくんとなめちゃんはリビングに移動し、お互いに向かい合う格好でテーブルの席につきました。なめちゃんの隣にはこころが座って、青いリボンをいじっています。


「どうしたんだ。いきなり大事な話って」


「あなたはここから帰らなきゃいけないの」


「帰るって、ここは僕たちの家じゃないか」

 なめちゃんが何を言っているのか、カタツムリくんは理解できませんでした。そもそも帰る場所はこの家のはずです。


「この家じゃなくて元の世界に帰るんだよ」


「元の世界ってなんのことだ?」


「現実だよ。弱い自分を変えるためにこの世界に来たんでしょ」


「……あ、あれ、どうして今まで忘れてたんだろう」

 カタツムリくんは全てを思い出しました。学校の帰りに光の注ぐ場所へ行ったこと。その後を追ってなめちゃんが来てくれたこと。


「ここに長いこと居すぎちゃったのよ」


「そうだな。外の世界はどうなってるんだろう」

 記憶を取り戻して、両親や友人、学校の教師の面影が脳裏にちらつきました。ずっと帰っていないので、どれほど心配をかけてしまっていることでしょうか。


「時間の流れが違うから、半日ぐらいしかたってないんじゃないかな」


「半日!? 何年もここで過ごしたはずなのに。それじゃあ、戻ったらみんな驚くだろな。ぼくたちは大人になったし、子供までいるし」


「それは心配いらないよ。この世界はただの夢なんだから」


「はい?」

 夢? いったい何を。


「だから、ただの夢だよ。わたしも、こころも。成長したあなた自身も。現実に戻ったらわたしたちは消えて、あなたは元の姿に戻るよ」


 収まっていた動悸が、ぶり返しました。リボンを見つけた時よりもずっと激しく主張しています。


「夢って、どういうことだ? なめも、こころもはっきり目の前にいるじゃないか」


 カタツムリくんは立ち上がります。座っていたはずの椅子が派手な音を立てて床に転がりました。近づいて、なめとこころに触れます。生き物の、錯覚しようもない暖かさがありました。


 しかし、言われてみれば何かに欠けているような気がしました。最初にここにきて飲んだ紅茶のように。


 カタツムリくんはその感覚を頭を振って否定します。


「ほら、きみたちはちゃんとここにいる。夢なんかじゃない。なめ、さっきから言っていることがおかしいんじゃないか」


「今、わたしは本当のことを言っている。本当のことしか言っていない」


「わかった。仮に、きみの言っていることが本当だとして、その証拠がどこにある? ぼくたちが今いる世界が夢で、元の世界が現実だっていう証拠。そんなのどうやって判別すればいいんだよ。逆にこの世界が現実で、あっちが夢なのかもしれないじゃないか」


「カタツムリくん、現実は苦しいの。夢はただ甘いだけ。望みは何でも叶うけど、本物じゃない」


 カタツムリくんは笑いました。


「望みが何でも叶うなら、なんできみはそんなことを言うんだ? ぼくはきみにそんなことを言って欲しいなんて望んでない。夢は甘いだけ? ぼくは今、こんなにも苦しい。まぎれもない本物じゃないか」


「苦しいのは、これが試練だから」


「嘘だ。こんなのは試練でも何でもない。ただの戯言だ」


「カタツムリくん、またそうやって自分の殻に閉じこもるの? 必死に否定したって現実は何も変わらないんだよ」


「ぼくには何が現実で、何が夢かなんてわからないよ。そんなの、誰にも証明できやしない」


「そう、ならわたしが証明してあげる」

 なめちゃんはそう言うと、こころに話しかけました。


「こころ、リボン貸してちょうだい」


「うん」


 こころはリボンをいじるのをやめてなめちゃんに渡しました。なめちゃんはリボンをテーブルの真ん中に置きます。


「こんなの、ただの布切れだ。何の証拠にもなりやしない」


 なめちゃんが勇気が湧いてくると言っていたリボン。カタツムリくんはそれを見ても恐怖しか湧いてきませんでした。


「ねえ、覚えてる? リボンを取り返してくれたこと」


「そんなこと忘れたよ」


「嘘。ほんとは覚えてるくせに。忘れたくても忘れられていないはずなんだよ。わたしはあなたから出た夢なんだから。わたしが知っていることはカタツムリくん、あなたも知っているの」


「それで? リボンを取り返したのがぼくだろうと、他の誰かだろうと、そんなのに大した違いはない。なめ、きみの言いたいことがぼくにはわからない」


「違う。わかりたくないだけだよ。本当は知っている。このリボンを取り返す為に、何匹もの怖い同級生たちに、勝てるわけないって思いながらも懸命に戦った。怖くて震える体を前に進めて、最後にはリボンを手に入れた。カタツムリくん、あなたは勇者だった」


「あんなのはただの無謀さ。昔のぼくはバカだった。もっと賢い方法があった。リボンだって諦めて新しいのでも買えばよかったんだ」


 なめちゃんは、今にも泣きそうな顔をしていました。


「……ねえ、このリボンを見ると苦しくなるでしょう? それはね、カタツムリくんがわたしに見せてくれた勇気(リボン)現実(ほんもの)だったからだよ。この偽物だらけの世界でも、これだけは真実なの。信じて」


 カタツムリくんは首を横に振りました。


「逃げることはできても、逃げ続けることはできない。最後には絶対に向き合わなきゃいけない時が来るの。カタツムリくん、あなたがこの世界にきて最初にしたことは何? 現実のわたしと向き合うのが怖かったから、傷つく必要のない偽物のわたしを生み出した。わたしを作った後は誰にも邪魔されないために壁で覆った」


「壁は試練の対策――」


「違う、あなたは自分の理想の世界を守りたかっただけ。助けてくれる誰かさえ拒絶して。本当にこのままでいいの? これが最後のチャンスだよ。逃したらもう二度と元の世界には帰れない」


「ぼくは、」


 続きを言う前に、なめちゃんが遮りました。


「本当の試練を教えてあげる」


 テーブルの上に置いてあるリボンが宙に浮き宙に浮き、なめちゃんとこころの首に巻きつきました。その先はカタツムリくんの右角に結び付けられています。リボンを強く引けば二匹の命がどうなるかは明らかでした。


 カタツムリくんは必死にイメージで振り払おうとしましたが、現実のリボンを前に、夢の力は無力でした。


「なめ、やめろ! こころにもこんなことをするなんて、正気なのか!?」


「自らの手で、自身の幻想を打ち砕くこと。それが最後の試練だよ。カタツムリくん、あなたにその勇気がある? あなたの勇気をいまここで証明して」





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