水底から這い出るもの
ぼこり、と水面が膨らんだ。
それは一つじゃなかった。
薬液の混じった濁った水の中で、赤い目がいくつも灯り、その直後に黒い影が次々と浮かび上がる。
「……うそでしょ」
レイナが息を呑む。
ルークも、思わず目を見開いた。
出てきたのは魚じゃない。
大きなトカゲに似た、水棲の魔物だった。ぬめった灰黒色の皮膚、横に裂けた口、短いくせに太い四肢。もともと貯水槽の底に潜んでいたのか、それとも別の場所から流し込まれていたのか――そんなことを考えるより早く、最初の一匹が足場へ這い上がってくる。
「おいおいおい、冗談だろ! まだ出るのかよ!」
カナンが叫ぶ。
だが、その叫びに対して白布の女は、足場の上から淡々と言った。
「まだ出るわよ。第一槽は餌場だもの」
「餌場って言ったか今!?」
「言ったわ」
なんでもないことみたいに返すその声に、ルークの背筋が冷えた。
人も、物資も、魔物も。
この女にとっては、全部が同じ“置き場所”なのだ。
「……最低だ」
ルークが低く吐き捨てる。
白布の女は、その言葉に少しだけ首を傾げた。
「よく言われるけれど、効率的と言ってほしいわね」
「言うわけないだろ!」
ルークが怒鳴った瞬間、最初に這い上がってきた一匹が飛びかかった。
「来る!」
ルークは反射的に《無限インベントリ》を開く。
「収納展開!」
足場の縁、その魔物の着地点に光の口が現れる。だが、巨大な水棲の魔物はそこへ前脚を突っ込んだだけで止まらず、そのまま顎を振り上げてきた。
「っ!」
ルークは身をひねってかわす。
すぐ横の手すりが、ばきん、と噛み砕かれた。
「硬っ……!」
「ルークさん!」
レイナの声と同時に、杖先から光が走る。
「《ライト》!」
魔物の目の前で光が弾ける。赤い目がぎらりと細まり、魔物は頭を振った。
「助かった!」
「助かった、じゃありません! 近いです!」
「ごめん!」
言い返しながらも、ルークはもう次の一手を考えていた。
水門からはまだ濁流が入ってくる。しかも、その水そのものに薬液が混じっている。長引けば長引くほど、水棲の魔物は有利になる。
まずい。
かなりまずい。
その時、カナンが怒鳴った。
「ルーク! 水門止められるか!?」
「完全には無理!」
「少しでもいい!」
「やってる!」
ルークは水門へもう一度手を伸ばす。さっきと同じように、濁流の一部を《無限インベントリ》へ逃がす。
ごっそりと水が消える。
けれど、それで全部は止まらない。
むしろ今は、貯水槽全体に広がった水と魔物の方が厄介だ。
その間にも二匹目、三匹目が足場へ這い上がってくる。
「増えてる!」
カナンが舌打ちした。
「なんでこう、嫌な方の予感だけは毎回当たるんだよ!」
「そういう才能なんじゃないですか!」
レイナが返す。
「嬉しくない才能すぎる!」
叫びながらも、カナンはちゃんと動いていた。細い足場を蹴り、一匹の横腹へ短剣を突き立てる。だが、水棲の魔物は森犬やゴブリンとは違う。ぬめった皮膚の下に筋肉が分厚く、浅い傷では止まらない。
「ちっ、通りが悪い!」
「じゃあそこ狙って!」
ルークが叫ぶ。
「首の下、柔らかい!」
「先に言えよ!」
「今分かった!」
カナンが半ば笑うように吐き捨て、刃の角度を変える。今度は首の下へ浅く突き上げるように刺した。
魔物がぎゃり、と嫌な声を上げて身をのけぞらせる。
「お、通るじゃねえか!」
「カナンさん、前!」
レイナの声。
別の一匹が、水しぶきを上げてカナンの背後から這い上がる。
ルークは咄嗟に足元へ収納口を開いた。
「収納!」
魔物の前脚が沈む。
体勢が崩れた、その瞬間――レイナの杖が振り抜かれた。
がつん、と予想以上にいい音がした。
「……レイナさん」
ルークが思わず言う。
「今の、かなり綺麗に入ったね」
「いま感想言ってる場合ですか!?」
怒られた。
だが、その一撃で魔物の頭がわずかに逸れたのは確かだ。カナンがその隙に飛び退き、逆手の短剣で喉元を裂く。
「よし、一匹!」
「いや、倒してない、まだ動いてる!」
「しぶといなあもう!」
◇ ◇ ◇
上段の足場では、白布の女がまだ平然と立っていた。
その隣でマルクが低く言う。
「第一槽をここまで使う必要がありましたか」
「必要よ」
女は目も動かさず答える。
「あなたが東部詰め所を始末し損ねたから」
マルクの口元が引きつる。
「……足止めにはなったはずです」
「その足止めを抜けて、ここまで来られてる」
淡々とした言葉だった。
だが、その言い方は刃物みたいに冷たかった。
ルークは、そのやり取りを聞いて確信する。
この女が上だ。
マルクより、もっと上の位置にいる。
「おい!」
ルークは上へ向かって叫んだ。
女の視線が、初めてちゃんとこちらへ落ちる。
「なに?」
「なんでこんなことしてる」
自分でも、少し変な問いだと思った。
今さら理由なんて聞いても仕方ないかもしれない。
でも、聞かずにいられなかった。
女は少しだけ考えるように黙り、それから言った。
「流れを作るためよ」
「流れ?」
「物も、人も、街も。澱むと腐るでしょう?」
意味が分からなかった。
レイナも、はっきり眉を寄せる。
「……何を言ってるんですか」
「そのままの意味よ。王都は抱え込みすぎる。ベルクハイムは滞る。ラウネスは流し込まれすぎる。だから調整するの」
ぞっとするほど、普通の口調だった。
狂っているようにも聞こえない。
むしろ、自分のやっていることを本気で“整えている”と思っている声音だった。
「人を荷物みたいに扱っておいて、調整?」
ルークが吐き捨てる。
「荷物じゃないわ。資源よ」
その一言で、ルークの中の怒りが完全に形になった。
「……やっぱり最低だ」
女は肩をすくめた。
「感想は自由よ。でも、もう遅い」
その指先が、さらに奥の足場を示す。
ルークが反射的にそちらを見る。
そこにはもう一つ、大きな鎖車があった。
第一槽だけじゃない。
「まさか……第二槽も?」
レイナが息を呑む。
女は、ようやく少しだけ笑った。
「察しがいいのね」
「ふざけるな!」
ルークは怒鳴ると同時に走り出していた。
カナンもすぐに続く。
「おい、上行くぞ!」
「レイナさん、水棲のやつは!?」
「止めます!」
その返事は、思ったよりもずっと強かった。
レイナは一歩前へ出ると、杖を両手で握りしめる。
「《ライト・バースト》!」
今までより大きな光が、貯水槽の中央で弾けた。
白い閃光が水面を舐めるように広がり、這い上がっていた魔物たちが一斉に頭を振る。
「うわ、まぶしっ!」
カナンまで叫んだ。
「カナンさんまで見ないでください!」
「しょうがねえだろ!」
でも、その光で十分だった。
水棲の魔物たちがひるむ。
その間に、ルークとカナンは上段へ続く鉄の梯子へ飛びついた。
◇ ◇ ◇
「止めろ!」
ルークが叫ぶ。
上段の男たちが一斉に振り向いた。
白布の女のそばには三人。
鎖車の近くに二人。
さらに奥の通路にも二人ほど。
多い。
だが、もう関係ない。
「ルーク、右!」
「うん!」
カナンが先に足場へ上がり、右の男へ短剣を振るう。男は咄嗟に棒で受けたが、その衝撃でたたらを踏む。
その横を抜けて、ルークは鎖車へ向かった。
止めなければ。
第二槽まで開かれたら、本当に全部終わる。
その前に、マルクが立ちはだかる。
「行かせるか!」
短剣が閃く。
ルークは咄嗟に腕で受け流し、そのまま手首へ収納口を開いた。
「っ!?」
マルクの握っていた短剣だけが、すぽりと消える。
「なっ――」
「悪いけど、それ借りる!」
ルークが肩で押し込む。
マルクがよろめく。
だが、それでも男は諦めなかった。拳でルークの脇腹を打ち、強引に距離を取る。
「収納頼りのくせに!」
「使えるもの使って何が悪い!」
言い返しながら、ルークは鎖車へ手を伸ばす。
「部分収納!」
留め具だけを狙う。
だが、狙った留め金は一つ外れただけで、鎖車全体は止まらなかった。
「固っ……!」
「当然でしょ」
白布の女が言う。
その声と同時に、彼女の袖口から細い刃が飛び出した。
暗器だ。
ルークは身をひねって避けるが、頬を浅く切られる。
「っ……!」
熱い。
血が一筋流れた。
「ルーク!」
カナンの声。
見ると、彼も二人を相手にしながらじりじり押されていた。
マルクまでこちらへ戻ってきている。
下ではレイナが魔物の足止めをしているが、長く持たない。
急がないと。
「ルークさん!」
下からレイナの声が飛ぶ。
「鎖そのものじゃなくて、土台の方!」
ルークは一瞬で意味を理解した。
鎖車は頑丈だ。
でも、それを支えている木台は古い。
ルークは視線を落とす。
たしかに、鉄の機構を支えているのは分厚い木の台座だ。
「なるほど!」
「気づくの遅くないか!?」
カナンが叫ぶ。
「今気づいたからいいんだよ!」
ルークは踏み込み、木台へ手を向ける。
だがその前に、白布の女が初めて自分から動いた。
軽い。
音がしない。
長衣の裾をほとんど揺らさず、一直線にルークへ迫る。
「あなた、ほんとうに邪魔ね」
近い。
思ったより、ずっと近くで声がした。
次の瞬間、女の手のひらがルークの胸元へ触れた。
衝撃はなかった。
なのに、背骨の内側を氷でなぞられたみたいな嫌な感覚が走る。
「がっ――」
呼吸が、一瞬止まる。
「ルーク!」
カナンが叫ぶ。
白布の女は、その隙に低く囁いた。
「あなたの“中”、見てみたかったのだけど」
意味が分からない。
でも、その言葉がひどく嫌だった。
ルークは本能的に女の腕を払いのけ、よろけながら後ろへ飛ぶ。
「触るな!」
自分でも驚くくらい強い声が出た。
女はそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「……今の感触、やっぱり面白い」
「何言って――」
言い終わる前に、下からレイナの悲鳴が上がった。
「きゃっ!」
「レイナさん!?」
振り向く。
下の足場で、水棲の魔物の一匹が、光を抜けてレイナの目前まで迫っていた。
大きく裂けた口。赤い目。濁った水しぶき。
そして、そのさらに向こう――
第二槽の鎖が、ぎり、と今にも外れそうな音を立てていた。




