『早春の足音と、秘密のチョコレート』
『早春の足音と、秘密のチョコレート』
### 1. 鼻先をくすぐる「甘い警戒」
二月に入ると、サチコさんの周りで不思議な匂いが漂い始めた。
それはいつものコーヒーやサツマイモの匂いとは違う、濃厚で、少しほろ苦くて、でもとびきり甘い……。
「先輩、今の匂い……僕、なんだか胸がソワソワするよ!」
チビがキッチンに向かって鼻をヒクヒクさせる。
僕は、キッチンの入り口でビシッと座り、サチコさんの手元を注視した。
サチコさんは、ボウルの中で黒くてツヤツヤした「何か」を練っている。
(これは……人間たちが『チョコ』と呼び、僕たち犬族にとっては『禁断の果実』とされる不審物ではないか?)
「チビ、ルーク。厳戒態勢だ。サチコさんが何か、とてつもなく魅力的な、そして危険なものを作っている」
### 2. ルークの「高度なバレンタイン分析」
生垣の隙間から、ルークが冷静な声(しかし喉は鳴っている)で解説を加えた。
「コタロウ、落ち着きたまえ。それは『バレンタイン』という人間界の伝統行事だ。大切な相手に感謝や愛を伝えるために、カカオの加工品を贈る儀式だよ。……ちなみに、僕の主人もさっきから台所で苦戦している」
「愛の儀式……」
僕は、あの「料理上手な男性」の顔を思い浮かべた。
最近、サチコさんがその人の話をする時、庭の梅の花が咲く時のような、温かな空気が流れる。
ソラが空から舞い降りた。
「ギィーッ! 街中の窓から甘い匂いが漏れているぞ。今夜は不審者の侵入よりも、甘い匂いに誘われた食いしん坊の迷い込みに注意が必要だ」
### 3. 事件:溶け出した「想い」
その日の夜。サチコさんが丁寧にラッピングした小さな箱を、リビングのテーブルに置いた。
「明日、喜んでくれるかな……」
彼女は少し不安そうに、でも幸せそうに微笑んで寝室へ向かった。
ところが、その夜は季節外れの「春一番」のような生暖かい風が吹き、暖房の余熱もあって、部屋の温度が少し上がりすぎてしまった。
「先輩、大変だ! 箱の中から『甘い涙』が溢れ出そうだよ!」
チビが異変に気づいた。ラッピングの隙間から、チョコの香りが一段と強く立ち上っている。このままではサチコさんの力作が形を崩してしまうかもしれない。
### 4. 警備保障、冷却任務!
「ルーク、今すぐ協力してくれ!」
僕は窓の隙間に鼻先を突っ込み、ルークに合図を送った。
ルークは自分の庭の雪解け水で冷たくなった外気を、その大きなサモエドの毛を扇風機のように使って、窓の隙間からリビングへと送り込んだ。
僕はテーブルの下に陣取り、自分の体から出る「冷たい冬の残り香」を逃がさないようにした。
チビは、一番風が通るルートを尻尾で扇ぎ、冷気を箱へと誘導した。
僕たちは、サチコさんの「想い」が溶けてしまわないよう、一晩中、その場所の温度を守り抜いた。
### 5. 春の訪れと、お裾分け
翌朝。サチコさんは箱を手に取ると、ホッと胸を撫で下ろした。
「あら……なんだかこの部屋だけ、シャキッと冷えてるわね。チョコも綺麗に固まったまま。よかった……」
サチコさんは、僕とチビに、チョコの代わりに**「最高級のボイルササミ・イチゴ添え」**を出してくれた。
「あなたたちも、いつも愛をありがとうね。これは私からのバレンタインよ」
庭に出ると、ルークとアーサー先輩も、同じように美味しいおやつを頬張っていた。
サチコさんのチョコは無事にあの男性の元へ届き、そのお返しとして、後日僕たちにはもっと大きな「お肉の詰め合わせ」が届くことになるのだが……それはまた別のお話。
「先輩、愛って美味しいね」
チビがイチゴを丸かじりしながら笑う。
「ああ。でも、それを守るのが僕たちの仕事だからな」
陽だまりの警備保障、バレンタイン任務完了。
庭の梅が、一輪、二輪と誇らしげに咲き誇り、三度目の春がもうすぐそこまで来ていた。
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